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傍島康始|ブログ

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共鳴の感覚をつかんでいく

 

楽器の調律をするのに用いる音叉では、

周波数ごとに使い分けられているのを知った時、

それほど種類は多いわけではないものの、

特定の周波数では、その周波数でしか反応しないとあって、

目には見えないものの不思議さを感じました。

 

これは、人と人との「気が合う」みたいな、

発している気というか、エネルギーというのか、

そういう目には見えないけれど、

何かしら感じ取るものがあることと同じで、

似た者同士が出会うことに近いのかなと思います。

 

そういう生命の振動のようなものがあるのなら、

引き合うようにして出会った者同士は、

「共鳴」しているとも言えるのではないでしょうか。

 

勝海舟か、坂本龍馬が言ったとされる表現で、

西郷隆盛の人となりを称して、

「大きく打てば大きく響き、

小さく打てば小さく響く釣鐘のようだ」というのがあります。

 

もちろん、自分自身で大きく響くことができるのが、

誰の力を借りない点では、良いのかもしれませんが、

たとえ、自分自身が率先して何かをやったり、

何か意見を言い出したりすることができなくても、

せめて相応の反応はできるようにしておくと、

協力を仰いで物事を進めることができるように思います。

 

そして、相手が強いエネルギー溢れる人であれば、

西郷隆盛もまた、そのような人物として目に映るし、

逆の場合であれば、そうは思えないということになりそうで、

翻って、自分自身のエネルギーの度合いが明らかになってしまいます。

 

西郷隆盛を相手にすることのみならず、

自分自身がどうであるかというのが、

出会う人や、その人たちの反応によって、

鏡に映るようにしてわかることがわかれば、

そこからさらなる成長なり、改善なりをして、

自分の望む方へ進むのが良いことでしょう。

 

もしも、これから出会っていきたいような人の、

特徴や共通点、性格といったことまで明らかにして、

自分もそうであろうと思っていれば、

きっと似た感覚を持つ人を引き付けるように思います。

 

このことを、おそらく簡単に言うのであれば、

むつかしい顔をして、険しい雰囲気を出すのでは、

わざわざ近づこうと思う人はいないでしょうから、

非常にリラックスした状態で、上機嫌でいる方が、

愉快な人と出会っていく確率は上がっていくのは、

結構思い浮かべやすいのではないでしょうか。

 

そうして、人数の多い少ないところではなくて、

ひとりでもそういう人に出会っていきたいものです☆

 

 

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話す時間の長さと内容について

 

今時は、「茶をしばく」と言うのでしょうか、

それとも、俗語のひとつとしてあるのでしょうか、

詳細については、わかりかねるところが多いものです。

 

結局は、喫茶店・カフェで「お茶をする」ことなのですが、

お茶を一緒に飲むことだけでなく、会話を楽しむためでもあって、

お茶自体は、コーヒーに代替されることの多い今日この頃でしょう。

 

竹馬の友のような人と久闊を叙するのみならず、

街行くステキな女性に、ふと声をかけて、

親密になろうとする場合にも用いられるものですが、

そうして、何をどう話していくかによって、

心の距離が縮まることが好ましく思います。

 

ここで、大切というか、至極当然のことなのですが、

会話の内容がどう繰り広げられるかの方が、

どれだけの時間を話したかよりも比べるまでもなく重要で、

長い時間をかけたから最高というものではないのです。

 

これは、自分自身の体験でもわかることですが、

たとえば二人か三人くらいで会話をしている時に、

話題は尽きないし、ポンポン弾むように会話が続くのなら、

結果として、長い時間が経っていたということはあります。

 

逆に、まるでお仕着せの一問一答方式かのように、

「〜ですか?」、「はい、そうです」のように、

味気ない会話ばかりが続くようでは、

結局、お互いにわかることはほとんどないような気がします。

 

最近、自分自身の意識している「意識の階梯」において、

その人の真ん中にあるような考えや、大切にしている思いまで、

自分が話したいか、相手が知りたがっているか、

あるいは、その両方かで会話の内容が繰り広げられない限り、

決してお互いの(心の)距離は縮まらないような気がします。

 

そういう、人ひとりの成り立ちのような、土台の部分なくして、

どうして、その人の本質を知ることができるのだろうか、

少なくとも知りたいと興味を持つ人がいるのなら、

そこまで聞き知りたいなという思いは日増しに強くなっています。

 

心の奥底からの、その人となりを知るためには、

じっくりと会話の内容を掘り下げていく必要はあって、

数時間〜のような根気強さが求められるかもしれません。

 

自分自身の心の動きで、何をどう話したら、

あるいは、何をどう話したいのかがあるのかで、

その人への信用度合いを推し量る事柄はありますが、

それはここで明かす内容ではないので、それはまた別の話になります☆

 

 

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維新と革命の違いについて

 

以前、何かの本か何かで目にしたのですが、

維新と革命とでは、だいたい同じようなことだけれど、

言葉の定義としては異なるとありました。

 

確かに、世の中が変わるということでは、

だいたい同じように考えるどころか、

同じものとして考えているかもしれず、

しっかりと把握しておくことが大切だなと思いました。

 

しかし、いろいろな人の言説を見ていくにつれて、

それぞれの見解があるために、何が維新で何が革命なのか、

一定の合意が取れていないようにも思いました。

 

"維新"ということでは、19世紀末の明治維新が思い浮かびますが、

これは、決して革命(Revolution)ではなくて、

復古(Restoration)だという意味合いが強いようです。

 

だからと言って、オセロが白から黒へ変わるような、

見てすぐにわかるようなものでなく、

多くの人の思惑や意図も絡み合っているでしょうし、

制度や仕組み、あるいは外交のようなものまで含めると、

相当に複雑な要因の上で、成立していることがわかるものです。

 

そこでは、国体のような、少し抽象的なものまで含んでいるんので、

定義としてこうであると、決して断定はしにくいものだけれど、

およそでも、どういうものであったのかを考えることは、

物事の整理をする意味でも、大切なことのように思います。

 

維新とは対をなすように思う"革命"を考えてみると、

18世紀のフランス革命が思い浮かびやすいように思いますが、

これは、それまでの王政から市民が中心となるようになっています。

 

ここで、維新と革命の違いを、感覚的にとらえてみると、

維新では、容器は同じだけれども、

中身がお茶からジュースに変わる感じで、

革命は、容器もビンからペットボトルに変わり、

中身も、お茶から牛乳に変わっている感じかなと思います。

 

この容器や中身は、あくまで「たとえ」なので、

比較ができれば、別に何でも良いような気はしますが、

話の要点としては、国を治めるための大きな仕組み・制度は、

維新では、その前後で根本的に変わっているものではないけれど、

革命では、丸ごと変わっているようなものなります。

 

これは、国としてどういう枠組みなのかの、

土台となる"国体"が前後で変わっているかどうかで、

置き換えらるもののような気がします。

 

そして、具体的なところでの生活や政治の進め方は、

国体の変化に関わらず、どちらも変化していると考えられます。

 

詳細に吟味しながら議論してみれば、

とことん追求は尽きないでしょうが、

これをひとつのきっかけとしていきたいものです☆

 

 

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