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傍島康始|ブログ

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自戒を込めて述べるには

 

駅や街などの人の多いところを歩いている時、ケータイ(スマホ)を片手にして、歩きながら(すでに)いじっている、あるいはいじろうとしている人たちを見ると、自分はこういう人をあまり信用はしないだろうなと思います。

少なくとも、信用をしたくないなという思いが湧いてくるものです。

所詮は赤の他人であり、特に関わるようなこともないので構わないのですが、多くの人が行き交うような場所で、周囲への配慮は少なからずできた方が良いように思うためです。

また、手元の画面に見入り、いじっていることが過多な人では、中毒なのか依存なのかはわかりませんが、家族や友人などの身近な人や普段の周りにいる人に対しても、優しい眼差しを向ける機会はさほど多くはないようにも見えてしまいます。

優しい眼差しを向けることができないと、自分に向かっても優しい眼差しをする人が現れないだろうし、それはむしろ自らが先にやるべきことでもあります。

確かに、ニュースを見たり、音楽を聴いたり、ゲームをしたりと、ひとつの端末で数多くのことができるとは言え、歩くことを損なってまでやる必要はあるのか、それにはどうしても懐疑の念を断つことができません。

歩くことは、当たり前のことのように思いますが、その当たり前のことができていないことには、身体の歪みや頭痛の遠因にもなることがあるので、そこへの意識も向けていきたいものです。

また、駅のホームや電車の中でもそうですが、首の角度が極端に前に倒れている人を見ると、健全な姿勢を損なってまでも・・・(以下同文)。

少し本題とは外れますが、首には重要な神経や血管が束のように集まっているので、無理な角度で圧迫するようなことが続くと、男性の場合では特に、遠からず前立腺への影響があるという記事を見たことがありました。

うーん、首が折れでもしない限り、不随や不能が今すぐの危機ではないにしても、年月を重ねていくうちに抱えるだろう前立腺の悩みが、過ぎ去りし日々の無知が引き起こしたものだとしたら、悔やんでも悔やみきれないのではないでしょうか。

誰のためでもなく、今の時点で自分のことを大切にできないような人では、過去の自分や将来の自分にも敬意を払うことができなくなってしまいます。

自分の具合が良くないと、他の人や周りにも優しくはなれないもので、日頃から心身ともに健康であることを大切にして過ごしていきたいところです☆

 

 

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長い話

 

シンプルなタイトルとは裏腹に、今回は「長い話」にまつわることを取り上げてみようと思います。

単純に考えれば、長い話というのは、話す時間において長いということになりますが、この話が長いのと冗長なのとでは、いささか趣を異にすることを明らかにしておきたいところです。

聞いていて飽きない話というのは、起承転結がしっかりしているとか、次の展開が気になってしまうとか、いくつもの工夫が施されていることとに加えて、聞いているこちらとしても、いつの間にか興味を持って耳を傾けているということがあるでしょう。

この"話"が、講演とかスピーチでも構わないし、映画でも小説でも良いわけですが、夢中になっていたり、のめり込んでいたりするのであれば、時間の長さが念頭から離れて、内容に意識が向いているということになります。

長い時間を有効に使えるのであれば、いろいろ盛り込んでいくこともできるし、事例や比喩などを駆使して、よりわかりやすいようにもできるでしょう。

逆に、冗長だなと感じる、時間のことばかり気になるようでは、何かしら話す内容に問題があると言えそうです。

説教や小言でもそうかもしれませんし、酒席での自慢話や愚痴のようなものが、それに当てはまることが多いかもしれません。

(慣れても困りますが)不慣れな話し手自身の、話しているうちに何を言っているのかがわからなくなる(=話の迷子になる)、多少の表現は異なっても同じ話でループしているようなことがあると、聞いている方としては、内容以外のところで気になっている状態になります。

余談ですが、回を重ねるうちに多様な表現が身について洗練されるとか、話しているうちに的を射た表現が出てくるとか、繰り返すことで出てくる巧みさがあるのが悩ましいところです。

それが脚本や原稿であれば書き直すうちにより良くなっていくので、こちらは諸手を挙げて歓迎すべきところです。

こちらの場合では、スープや煮物をぐるぐるかき混ぜながらコトコトと煮込むようなもので、じっくりとやっていくことが大切かなと思います。

また、単純な時間の長さだけにとらわれないようにして、伝えたい要点を外さないという視点も忘れないでいたいところです☆

 

 

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どこまで走るのか

 

時間のある時には、少し汗をかくとか息を上げようと思って、近場をグルリ走って回ってみるわけですが、特に長い時間を走ろうとも、長い距離を走ろうとも思っているわけではありません。

それでも、わりと定期的にそうしているのが続くようになってくると、果たしてこれはどこに行き着こうとしているのか、一度にではないけれど時間や距離がそれなりに積み重なってくることについて、ふと考えることがありました。

特に走り出してしばらくの時間は、やがて自分に課したゴール(のようなもの)が訪れ、今日の分は終わるのだけれど、この走ることや走っている道が何につながっているのかについて思わず考えてしまうものです。

最近になって手に取った村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」(文春文庫/2010年)を読んでいると、それに対する解釈の糸口を、必ずしも能弁に語れるようになったわけではないけれど、かなりの部分でわかり得たような気がしました。

これは"走る"ことについての振り返りであり、自身でも「メモワール(個人史)」かもしれないとあるように、小説家としての歩みと走ることの密接な関係が記されています。

自分自身の今の気持ちとしては、どちらかというと"書く"ことについて、文体とかテーマの取り上げ方を知りたくて手に取ったわけですが、"走る"こと自体もその一部というか、分けて考えることにあまり意味がないように思いました。

走ること自体の肉体的な動きや、前に進むとか遠くに行くとかの物理的な移動が、そのまま小説家や人としての成長や時間を経ながら進んでいく様子、精神的な移り変わりといったことの言い換えであり、見え方は異なっているとしても本質的には同じようなことを言っているなと感じたものです。

この場合では、走ることはそのままひとつのメタファー(隠喩)であり、仕事でも生活全般でも走ることを通じてわかることが多くあるということなのでしょう。

具体的な何かを目指して懸命に取り組んでいく場合に、今のここから理想とする地平にまで行こうとするわけですが、逆に言えば、今の時点から愚直にはじめていくしかないわけです。

どこまで行けるものか、どこまでできるものか、自分の中にある才能や努力といったものを開花させるためにも、同時に走ることもしてみるのがきっと多くの気づきをもたらすように思います。

そうすれば、前向きに取り組む姿勢が、走る時の足を一歩ずつ前に出す視覚的なイメージと置き換わることもあるでしょう。

あるいは、視点をいくつか持ちながら自分のことを見ることもでるだろうし、具体的にもどれくらい進んでいるのかもわかるのかもしれません。

たとえ目指す地平は遠くとも、足元の一歩からはじめていくしかない、それでも前に進むこと自体は止めないようにしたいものです☆

 

 

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