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傍島康始|ブログ

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馴染みのあるなし

 

これは、自分がそうでないということに起因するのでしょうか、あるいは、それとは関係のないところにそれとなく理由があるのかもしれません。

具体的にそれが何かというと、誰かの名前を呼んだり呼ばれたりする時に、下の名前=ファーストネームで言うのかということになります。

自分自身、名字がいささか珍しいことに加え、相応のインパクトもあるために、呼ばれる時には"名字+さん"とか"名字だけ"ということがほとんどの場合になります。

それはすなわち、下の名前で呼ばれることが少ないということになるので、他の人同士で、「カズ」とか「マサ」とか下の名前で言い合っているのを見ると、何だか不思議な心地がするものです。

だからといって、自分もそう言われたいということでもなくて、どういうことで下の名前にするのか、または、それによる心境の変化みたいなところを、じっくりと考えてみたいという興味にかきたてられるだけなのです。

それに、いきなり「ヤスシ」と言われたところで戸惑ってしまい、あまり親切な対応はできないような気もするからです。

また、女性の場合では、男性の場合とはまた別の理路があるように思い、男女それぞれでの特徴をとらえておくということが、今後の何らかのために有用であるように思います。

これは結構家父長制における影響もなきにしもあらず〜といったところでしょうが、女性の場合では、自分と名乗る時も呼ばれる時も"下の名前+ちゃん"の傾向が強いように思います。

たとえば、「ミサトです」とか「ヒロコです」みたいに名乗り、それに"ちゃん"をつけて呼びかけることが、勝手な印象ではありますが、20歳代〜30歳代前半くらいまではそれが多数なのではないでしょうか。

一方、男性の場合では、別段自分の家系全体を背負っていないくても、名字を名乗ることが基本的なルールとしてあるような気がします。

そして、男女関係ないようなところでは、名字で呼ぶか、下の名前で呼ぶのかは、あくまで親しみの度合いとか、日頃の関係性とかによるのかなというところでしょうか。

あとは、相手がどう名乗るかによって、それがどう呼ばれたいのかにもつながっていくので、最初の自己紹介というのが結構大事になってくるように思います。

それをふまえれば、自分自身は、男女年齢関係なく、一定の距離感を保つ=敬意を表する態度をできるだけ貫きたいと思うので、"名字+さん"、"下の名前+さん"と、"相手の名乗る名前+さん"は崩さなくて良さそうにも思います☆

 

 

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均衡を保つかのように

 

時々、何かの均衡(バランス)を保つようにしたくなるのか、ボーダー柄(縞柄)の服か何かを身につけたくをなります。

普段は、白や黒の単色で無地のものが多いというのもあるでしょうが、それとは別にボーダー柄それ自体の魅力があるようにも思います。

単純な柄にして、見た目のインパクトもあるし、デザインとしても安定していて、広く人気を博しているようにも思います。

ボーダー柄(縞柄)の太さや間隔、または配色によって随分と印象が変わる点も取り上げられるでしょう。

また、少しややこしく考えるならば、基本的に線が横に伸びるデザインのため、普段立っている地面に対して平行になるというのが、気持ちの平衡にとってとても良い効果をもたらすのでは・・・、そんなことまで考えてしまうものです。

そして、それが線が円になることはあっても、ドット柄(水玉模様)においても同様のことが言える気もして、場合によってはどちらでも構わないのかなという気もします。

いずれにせよ、少し目先を変えたくなるという点では一致しているように思います。

さらには、なぜにそんなことを思って、実際に身につけることになっているのか、そこにも意識を傾けてみると、自分の思う/考えることの特徴や傾向がそれとなく知ることができるなんてことがあるのかもしれません。

それが、自分にとって固有のものなのか、または、総じてそういうことになっているのか、その差異を見極めていくことも良いのかな、そんな風にも思うものです。

平たく言えば、ちょっとこのところ食べ過ぎだなと思えば、食べることを控えるようになるだろうし、動きづめだなと思えば休息の時間を多めに取ることになるだろうし、自然と物事の均衡(バランス)を取っているとも考えられそうです。

多くの物事は、裏と表というか、あちらとこちらが背中合わせのようになっているもので、朝があるから夜がある、男性がいて女性がいる、起きているのと寝ていることなど、セットでとらえることができるものです。

普段の生活では、一日ごと、一週間ごと、一ヶ月ごとなど、それなりの区切りを意識しながら予定を組んでいると思いますが、それに合わせ、一定の周期として何かの手立てで均衡(バランス)を保つようにしてみることが大切なのかなと思います。

そのひとつとして、ボーダー柄(縞柄)の件もあるというように見てもらえたら良いなと思います☆

 

 

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先に言葉ありき

 

これは何度でも取り上げたくなるような事柄であるのですが、自分でも誰でも、どのような言葉遣いをするかによって、その後どのような道のりをたどることになるのか、そのことに強く興味を持ち続けていたいと思っています。

小難しく言うと、文体とかエクリチュールみたいな話になるし、ともすれば"運命"のような仰々しさを持つような言葉も、内容と紐づけて大いに活用したくなるかもしれません。

難解さにひるむことなく、正面から真っ向勝負を仕掛けるのも良い心がけですが、もう少し身近な事例を取り上げながら、それでもって本質的な部分までグイッと迫るようにして近づいていくことにしましょう。

また、日々の行い、日々の思考や感情のそれぞれの積み重ねがあって、それがひとかたまりとなるうちに、生活という範囲だけでなく、やがて人生という全体的なものに集約されていくということは、決して忘れてはいけないことのひとつであるように思います。

何を思って過ごしていくのか、それによって人それぞれの歩み方が異なるという点で、今一度考えてみたり、折に触れてとらえ直してみたりするのも良いことなのかもしれません。

「はじめに言葉ありき」とは、キリスト教の聖書の文言にあるということですが(新約聖書「ヨハネの福音書」)、人間の存在やその思考や感情といった諸々に先立って、最初にあるのは"言葉"ということです。

日本においても、50音あまりで(ほとんど完璧に)構成されている「いろは歌」があるように、あるいは、仏教もお経を唱えることがあるように、内容に先んじて言葉にまるわるものがあるように思います。

このあたりは、個別に掘り下げていくとわかることは多いでしょうし、興味深い事柄もあるわけですが、今はまだごく簡単に広く見渡していこうと思います。

平たく言えば、思考や感情においては、いろいろなものが脳裏や胸中に巣食っていると思いますが、それがどんなものであるのか、自分で把握するにも、誰かに伝えるにも何かしらの言葉が必要なだと感じるものです。

赤ちゃんの喃語のようなものでは、何も明らかにすることはできないために、言葉を重ねていくことで、茫漠としたものに輪郭を与えていくことができます。

たとえば、カメラで露出やピントを合わせていくような感じでしょうか。

冒頭の内容にも関連づければ、どこかに向かうにしても、漫然とどこかへ進むよりかは、地図で今の地点と行き先を知ることからはじめるという感覚に似ているのかもしれません。

そのために言葉を用いるということでもあるのですが、それは今後も引き続き考えていくべきことのように思います☆

 

 

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