SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Category: JAM SESSION (page 1 of 3)

市井の英雄<保存用>

 

「さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、四谷、赤坂、麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水ゥ~」

間もなく元号が変わろうかという頃合いの今、単に言いたいだけ&推していきたい"魔暦"では今年は21年、そして、4月19日の本日は私の生まれ出づる日であって、これはささやかに言祝ぐ所存でございます。

自らがささやかに言祝ぐものだけに、日頃ご愛顧いただいている皆様におかれましては、深く深く感謝を申し上げるばかり、それをもって速やかに切り上げるのも一思案ではありますが、それも何だか味気ない気もするもので、何かしら展開していけたら良いなと思います。

今の状況では、事情がいくらか錯綜しているために、わりとゴニョゴニョと言葉や表現を濁すところがあって、さてどう表したものかなと思いながら、どうにかこうにか話を進めていきたいと思います。

それでなくても、普段より思うことの仔細をあまり言わず、それゆえに何を考えているのかわからないという事態に、自ら陥ることさえあります。

これは、自分自身はどうしても"通り過ぎる者"としての側面が強いあまり、何でも思う通り話せば良いというものでないと考えているフシがあります。

絶えず"飛ぶ鳥あとを濁さず"に行くのもありますし、普段より多くの人が思っているであろうことと、自分自身の思っていることでは結構隔たりがあるような気がします。

あらゆる物事に本質があるとして、どれくらいの人がそこにタッチできているのか、あるいは、タッチするに向かっているのか、いくらかのやり取りで判断を下すことは難しいのではないでしょうか。

たとえば、自分自身では掘り下げて考えるのが好きなタチで、これは垂直方向に思考や感情を向けることで、できる限りとことん追求していきたいものです。

そうではなくて、何となく興味をそそられるものを片っぱしから知るとか、楽しいということに重きをおいて多くの表面をなぞるというのは、どちらかというと水平方向の動きになるのではないでしょうか。

氷の上をスケートで滑る場合、氷の下に何があるのかだなんて気に留めることがほとんどないように、スケートを楽しむ場合ではあまり考慮する事柄ではないでしょう。

それこそ、スケート場で、スコップかザイルかで氷を砕いて穴を掘っている人がいたら、それは"邪魔"であり"危ない"ということになります。

自分自身においては、滑ることより穴を掘って氷の下を調べたい、その後は元に戻して別のところを探り当てることをする、一方では、滑らかにスケートを楽しみたいという人がいる。

これは、どちらが優れているとか正しいということではなく、ただ志向の差異があるだけ、時には相容れないこともあるでしょうし、もしかしたら相容れないことの方が多いかもしれません。

感覚的には、ごはんが好きなのかパンが好きなのか、どちらも食べるけれど、どちらかがより好きだというようなことのようにも思います。

そうであるしても、同じところにいるにも関わらず、それぞれが何を思っているかで何をするかが変わってくるというのは、まことに興味深いことのように思います。

ただ、自分の強みが"通り過ぎる"ことそれ自体にあるのだとしたら、あちこちに移りながらしていれば、そこから立ち上がる何かが生じることもあるはずです。

それがかなうのであれば、何を求めることもなく、かつ、すでに手にしているものは多いはずで、それで十分であるように思います。

その場合では、具体的に穴を掘ることをしなくても、志向として穴を掘ることを思っているだけで、周囲に何らかの示唆をもたらすことができるのかもしれません。

あるいは、穴を掘っては埋める、また掘っては埋める、確かに元のようにするけれど、そこには掘って埋めた痕跡だか雰囲気だかを見て取れることもあるわけです。

自分の本分としては、あちらからこちらへと通り過ぎた後に巻き起こる小さなつむじ風のように、見えないけれど感じることができる、そんな何かをほのめかせたら良いのかもしれません。

決して邪魔はしないし危ないこともしないですが、あの人何だろうと思われながらも、しっかり物事の本質に行き着くようでありたいものです。

どこか煙に巻くようにして、サラサラ流れる水のように、あの人何だろうと思われるくらいが、自分のやりたいことをやれるというのはある気がします。

どうにもこのあたりは一筋縄ではいかない、自分の生来のクセ(=ネイチャー)だなと思う次第です。

たとえば、いきなり自分の主張を繰り広げるにしても、どういう考えの向きで、どれくらい考えているのかを明らかにする必要があります。

言いたいことを言うためには、前提となるところまで行き着くことが必要ですし、そこから何が積み上がって今に至っているのか、それをお知らせすることも大切なところです。

「今のあなたのご専門・立場はどういうものでいらっしゃるの?」と奇特にも尋ねていただける場合、率直に言えば「"目合研究家"です!」と申し上げたいものです。

会って間もない場合もそうですし、相応に過ごす時間が多くなっている場合においても、率直に言うことがあらゆる齟齬や誤謬を交えることなく伝わるかと言えば、きっとそうでないことの方が多い気がします。

「目合」とは?これは至言してしまえば"目を見る"ことに尽きるわけですが、その真髄を余すことなく知るためには、あちらへ行き、こちらへ行きと方々を遍く巡って、ようやくひと言で言えるということになります。

普段の生活においては、こういう話が合う状況や場合が少ないため、波風の立たない方、よりやり過ごす方を選んでしまうのはどうにもやるせなくも思うところです。

そのためには、飄々としてあまり話さない、差し障りなく笑みを浮かべておくのも良いですし、実相とは少し異なる印象を与えるようにして、どうにかこうにか溶け込むと良いものです。

何より大切なことは、自分で知ること、そして、それを実践していくことにあるのだから、何だかんだと考慮してしまうようではどうにもならないものだ、そんな思いを強くするばかりです。

肩書きですらも特段用意するものではなく、実践のうちにいかに取り組んでいくのか、それに限ることでしょう。

できることであれば、小林正観さんや代々木忠監督の知見に触れてもらいたいし、こういう叡智はより多くの人に伝わるようでありたいと願うものです。

他の人の言説にしても、しっかりと本質をとらえているようであれば、地球のどこから掘り下げてもマントルに向かっていけるように、しっかり耳を傾けてみるのも良いと思います。

これがひとつ、走ることの素晴らしさを思うにしても、走ってみないことには、どこにも辿り着けないのであって、それは自らはじめるものでもあるわけです。

走って汗をかく、息が上がって気持ちもスッキリとするものですが、やがて記録や距離のようなところで目標を打ち立てるようなことがあるでしょう。

一度にどれくらいの距離をどれくらいの早さで走るのか、また、月間とか期間にしてどれくらい走るのかという切り口があります。

それもまたひとつの見えるカタチとして良いと思う一方で、今を生きることを強く思うのであれば、どこに行き着くわけでもなく、どこに向かっているわけでもない、"今、ここ"で走っている自分を大切に思う、それで十分ではないかという思いもあります。

たくさん走れるというのは体力・持久力において素晴らしいものですが、それだけでは測れないものもあるし、そういうところにもいくらかの敬意を払っておくのが賢明というものです。

そして、どれくらい走っただとか、どれくらい早いだとかを公言するのみにあらず、いつも足を動かして走っているようでありたいものです。

それがまた、実践のうちに生きる"通り過ぎる者"として、軽やかに駆け抜けるのはひとつの表し方かもしれないからです。

人に会う、誰かと出会うというのは、自分からも会いに行かないと、お互い会いたい人に会えないというのはあるものです。

特段主張するような何かはないけれど、話してみないことには「気が合う」こともわからないので、それなりに会話の糸口を探ることはする必要があります。

一方的に話すばかりでなく、一方的に聞くばかりでもない、どちらも担いながらも、どちらかと言えば自分自身は聞く方が多いようでありたいものです。

耳のたぶのところを「垂珠(すいじゅ)」と言うのですが、ここのふくらみ具合と聞く度合いが同じようであるというとらえ方があります。

話し手・聞き手という関係のみにあらず、いかにしっかりと聞いているのか、それが垂珠の大きさに関わるようです。

音声として耳という器官に入るとしても、心でそれを受け取ったり理解したりするのとはいくらか様子が異なるために、単純に比率で測れるようなものではないのでしょう。

何が引き出されるかは、何を引き出せるのか、そういう相互の関係において成り立つものであるわけで、今はインタビューの何たるかの要諦がつかめれば、自分自身がまた別の境地に立てる、そんな予感がするものです。

このあたりを行き来して考えていくと、自分が会いたい人というのは、視点を変えれば、自分のなりたい人であるということも言える気がします。

だから、「気が合う」というのは、同じような思いを持っていたり、目指すものが似ていたりすることを含んでいるのでしょう。

今回は、何をどう話そうとそれほど多くは展開しないつもりなので、早くも収束に向かっています。

もう少し踏ん張ってみて、ちょっと先取りの発想を取り入れてみれば、腹のよじれるほどに笑っていたいと申し上げておきましょう。

加えて、夏頃を目処に"何か新しいこと"がはじまるように、鋭意取り組むといった具合です。

行雲流水、何がどうだろうがどうでも良いという気持ちでいれば、空に浮かぶ雲、川を流れる水であるように、そっと行き過ぎれば良いのでしょう。

きっと、何を思うでもなく、何を憂うでもない、そうやって日々の目の前のことに専心していれば、自分の進む道は自ずと続いていくものです。

そのためには抗うことはしないで、流れに身を任せる、それがまさに水の流れるごとしという境地なのでしょう。

ひとところに滞れば水は淀むばかり、流れにあってこそ水も本来の力を発揮するのであれば、これがまた、”通り過ぎる者"としての本領としても理に適っているはずです。

そこに関連してみると、水は流れるようにあるために、一見するとその実態をつかみにくいものですが、両の手を合わせて掬ってみれば、そこにいくらかの水を湛えることができるものです。

それは、どのようにして掬うのか、掬い手の工夫によって成り立つもので、指の間をすり抜けるからといって水の性質に難癖をつけることはしないはずです。

実態をつかみにくい、わけがわからないとしたところで、そのわからなさ具合は一貫しているために、何らか掬するだけの手立てはあるということになります。

そういうことの仔細すら脇に置いて、起こることの多く、出会う人の多くを諾い、肯んじることができれば、個人的にしたいことはほぼ達成ということになります。

今後も一層、無理はしないで緩やかに、楽をするわけではなくて楽しいままに、そして、流れのままにひたすらに行くばかりです。

ともあれ、自分を含め、どなたにおかれましても健勝にお過ごしいただければありがたく思いますので、何かの折にお目にかかるようであれば、そこはかとなくお導きいただければ甚だ幸いでございます☆

 

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至高体験:仕上げ<保存用>

今回もだいぶ長い道のりを行こうとして、しかし、まずもって行くべき規定のコースからうんと離れるところからはじめていこうと思います。

なぜ最初から脱線をするのか、それはひとつのクセでもあり、同時にひとつのコツでもあるのかなという気がします。

とことん「天の邪鬼」なのがタマにキズとも思わないではありませんが、それはそれで構わないなと思っています。

お届けするこちらの側としては、目を通す人が、たとえ内容やトピックが四方八方に飛び散りながらも、どれくらい見届けてくれるのか、それを見極める意味合いがあります。

それはまた、雲散霧消するようなものでなく、あちらこちらと結びつけることで徐々に浮かび上がってくる、そういうものを期待してほしいという思いもあるものです。

それに付随していけば、私自身は「萌芽」、「馥郁」、「蟠踞」、「陋隘」みたいな言葉を平気で用いていきたいわけですが、たとえ個々の語句や表現の意味するところがわからなくても、それでも何とか内容をわかろうとする人に読んでもらいたい思いがあります。

手を尽くし、工夫を凝らしていくこともしかり、伝えたい思いが強ければ何かは伝わるだろうということに似ています。

自分の中でも、いつも思考や感覚が散り散りになっているので、実際にわかるかどうかは別段問うところではなくて、あくまで姿勢の問題としてどうなのかだけを明らかにしたいわけです。

わからずとも、せめて耳を傾けることはできるので、それをするかどうかはお任せする、それでもしかと聞き届けてもらえたら嬉しく思うものです。

それもあって、殊更に高い壁を築くわけではないけれど、道のど真ん中にフサフサの茂みをもたらして、通りづらいけれど通れるはずだ、これもまた道だというような感覚を持ってもらおうとしています。

また、仕掛けとしては細々といくつもあって、それもまたわかりづらいことになっていますが、最初から難解にとか、大上段に構えて繰り広げてしまっては、それはあまりに不親切だろうという感覚があります。

いささか後づけかもしれませんが、大いに脱線することは、それとはなしに"ほぐし"の意味もあるわけです。

そして、脱線に次ぐ脱線で恐縮ですが、最近この"ほぐし"に関して驚愕の知見を得たわけですが、当然ここで明かせるような話ではないので、ほのめかすままに留めておきます。

それにしても驚きました、言っている言葉は耳に届くのに、頭の中では「どういうこと?」となって、意味や光景を結ぶことができないのですから。

これがあれだとすると、それでそうなるのかっ!?となるほどに、人の想像力(および、人の可能性)は留まることを知らないということはお伝えしておこうと思います。

当然、具体的な内容は明かせるものではないので、ほのめかすままに留めておくわけです。

それはさておき、話を元に戻してみると、読む人に取っても、「何の話なんだ、これは」とどこか思いながらも、思わず首肯してしまうところが多いとか、時間を費やして読むに値する内容のようだとか、それを早めに吟味して見極めてほしいという思いもあります。

これが、もっと視覚的な図像やイメージに頼る人もいて、時に音声や会話なのかもしれませんが、あまり文章を読むのが肌に馴染まないなという人がいても、それはそれで構わないわけです。

たとえば、マヨネーズごはんのような、一見すると合わないような組み合わせでも、食べれば結構おいしいじゃないというようなことを、自分は文章や理屈において提示したいし、それなりに納得してもらえるようなことをモリモリとかなえていきたいなと思っています。

こういう仕掛けや工夫が必ずしも頑迷というわけでなく、あの手この手と尽くしているうちに何かしらは届く、それが微笑ましく思ってもらうのであれば、すでに望外の境地にいたるものです。

そして、自分なりの真ん中について考える時、あー、確かに長きに渡るもの(少なく見積もっても18年かそこら)があるということで、これはまた、後ほど詳述することかもしれません。

だいたい今回の内容にしても、この一年くらいにわたって投稿している向きと変わりはなく、その意味では随分と一貫しているものだなと思います。

語る切り口を変え、異なる例証を挙げるものの、根底にあるメッセージはあまり変わりません。

特に、そういう意図で書いているものが今年の2月のもので、この時点で盛り込んでいる内容が、今に続くようになっています。

だから今回のタイトルが、わかる人にはわかるであろう、伝わる人には伝わるであろう、前のものを受けているカタチになっています。

"終わりがないのが終わり"、つまりはそういうことなのです。

その時々で思ったリアルにもとづいていながらも、先の時間において生きている自分に向けてもいるので、その有効期限と言いますか、行き届くであろう論理の射程は広いだろうということがうかがえます。

少なくともそうであってほしいと思っていますし、人間存在の根底にまで行き着こうとしている内容なので、サラッと流れる一過性のもの・流行で終わるものでもなく、本質的な何かに触れていると良いなと思います。

年来、”より良く生きる"ことを是としていて、それがまた昨年の出来事・出会いによって新たな展開を見せています。

望む何かがあるから、やがて手元に寄ってくるという意味では、至極平仄や辻褄が合っているものだなと、内心で感慨深く思うものです。

その一方で、時間が経てば考えの詳細は変容していきますし、さらなる考察も進んでいくわけです。

それが今回の内容であり、この一年くらいを過ごしながら思って来たことの総決算、つまりは個人的な"ありったけ"となるわけです。

特に最近のことで言えば、自分がどれだけ把握して実践できているかは別として、呼吸が大切なところまではわかってきました。

次なる段階としては、その大切さの実態をとらえることであり、なぜそれが大切なのかを解き明かしていくことだなと思っています。

これがまたどうなるのかは、自分でもわからないところなので、今後突如として表すということもあることでしょう。

"今のところ"という申し開きをしておきつつ、いくらかまとまったものにしようとして展開していこうと思います。

これは、自分の立ち位置にも関わってくるのですが、「架橋」ということを切り口にしてできる話があります。

呼吸がなぜ「架橋」という話につながっていくのか、そのためには呼吸ってどういうこと?というのを、先に少し詳らかにしていきたいと思います。

いつも息を吸って吐いてとやっていて、吸う時は酸素、吐く時には二酸化炭素だといった話はよく耳にするところでしょう。

呼吸自体は、何も考えなくてもしているものですが、一方で意識してもできることで、ある程度は調節できることでもあります。

これが、心臓の鼓動を司る筋肉を、たまには意識して動かすぞーというようなことでは、意識が途切れ、うっかり動かすのを忘れてしまったらかなり大変です。

ノドをつまらしてある刹那呼吸ができなくなるのとは深刻さが大きく異なるので、何はどうあれ動くようになっているものです。

他の器官や機能にしても、どれだけ意識して動かすことができるのか、自分のカラダであるにも関わらず、特に内臓はあまり関与できるところではないものです。

別の例では、カラダの内側で、水道の蛇口をひねるようにして、ちょっと多めに胃酸を出そうかしらとはいかないわけです。

呼吸自体、吸って吐いてとカラダの動きではありますが、深く行えば心を落ち着かせることもできるし、緊張を強いられればどうしても浅くなりがちで、その時はカラダも強張ってしまいます。

ここでは、自分自身の意識によって、心とカラダとつなぐことができると考えることができます。

呼吸を経由することによって、カラダの調節できないところに働きかける、ドアを開け閉めはできないけれどノックくらいはできるような気がします。

また、何を思い、何を考えているのか、思考や感情において意識しているところに働きかけることもできますが、同時に、その大半を占める潜在意識・無意識の領域にまで働きかけることができます。

こういう、目には見えない、しかし、大きな力を持っているところを決しておろそかにしてはいけないものです。

そして、自分自身が"今、ここ"にいる、今まさに生きていることを知るには、呼吸に意識を傾けて行うのが、最も簡単で効果的な方法ではないでしょうか。

普段、このようなことを言う人を見知ることはあまりないので、自分自身においては、せめて小声で囁くようにしても何度でも言っていこうかと思っています。

そういう、あちらとこちら、あれとこれと結びつけて考えていく発想が持てるようになると、どこかで、あなたと私、自分と他者、自分と社会というものを結びつけることもできるのではないかと思うものです。

これが、だいぶ簡略化していますが、呼吸を通じて見えてくる、自分なりの「架橋」につながる発想になります。

たとえば、深呼吸がより深いものであれば、自分自身や周りの物事がより良いことになるのではないでしょうか。

"底知れぬ魅力"とか"奥深さ"について思う時、それは腹の底まで息を吸えているのか、カラダにおける深さでもあるし、意識(~無意識)の深さとの関わりであるかもしれないのです。

気が合う、息が合うということは、呼吸のリズムが同じであるとか、お互いに心地好いと感じているとかの理由がありそうです。

少し大仰にして、"生きている気"を大胆に"いき"と縮めて呼ぶのなら、そういうものは握手とかハグとかの直接的な身体接触において、自分に合うのかどうかをその場で見極められるような気がします。

長い時間をかけるのでは、一緒にいることで気詰まりにならないかどうか、言い換えれば、呼吸が楽に行えているかどうかを測るのも良いでしょう。

長い行列に並んでも何も苦ではなく、むしろそれも楽しめるのか、それをもって判断しても良いかもしれません。

これは、細かく言い出すといささか説明が入り込むのですが、気の感応を考える時に、手の平から行き来するものとする考え方があります。

野球のイチロー選手が、他の選手のグラブやバットを持たないというエピソードは、自分の馴染んでいるものではないという理由もあるでしょうが、他の人の気を引き込みたくないという意味もあるような気がします。

あくまでも、自分で気を高めて集中するということで、集中するための必要と不必要を当然のものとして分けているように思うものです。

この話につなげていくと、欧米、特にアメリカでは、多種多様な人たちで社会が成り立っている向きがあるので、まずは握手やハグをする、これはお互いの距離を縮めるのと同時に、相手の気の感応を測るという意味もあるかもしれません。

日本においては、「言わなくてもわかるでしょ、暗黙の了解ってやつだよ」で済ませがちですが、欧米のこういうところは多少は見習うのが良いなと思います。

さらには、良い呼吸をしていると、一緒にいて心地好いばかりでなく、お互いに引き立て合えるような出会いがあるかもしれません。

自分の気持ちが良ければ、接する人も気持ち良くなるもの、似たもの同士がやがて出会うというのはこういう道理のような気がします。

わざわざ水溜まりに入って濡れることをしないように、一緒にいて楽しい人を選ぶのは、多くの場合に当てはまるのではないでしょうか。

そして、普段では、得難き出会いのために呼吸を意識するとか、呼吸が重要であるなど、あまり多くの人は思わないでしょう。

前段に続き、こういうことを言う人もあまりいないので、呼吸のある側面が貴重であることには、なかなか思い至りづらいものです。

もしもこれがひとつの真理を突いているとしたら、やらないよりかはやった方が良いことになるものです。

呼吸においてもそうですが、姿勢を正すことや、前を向いて歩くことがなぜ大切なのかということにも触れておきたいものです。

私自身は、うつむいている人が運が良いとはどうしても思いにくいものです。

手元に忙しい、眉間にシワ寄せて険しい顔をしている人も同様・・・(cf.歩きスマホ)。

朗らかな人、柔らかな雰囲気の人に惹かれるのが大半であるとして、少しでも良いと思うのであれば、見直すようにしてそうした方が良い気がします。

姿勢が良くないのであれば、呼吸もまた浅くなるので、これが普段の生活における運気に関わるとすれば云々、そういう発想のできる人が多いことを望みます。

また、呼吸の浅い人は、本人には自覚はないでしょうが、案外上っ面の状態でいるのかもしれません。

深い意識にまで浸ることがないために、浅薄な発想や発言を繰り返すことだってあるように思います。

極端な例では、カラダの健康状態には何の問題がないけれど、深呼吸ができない人もいるようで、まさかそういう人もいるのかとにわかには信じられないものです。

こういう人に対してもそうですが、特に呼吸の早い/遅い、強い/弱いを組み合わせていくと、心理的ストレスや、過去のトラウマも緩和・寛解するようなことがあるそうです。

これを何と言うのかは定かではないものの、呼吸すること自体を上手にできることの効果・効用が何かしらあるでしょう。

一度の時間の長さしかり、日をまたいでの回数しかり、一回やそこらやったから済むのでなく、普段の生活において続けていくことが良いように思います。

あるいは、運動やスポーツをして息を上げる、汗をかくこともそうですが、もっと呼吸を意識してみると良いでしょう。

たとえば、女性に多い"冷え性"ですが、これを体質の問題として終わらせるのではなく、カラダを動かしているかどうか、呼吸を意識しているかとも関係があるかもしれません。

指先にまで十分な血流があるのかどうか、自分で改善しようと思えばある程度はできることでしょう。

ホットヨガやフィットネスで女性の姿が多くあるのは、ひとつの流行ということもあるでしょうが、もっと本質的な何かに気づいている人たちが取り組んでいるとも考えられるものです。

ここでは、前向きに生きることや、快活な気持ちであることに、カラダを動かすことが大切だと言える気がします。

もう少し後で述べますが、セックスにおいては何もまとわない姿で、心もカラダも開け放つもの。

"明け渡し"がひとつの極意でもあるので、普段から汗をかく、血の流れを意識するのはとても大切なことになります。

気の流れにおいても同様に、肌が合うのが気が合うことにも結びついていくわけです。

つまり、より良く生きることとセックスが密接に関わっているとすれば、これにいくらか注意を払ってみるのが良さそうです。

あるいは、お化粧やファッションも大切ですが、一過性のものでないことも取り入れてみるのが、恋愛や結婚においてもうんと役に立つような気がします。

ステキな男性と出会いたい女性はもちろん、男性においてもステキな女性と出会えるようになるのが良いですね。

もちろん、いろいろな好みはあってしかるべし、同性・異性問わずステキな人に多く出会っていきたいものです。

呼吸について述べてきたことを今一度見渡してみますが、意識と無意識、心とカラダ、自分自身と"今、ここ"、自分の中の過去と現在、そして未来、あの世とこの世、さらには、目に見えるものと見えないもの、感覚や想像と、理想と現実をつなぐものとして呼吸の働きがあるかもしれません。

そうして、呼吸における効用・効果を考えていくうちに、行き着くところがあると言えるでしょう。

これはまた、"逆もまたしかり(vice versa)"ということで、自分の目指すところを考えていくうちに、呼吸に行き着いたということもあります。

そうして、磁石がお互いに引き合うようにして、ここで重ねて考えてみようということになっています。

もしも「生きる」ことが「息をする→息る(いきる)」ことと同義、あるいは同じくらいに大切だとするならば、呼吸を大切するのは必至ということになります。

音声が同じということは、似たような意味合いを持つ可能性があるということで、「石」と「意志」がともに「固い」という形容もできることから、その一端をうかがい知ることができるものです。

このあたりは、言語学的な発想とアプローチによるものなので、『息覚 呼吸から《我が唯一の望み》へ』(浜田貫太郎・小椋孝子、幻冬舎ルネッサンス新書)を参照していただきつつ、自分なりの考察をより進めてもらえると良いものです。

このように、呼吸をひとつの媒体として「架橋」について言及していくと、普段の生活や取り組みにおいて、自分とつなぐ、相手とつなぐ、そういう"間(あいだ)"にいたい思いがあります。

禅や瞑想の発想なども随時取り入れながら、あるいは、このあたりに言及しながら、セックスの話を持ち込んでくると、結構深く話し込めるものです。

これは以前にもどこかで述べましたが、"ヤッた、ヤラないに終始しない、それは人間の話である"のですが、なかなか話を切り出せないものです。

もっと気楽に言っても良いけれど、それでは伝えたいことの真ん中にたどり着く前に、他の話に移ってしまいそうで、かえって中途半端なことになってしましそうです。

そういう内容が、今年の2月に書いたものの前後にあって、ある意味では土台であり、背景でもあるということになります。

何より、より良く生きることにセックスがあろうとは、私自身思いもしなかったものです。

もう少しエロスと言いますか、(主に)男女の秘め事の類でもあると思っていたのもあるのでしょう。

それに、今まで自分の知る限り、周りの人でこういうことを言う人にも出会ったことがありません。

ともあれ、セックスを突き詰めれば、生命の根元に触れる行為でもあるので、自分の深いところに関わるというのは納得のいくところです。

または、性に向き合うことは、自分と向き合う、相手と向き合う、生命と向き合うことでもあるなと思います。

エロスの興味・関心として、人数の多さや、ひとりの人との数の多さもあるかもしれませんが、どれだけ深いところでつながれたかどうか、ひとつにはそういう観点の方に重きを置きたいものです。

「性」は"心が生きる"という文字の成り立ちなので、精神的なところも大いにあるはずで、必ずしも体位の豊富さや突く・突かれる激しさばかりではないのです。

あるいは、行為そのものをすれば新たな生命も宿るでしょうが、つながる深さによって、パートナー同士、親と子の関係が良くなったりそうでなかったりすることもあります。

この部分の最後として、呼吸に関してさらりと言っておきたいひとつは、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の初期の方では、呼吸を練ってエネルギーとする"波紋"がありました。

この理屈はひとつ独特のものではありましたが、リサリサが驚異的な若々しさを保っているように、呼吸が何か大きな効果をもたらすものということでは的を射ており、異なる角度から呼吸の大切さをうかがい知ることができるものだなと思います。

荒木飛呂彦先生の若々しさもまた、相当に驚異的なものであることにさらりと触れつつ、次に進んでいこうと思います。

繰り返し繰り返し、手を変え品を変えながら言っていって、重複する色濃いところが自分の主張の大半であって、漆を何度も塗って仕上げていくような感覚があります。

あるいは、山道を大きく回っていくうちに高度を増し、次第に頂上を目指していく感覚とも言えそうです。

そうやって、今が全体のどれくらいのところにいるのかはわかりませんが(だいぶ長い)、多くの人が言わないであろうこと、少なくとも自分自身の管見の及ぶ限り見聞きしないであろうことをより積極的に選択していきたいと思います。

また、表面をなぞるだけでなく、薄皮を丹念に向いていくように、真髄にまで触れるようにしてやっていこうと思うことには変わりがありません。

どこから手をつけたものか、目の前に放り出しているような有様で、きっとだいぶ散らかっていることになりますが、言いたいことのいくつかはあるので、それを並べるようにして、それで通底する何かを感じ取ってもらえれば良いなという気がします。

"終わりがないのが終わり"であっても、どこかで目処をつけるようにしたいもの、それでもまだまだ続きます。

ここからまた異なる角度でお届けしようと思いながら、そのはじまり方はいささか唐突なもの。

それについて、いくらか展開していきたいと思います。

自分と向き合い、自分のことを大切にすることにつながる発想で、どんなに小さいなことでも、自分で「やる」と言ったことができない場合、自分自身が思っている以上に自尊心を傷つけていきます。

これは、自分自身のことで自信があるかどうかにも関わるし、無意識のところでも関わりがあるように思うものです。

うんと深い自分の真ん中のところ、どのような局面にあっても最終的なところで自分を信じることができるのかどうか、生きる瀬戸際や根源まで行っても果たして戻ってこれのるかということになります。

もしもそこで越えてしまうようなことがあれば、命途切れるようなことになって、あちら側に渡ってしまうことになります。

または、心もカラダも裸になるようなセックスの場面で、自分に自信がないのは如実に表れてしまうもので、何だかぎこちないことになるかもしれません。

知らないところで自分が傷ついている、それを自分で気がつくことがないというのが、あるいは悲劇なのかもしれないと思うものです。

これは、結構ないがしろにできることでなく、生きやすさとか運気とか幸せとか、そういう目に見えないけれど重大なことに関わるものだと見て取ることができるように思います。

単純に言えば、できないならできないと言うとか、安請け合いせずにやらないと言うとか、その方がよほど誠実と言えるものです。

自分の中で、自分自身と握手やハグができているかどうか、根底のところでしっかり結びついていることが大切です。

そして、少なくとも自分とした約束に関しては、コトの大小はあれどもしっかり守って、果たしていくことが良いと言えます。

今の段階で、自分のやりたいことや目指していることは、何かを手に入れることでもなく、特定の誰かと出会うためだけのものでもありません。

発想のひとつとしては、自分のプラットフォームを築くことが最初に挙げられます。

それがまた具体的なところではないために、見かけと内実がどう折り合いを持つものなのか、それをを知るべきだというのが今の段階になります。

自分にとっての"プラットホーム"、それは単に"ホーム"となり得るものかもしれないし、これを別に言い換えるとするならば何と心得るのだろうという思いがあります。

ひとつの理想としては、アンディ・ウォーホルの"ファクトリー"として、身近にあるようでありたいというのはあります。

理屈としては、もう少しわかりにくくなってしまうのですが、こうも説明ができます。

たとえば、理想の先駆けとして既にそこがあるのなら、自分は十分に関わりたいと思っています。

大きく理想を掲げるのはもちろん大切なことですが、今の手前で、理想の実現がいくらかでもなされているのか、そこを見極めたいし、見定めたい思いがあります。

大層なことを言っていても実践が伴わなければ意味がない、どれくらいがなされているかより、どれくらいなそうとしているかに重きを置きたい感覚です。

そのためには、自分自身が居心地の良いところにせっせと赴いていきますし、自分のいるところが居心地の良いようになるようにするだけです。

そんな、居心地の良いところが自分にとっての"居場所"となるような気がします。

多くの人が立ち寄るように、自分自身がそうなることとともに、自分のいる場所が他の人にとってもそうであれば幸いです。

そのためには、自分の足元を見て鑑みる、それは「跂者不立、跨者不行」とならないように戒めるだけのことです。

稲盛和夫さんの本やインタビューを読んでいて、仕事(売り上げ、成果)を通じて人格を磨くということがあります。

必ずしも技術や小手先の知識でなくて、もっと人としての関わり方があるし、それがあるから仕事が円滑に回るわけです。

これも、あるには越したことがないわけですが多くのお金を得るだけでなく、何をか得るのかということをじっくりと考えてみたいものです。

何をするにしても、人と人との関係で成り立つものなので、「人間」をどれだけ知っているのか、それがコトの捷径だなと思います。

それがまた、自分というものの成り立ちを知る手立てともなるので、得手不得手やいくつもの特徴を知ることになるでしょう。

内面の充実もそうですし、その人がどういう人であるかは身長や体重、髪の長さとも直接関係のないところなので、コンプレックスで悩むことはなくなるだろうと思います。

理屈や数値だけでは読み解けないものがあるし、それをおろそかにしてまで、何をか選ぼうというのか、そんな気がします。

自分の思う正しさが、多くの場合の正しさと重なるようにしていけば、より良くなっていくことでしょう。

もしも自分の意見が通るから正しいのだとなってしまえば、通す正しさが次第に歪曲したり、かけ離れたりすることもあるかもしれません。

こういうあれこれを"ファクトリー"構想とからめて言えば、率直なところでは自分に関わる人を"総じて"幸せにしたいものです。

誰かの笑顔や喜ぶ様子を見ることができるのならば、それが自分にとっても喜びであるし、十分に嬉しい報酬になります。

そのためにも、私と出会って関わるからには、こちらのできる限りのことはしていきたいものです。

常に発展途上の身として、一体何を差し出せるのかということはありますが、基本的な心構え・姿勢として、そこでの私は偉大な自分であれ!と言い聞かせながら関わっていきたいものです。

尊大な意識はないままに、最初はできることから、たとえ微々たるものでもそうやって積み重ねていくうちに、徐々にではありますが、喜ばれる存在となっていくのでしょう。

相手の満足が私の喜びであり、あるいは与えること自体喜びと思えるか、何を知っているのかでなく、何を知って行うのか、そういう発想につながっていくのでしょう。

それに加え、気分がいつも良いかどうか、関わる人やいる場所、目の前で取り組んでいることのいちいちにそれを感じることができるのか、それはとても大切なことのように思います。

それはまた、自分がしかるべき人と出会って、しかるべき場所にいるのか、自分のお役目や使命とも関わってくる感覚でもあります。

ジグソーパズルのピースがしっかりあてはまるように、まさに"自ずと"収まるべきところに収まっていくような気がします。

さらには、自分の知性(知識・経験を含む)は、身近な人たち、親しい人たちのために使うもの、決して自分の私利私欲のために用いてはいけないものです。

"夢より素敵な"素晴らしいところへ、自分も行きたいし、そこに多くの人とともに行きたいものです。

何より、自分に親しく関わることになるのは、まことにありがたい限りなので、それは果たしていきたい約束でもあります。

多くの観点や考えを持つようになりながら、大きくいろいろなことを過不足なく伝えるためには、思考や理屈の深淵をのぞきこむようでなければいけない気がします。

そこは、また"淡い"の部分でもあって、正気と狂気の狭間、虚実皮膜、そういうところに行って帰ってこれるように、だから自分自身の思考や理屈を強靭にしていきたいなと思っています。

誰もがそれをする必要がなくて、それは誰かが担うものであれば良いわけです。

次第に混迷を極めるような展開を迎えながら、それでも突き進む様子は、どのように例えることができるでしょう。

ある特定の言葉や単語で済ませることなく、また、直接そういう内容に言及することなく、浮き上がる図像やイメージがそれに近づくように、あくまで点描のように字句を重ねながら、続きをうながしていきたいと思います。

普段誰と一緒にいるのか、あるいは、どんな人と出会うかによって、自分自身の生活や身の回りも変わってくるものです。

いつも励まし合って"高み"を目指すのか、山の麓でのんびり過ごすのか、これはまた自分がどうしたいかとも関わりつつも、誰とどう出会うかの問題でもあります。

自分がそうだから出会うのか、誰かとの出会いによってそうなるのか、どちらが先とも後とも言えないでしょうが、大きく見てみれば自分の望むように出会っているように思うものです。

最近はまた、なかなかヴェールを明かすようで明かさない"SOUL BROTHER NO.1"や得難きステキな友人たちに大いに触発されて、そういう意味では、私は私なりの「己の道」を見出だしていくべきだなと思っています。

それはまた、肩に力を入れて、歯を食いしばるようなことでもなくて、持ちつ持たれつ自分のやることをやり続けていくことで開けて

くるもののように思います。

必ずしも気張ったら良いというわけではなく、長い道のりを歩み続けるようなことで見えてくることかもしれません。

「あなたの差し出す眼差しは誰かのために、また、あなたの差し出す言葉は誰かのために。

すべては"贈り物(ギフト)"であり、自分への"贈り物(ギフト)"でもある。

そして、それは誰かのためであると同時に、あなた自身への"贈り物(ギフト)"でもあるのでしょう。

そういうことに気がつけるのか、天からの"授かりもの(ギフト)"を大切にしていきたい。」

少し洒落て言ってみれば、こういうことになります。

とかく発想は浮かんでは消えていくようなものなので、いくつかを組み合わせてみるとか、時期によって何を採るのかの違いはあるでしょう。

そして、どのような時にでも大切にしていきたいのは、①"愉快に生きる"と決める、②笑顔を絶やさない、③"ありがとう"を言うことで、これらでもって楽しい気持ちを増幅するのが良いでしょう。

お金の使い方にしてもそうで、今回は細かくは言いませんが、お金の喜ぶお金の使い方を意識してみるのが良いでしょう。

人もお金も、情報や物事は巡るものなので、いかにグルグルと巡らせていくのか、そういう視点を持ってみると良いと思います。

また、何かを決断する時、ある程度予測が立つ方と、てんで予測ができない方を選ぶとすれば、最近は後者の方を選ぶようでありたいと思っています。

それは"刺激"に関わるような話にもなって、何となくうす曇りの日が続くより、カンカン照りの晴れの日とどしゃ降りの雨の日が交互にくるような、そんな日々を過ごしたいと思っている現れなのかもしれません。

たとえどんな状況になろうとも、どんなことが起ころうとも、何回か続いていくうちにパターンが見え隠れしてくるし、自分はそれでも足元不如意とならないように、わりと堅実な歩みを続けるだろうということが、性格や感覚において見通せるものです。

これは、モテるからステキな人なのか、ステキだからモテるのかというような、"どちらが先か"問題に関わる話になります。

ギターが好きだから何時間ものプレイが苦にならないように、苦にならないから何時間でもギターをプレイできるということもあります。

あるいは、何かに懸命に打ち込むからコツがわかるのか、コツが多少なりともわかっているから懸命に打ち込むのか、コトの仔細はそれぞれにあることでしょう。

こういう発想を下敷きにしていくと、自分自身の振る舞い方と他者との関わり方との相関を覗き込むことができる気がします。

おそらく、誰もが好かれたい、褒められたいという気持ちはあるでしょう。

幼少期~では両親や親戚から言われていれば良いけれど、それがない、そして、大人になっても特にそういう機会がなければ、なかなか寂しいのではないでしょうか。

その後も、友人・知人・恋人など、大切な誰かから言われたいし、思われたい、そう思うのも良いけれど、もっとも手っ取り早いのは、自分自身で自分を好くとか、褒めるとかすれば良いわけです。

"セルフ応援システム"と呼ぶものなのかは、また別の機会に取り上げてみたいものですが、自分のことを抱きしめるというのは、これは思いのほか良い影響があるように思います。

そこから付随していくと、何かしらの習慣、より良い習慣を持って、それを続けることが大切になってきます。

はじめるも続けるもできない人が多い中、こういう試みだけで、自分自身において、結構自信がつくように思います。

強く思うのも大切ですが、行動から気持ちに作用させていく試みもあって良いかと思います。

自分を褒める、自分を抱きしめる、今日の今からできることになります。

深く考えるのが好きで、抽象的思弁に傾く、これはなかなか良いところを突いているのではなかろうかということもままあるものです。

それでも、もっと具体的にするとか、もっと行動として取り組みやすいようなこと、そういうことを言う必要はあるのかもしれないと思うこともあります。

これも、それほどまでに難しい・わかりにくいのかとも思いますが、ひとつ例を挙げて述べてみたいです。

たとえば、サッカーの日本代表の試合を見て熱狂する人がいて、かたや、イングランド代表の試合を見ることを楽しんでいる人がいる。

応援するチームは異なろうとも、サッカーの試合を見ると楽しいよねということは相通じているものです。

これが、普段のリーグ戦なのか、ワールドカップの試合の場合もあるかもしれないし、ラグビーや野球のように、種目が変わってもスタジアムで見るのって楽しいよねとか、ボールゲームって面白いよねっということでは・・・(以下同文)。

人によってはボクシングや水泳、ゴルフなど他の種目になるかもしれないし、もっと移り変わって映画鑑賞や読書になるのかもしれません。

このあたりまでになると、何か好きなものがあって取り組むのって良いよねくらいの枠組みになるでしょう。

抽象的な度合いが増しているというのが、まさしく抽象的思弁なのであって、具体的なところから少しずつ推移していくものです。

こういうところをあえて言わずとも、想像を張り巡らして会話ができる人がいて、それも決して懸念して先読みをするようなことでなく、ごく自然にふるまえる、そういう人とは次第に仲良くなっていくものです。

だいたい言いたいことの大半が出てきたところで次が最後のひとまとまり、登山でいうところのようやくの8合目、登り切って万歳三唱といきましょう(人によってはガッツポーズ)。

これは今の実感でもあるし、今後しばらくの方針でもあること。

今を生きる、それがゆえに先行きのことももちろん考えるけれども、今を充実しないでそれがかなうというのか。

遠くを見渡すのも大切ですが、今の足元で起こっている歩の進め方を知るのも大切です。

とことん今の、目の前のことに集中するから、次の扉が開く、人生とはとかくそういうものかもしれません。

そういう意味では、新たな旅をはじめることも必要で、riceの「朗読」にあるように、今は持ち得ているものはほとんどないかもしれないけれど、それでも今あるものを手に携えていくことで良いのだなと思います。

生きていれば同じ歳の華月くん、今年の秋で19回忌を迎えたともなれば、いつをはじまりをするのかもあるでしょうが、思えば遠くへ来たものだなと思うものです。

人それぞれに思いの強さはあるし、人それぞれひとつの命を生きている。

人ひとりの命といえど、決して軽んずることなく、決して崇めるようなことでもなく、事実どうであるかというのはあるでしょう。

特に、自分の20歳~今に至るまでこの感覚を手放すということは、半ば自分を捨てるようなことにもなるもので、なかなか相容れないところはあるかもしれません。

宿命とか重い業を背負うようなことでなくて、自分のひとつの特徴なのだなということを感じます。

https://youtu.be/RSvW4S5OufM?t=470

ここからは、どうにかこうにか今回の話を収束するように、チラホラとあることをひとところに集めて、自分のやりたいこと、立ち位置として、どう表したものかと思案している部分があります。

ひとつには、"トリックスター"ということで言えることは多いだろうと思います。

"トリックスター"は、神話や民間伝承において、一旦は混沌をもたらすかもしれないけれど、新しい秩序をもたらす者として描かれる存在です。

ある意味では、二項対立する間に立つ者で、「架橋」の発想からも述べることができるでしょう。

楽器でいうところのベースの立ち位置で、リズムのドラムと、メロディーのボーカル、ギター、キーボードなどの橋渡し、これも同じような発想や感覚になります。

身近なところに置き換えると、コンシェルジュ、バーのマスター、居酒屋の店主など、あちらとこちら、誰かと誰かをつなぐ役割を果たすことができるでしょう。

自分の中でも、過去と未来の橋渡しをすることにおいて、「架橋」するのが自分自身のお役目だろうと、今はかなり強く意識していきます。

これらをまとめて、「プロジェクト在原業平」ともなるわけですが、これは今回は特に広げはしないでおきます。

あるいは、これをもう少しわかりやすくするには、映画「天使にラブソングを・・・」の"1&2"が参考になります。

ウーピー・ゴールドバーグ扮する主人公のドロレスは、教会とも教会のある地域ともゆかりのなく、これが続編ではそれが学校であり、学生であるのですが、それも特に関連があるわけではない。

確かにひとりの"よそ者"であるかもしれないけれど、それでも必要とされるがまま"歌"を通して、教会や学園を立て直し、盛り立てもして、多くの人を良い方に導いています。

楽しい気分の時には物事が上手く進むという示唆においても有用な作品になるのですが、全然関係のないところから来た者によって、少し騒ぎを起こすかもしれない、しかし、それがあってそこにいる人たちが良い方向に向かっているわけです。

こういう、間を取り持つような人がいて、あちらとこちらを忙しなく行き来することによって、水と油も一体となるようなことになっています。

これが冒頭にもある、マヨネーズごはんのマヨネーズにも相通ずる発想かなと思います。

不思議なもので、その土地に住む者や前からそこにいる人たちだけではできないことで、ある意味"よそ者"をもって成り立つものです。

実際もそうですが、落語の題材(cf.「厩火事」)にもあるように、男女交際や婚姻における"仲人"もその役割を担っているとも言えるでしょう。

とかくそういう"よそ者"は、どこからともなくやって来て、どこへとも知れず立ち去って行く者、ある意味では、通り過ぎる存在とも言うことができます。

これが、自分のこととして考えてみると、あちらこちらと放浪の旅を続けていくことによって、方々に留まる人たちに良いものを差し出せることになります。

一説には、「移動の距離の多い人は、活躍の度合いも高い」という法則があるらしいので、どれだけ動き回るのかということも念頭に置いておくと良いかもしれません。

私自身の場合、単に「流浪+浪人」の"るろうに"のみにあらす、そこに"メタル"をつけて"めたるろうに"であろうというのは、ひとつの戯れ言でもあります。

活躍の度合いとお呼びがかかることの兼ね合いで言うと、このようにも言うことができるでしょう。

特定の場所や地域だけでなく、日本全国、世界各国を股にかけるということは、多くの人に必要とされているということでもあるので、それが信用なのか人気なのかで測れることのように思います。

こういうことを先に望むことはありませんが、あちらとこちらのどちらか一方ということではなく、"あるいは・・・"のalternativeをいつも提供していきたいものです。

今回にしても広がりと深みを意識しながら、どこか引き際が早いというのはそういう現れだと思います。

あれこれ述べてはいるものの、あまり追及して明言していないのは、自分はこう思う、こういう考えはいかがですかと散りばめていることになります。

あーだこーだと好き放題言っているところもあるでしょうが、それでも意図をすくい取ってくれる人はいるはずですし、受け取らない人は目を通すことすらしないから、ある意味では安心してできるところもあります。

いずれにしても、時間の流れにあるように、多くの物事は次第に流れていくのでしょう、これが今のところの"ありったけ"ということになる気がします。

いつも思うのですが、"ありったけ"に臨み、その都度思いを全部出してみると、それがまた次への布石となっていることがあります。

呼吸の、息を吐ききってみることによって、新たな息がすぐさま入り込んでくるもので、「ひとつの終わりが、ひとつのはじまり」となってくるものです。

次の新たな扉がどこにあって、どう開くのかはわからないけれど、そこには自分の出会うべきものがあるということでしょう。

自分の、個人においては、引き続き「たずきの道」、「法悦の至り」、「本を出す」ことを三本の矢と携えていきたいと思います。

今年もまたいくらか日を残しつつも、ひとつのお役目・使命が終わるようなところもあって、新たな何かを待ち望む、そういう心躍る感覚が芽生えるものであるよう、一旦は今回を締めくくりたいと思います☆

 

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恋は革命よ!<保存用>

先日の「恋は革命よ!」にちなんで、今年(~来年あたり)の目標のひとつが「法悦の至り」だったことを思い出しました。

自分で言っておいて、迂闊にも忘れそうになるとは何という体たらく。

これですっかり忘れてしまえば、どこにも目を当てられぬーというわけです。

そもそも今は夏の終わりの秋の入り口、"ひと夏のアヴァンチュール"と洒落込みたいのであれば、春のあたりからじっくり備え

ておかないと間に合わないこと必至です。

そうなると次の盛り上がりは年末か、これはこれで別件で気になる"ありったけ"があるから、またしても見逃してしまうことになりそうです。

だから、あえて意識できるようにと連呼していきたいわけですが、結局は興味の有無のようなところで、実際がどうなるかにつながってくるだけのようにも思います。

そうして、自分の内側をライトで照らすように探ってみても、自分自身の優先事項としてはそれほど高くはないので、何がどうなろうとも、そこで喜ぶとか憂うとかの何かしらを思うということもないのです。

ただ、ひとつの切り口として"大切な人と過ごす"ことを思えば、なるほどそれなりに辻褄は合っているのだなと密かに得心し、ウンウン首肯する次第です。

また今回も思いつくままを並べては、どこに行くのかわからないけれど、可能な限りの遠さ・深さまでたどり着きたいものです。

どれくらいの(もちろんヴァーチャルな)紙幅を費やすことになるのか、それによっても自ずと行ける先は変わってくることでしょう。

論理の射程の広さと深さにおいて、今いる場所からどれだけ離れられるのか、それが成長や変化の余地であるし、新たな自分との出会いの機会かもしれないからです。

今の足元から1mや10mくらい移るのでは見える景色はほとんど変わりませんが、10kmとか100kmとか越えてくると随分と変わってくるように、ある程度あーだこーだとやらないと行けない領域があるものです。

そのためには、入念な準備体操にはじまり、適度に負荷のかかるウォーミング・アップをこなしつつ、そして、徐々にペースを上げながらせっせと汗水垂らして取り組んでいくわけです。

それが、見えるカタチとしてはどうしても(もちろんヴァーチャルな)紙幅を随分多く費やすことになっている、そういうことになっているわけです。

そして、徐々に本題に切り込んでいきながら、これについては率直に言っても良いけれど、瞑想、臨死体験、哲学、呼吸、エニアグラム、ミラーニューロンなど、一見すると多岐に渡る分野の書籍にあたっている人は、一体どのような人であるのか想像がつくでしょうか。

先ごろ出版された代々木忠監督の『哲学としてのセックス』(幻冬舎新書/2018年)は、このようなことを取り上げながら、ご自身の80年あまり生きてきて得た経験や考え、または仕事を通じて知り得たことが不可分であるようにまとめあげられています。

そして、内容としては今までの言説や知見を今一度囲うようにしていて、文字通り「完結編」と謳うのが良いのでしょう。

個人の、ひと夏の読書感想文として仕上げてみるのもアイディアのひとつですが、これは多くの人の目に触れて、今一度しっかり考えてみるべき一冊のようにも思います。

それだけに割愛も大いにしていきますし、主たる内容を取り上げることもしないだろうけれど、いくつかの観点はあくまでもベースとして、そこはかとなく織り交ぜていければ良いなと思います。

そして、それはベースであるがゆえに、真っ先に気づくものでもないでしょうが、味噌汁の"だし"のようにじわじわと効いてくるようにも思うもので、同じように感じてもらえたら本望ということになります。

かねてより言葉にしてもいるのですが、性の話やお金の話はなかなか会話の俎上には上がってこない類のものになっています。

あってもホニャララな人数や回数の多い/少ないとか、誰とヤッた/ヤラないとか、だいたい下世話な表現に終始してしまうのが、まことに残念でなりません。

そして、本の内容も加味してみれば、何をもって「普通」とするのかは言いがたいものですが、きわめて「普通」に過ごしているのではなかなか行き着かないようなことがあるものです。

少なくとも自分においてそうであるし、身近でこんな類の話をする人を見かけたこともありません。

もしかすると、これまでにも身近にいたのかもしれませんし、自分から働きかけなかったから知り得なかっただけなのかもしれません。

このあたりは、ひとつには「類は友を呼ぶ」ことのコツ(THE ART)を知らなかった、自分自身の不徳のいたす、ひたすらそのあたりになります。

それはそれとして、ここの領域を上手に掘り下げていくと、単なる肉体や精神をはるかに凌駕するような貴重な知見に行き着くので、知らないよりかは知っておいた方が良いわけです。

わかりやすい言葉で言えば"悟りを開く"ことができるのではないか、少なくともその手立てやヒントの重要な部分を知っているかもしれないと思うようなものになります。

人によっては、"開眼する"と言い替えても良いかと思います。

それだけに、機会があればとことん話し合ってみたいなとも思うわけですが、今は自分自身の内側で考えを広げて、かつ、しっかり深めていくことが良いことのように思います。

聞かれれば余すところなくお伝えしようとしますが、言葉遣いや発想の仕方において、あらかじめ敷いておきたいことが既にそれなりの多さであるために、本題に突入する前に、興味・関心がどこかに行ってしまうことも考えられるものです。

だから、普段はだいぶ物静かに過ごすくらいで、しかも「あの人、何考えているの?」と思われるくらいで、自分自身は至極安寧な気持ちでいられるものです。

内心ではこういうことが渦巻いているし、今年の年明けからの一連の投稿を覗いてもらえれば、それなりに首尾は一貫しているように思います。

また、こうして先を促すように進んでいることで、余人をもって替えがたいほどに不思議な境地に向かっているような気がします。

それゆえに、物事を観察する態度が加速するものですが、だからといって、それにとらわれているわけでもないのが、余計にわかりづらい境地にいることになるのだなと思います。

一定の"こだわり"はあるけれど、偏って"こだわり"を持たないことが"こだわり"でもあるので、裏の裏が表であるように、一周して元の位置にいるのだなと思います。

それでも、実は一周している分、何もしないでいるよりかは立つ位置が変わっているかもしれませんし、前進だか高みだかに歩みを進めているのかもしれないわけです。

先の例にあるように、口を開かずとも思うことでは、たとえば、道行く人でも身近な人でも構わないのですが、「その人が一体どのようなセックスを行うのか」、そういう観点で見るとその人の本質をグイッと引き寄せるようにして、知ることができるように思います。

あるいは、「どのような歩き方」をするのかがその人の本性を反映しているなとも思っていて、それとなく観察を続けています。

それはさておき、決して「あなた」と「私」でいたすーわけではなくて、他の誰でも、その人が誰かと真っ向から向き合う時に、どういう振る舞いを行うのかを知ることで、どういう考えや行動のもとに普段を過ごしているのかを擬似的に知ることができます。

経由して、ほんのりとうかがい知ることができると言っても構わないのですが、ごまかしも虚勢も張れない時にどうであるのかは、かなり大切なことのように思います。

これは、後にも詳しく述べたいことでもあるのですが、平素何を基準として考えたり行動したりするのか、その人なりの固有のものがあると思います。

それと連動するように、目の前のあれこれに対応して日々が営まれていくのであれば、たとえば、何をもって"幸せ"と思うのかで、幸せの感じ方がそれぞれにあることになります。

それについては、個々で自由に思えば良いことなので、取り立てて何を言うことはいたしません。

これを敷衍して考えて見ると、多くの人にとって、勝手がわからない、どうしたら良いかの正解がわからない状況や事態がしばしばあるかと思います。

そのような、ある意味土壇場にある時にどう振る舞うのか、その振る舞い方がその人の本性が垣間見える瞬間なのかなと思います。

普段は饒舌に何でも話すような明るい人でも、誰かと(しかも一糸まとわない姿で)向き合う時に、素直に「好き」とか「こうしてほしい」とか自分の感情や気持ちを言えないし、それを不自然なままにためらっているということがあるわけです。

それも、急にノドが詰まったように言えないとなると、よほどのものがその人の中にあるのだなと思うわけです。

こういう光景を目の当たりにすると、「あー、こちらの持っていた(最初の)印象とは異なるものだな」と、何だか不思議な気持ちになるものです。

また、似たようなことでは、普段いろいろと強い抑圧を受けているがために、深く呼吸をすることができない人も随分と多くいるようなのです。

意識・無意識と呼吸では関連がないようにも思うものですが、素直に感情を言えない、姿勢の悪さも相まって呼吸が浅いような人がいて、パッと見は問題がなさそうでも、抱えているものが重大だという人が意外どころか、随分と多いような気がします。

いくら外見を着飾って整えたとしても、内心ではとか、本心のところではとか、当の本人にとっても周りの人にとっても何もわからないことは多いのかもしれません。

これは同時に、自分自身を少なからず偽ろうと思っているのかもしれませんが、自分自身のことをしっかり知らないでいるうちは、他の人をしっかり知ることなどできようがないように思うものです。

奈辺をこのあたりとしてみると、普段、色恋だなんだとやっているような場合でも、スタイルがどうこう、大きさやカタチがどうこうということは、実際にはほとんど関係がなくなってくるように思います。

見た目でどうであるかは多くの人にとってわかりやすいものですが、"一緒にいること"と"仲が良いこと"は決して同じではないことにも気を向けなければなりません。

あるいは、何回デートをしたから親しさが何%増したということでもなくて、どれだけ親密になることに真摯であるのか、決して測れないところが大切になってくるのでしょう。

また、相手を知ることが自分を知ることにもつながってきて、相手との差異や共通項が浮き彫りにしていくものです。

こういうことを下卑た感じにもならず、揶揄するようなことにもしないで、「今日の空は、快晴でサワヤカね」くらいの、きわめてライトに語れると良いなと思います。

基本的には、こういうのは"秘め事"であって、個別にイチャイチャしたり、よろしくやってくれれば構わないのですが、一方では人類・人間存在に共通のものでもあるわけです。

それなりに、経験や知識を持ち寄ることもできたら良いし、より良いもの、より本質に近づくであろうことを、忌憚なく話し合えたら良い気がします。

話が広がるがゆえに、今のところはまだ収束するようなことはなくて、さらに思いつくままに展開していけばどうなっていくものか、しばらくは続けていこうかなと思っています。

だいたい今回においては折り返し地点を過ぎたあたりとも思うので、「まだ半分か!?」と思いつつ、後半も読み進めてもらえたら良いなと思います。

むしろ後半の方が長くなりそうです、そして3部構成へ・・・。

果たして、個人的に、恋愛においてのパートナーはどういう人が良いのかを考えてみようと思いますが、端的に言えば「一緒にいて、賦活されるような人」ということになる気がします。

"フカツ"だからと言って、決して深津絵里さんでなくてよ(ステキな方ですね、最近は映画や舞台を中心に活躍のようです:余談)。

一緒にいて刺激になる、頭をより使うとか発想が柔軟で素晴らしいとか、そういう自分の内側にあるけれど、誰かといることで知的活動がグイッと促進されるような感覚をもたらしてくれる人、そんな人が良いなと思います。

見た目においては、笑顔の似合う人、このあたりに小林正観さんの「そ・わ・か」の法則が働いてくるのですが、今回はそこには触れないで、やがて詳述することになるのかどうかなくらいに留めておこうと思います。

時折頭をもたげるような発想として、自分自身の、基本的な考えや性質は変わらないわけですが、時期であったり、日々の積み重ねであったり、その時々の成長・変化があります。

何もしなくても年齢は加わっていくので、自分自身の雰囲気や考え方も、何かしらは変化していくものです。

また、極端な話では、一週間も経てば何もしなくても手や足の爪が伸びていくように、あるいは、カラダの細胞が順次入れ替わっていくように、どこかしらかは変化が訪れるものです。

そういう、時間の経過そのものに準じるように、自分自身もいつも変わり続ける存在でいたいし、それがより良い変化であるようにしていきたいものです。

変わり続けるということでは変わらないために、たとえば出会った頃のままを期待されるとか、ある時点での雰囲気のままでいてほしいと言われるようでは、ともすれば窮屈な思いにとらわれるものです。

場合によっては、体型が変わることもあるでしょうし、着る服の雰囲気がガラリと変わるということもあります。

それゆえに、殊更に言われるようなこともないように、そういうことは口を衝いて出てこないように、かつ、無言の圧力もないようにそっと距離を置くようにしてしまうものです。

自分自身でそう思うように、相手に対してもむしろ能動的に変わり続けている方が、好意を抱きやすいようにも思います。

そういう方がかえって安定しているということで、福岡伸一さんの「動的平衡」の発想を持ち寄ってみると良いかなと思います。

もっと身近なところでは、ゴハンを食べては排泄を繰り返して生きていくように、独楽(コマ)もクルクル回り続けているから安定していると見ることができるわけです。

今のところ、これを尋ねられたことがないので、これ幸いなりと思っていることのひとつとして、「アタシと有紀、どっちを選ぶの?」という質問です。

必ずしも知り合ってからの月日ばかりではありませんが、昨日今日会ったくらいでの関わりでは、こういう質問はいかがなものかなと思ってしまいます。

無論、これに対しては(今は)ほとんど即答で「有紀」であり、これが答えに窮するようであったり、いくらか逡巡したりするのであれば、もしかするとコトなのかもしれません。

そういう「あなた」はそれだけ得難い存在であり、唯一無二の存在なのかもしれないと思うわけです。

これは単純に性別とか、性格の合うとかいうことではなく、理屈を越えたところでの「出会い=邂逅」なのだということなのでしょう。

人が人として生きていくためには、多くの人の間に立っていることが必要になってきます。

それでこそ、動物としてのヒトでなくて、"人間(にんげん)"になるわけです。

ただし、それは必要条件であって、十分条件ではないように思います。

この、必要か十分かのような言葉を用いずとも、条件を満たすための要素がいくつかあることを知っている人はどれくらいいるのでしょうか。

あるいは、人と出会うこと自体が目的でなく、出会って何がはじまるのか、何をはじめることができるのかを知ることも大切な気がします。

これは、目的と手段かみたいなことにもなるのですが、自らの思うところの仔細を聞かずして、判を押したように配慮も工夫もなく言われると、何としてもコトの比重を見誤るのは避けたいなという気になるものです。

そのためにも、拙速で迂闊な発想をしないように、普段からしっかり知性を発動させておこうとも思うものです。

最近の、自分自身の場合では、ひとつひとつの出会いを楽しんでいるだけであって、特定のこういう人に会いたいというわけではないのです。

今回の話で言えば、代々木忠監督に会いたいなと内心思っていたとしても、他の監督のことを言われたところで、比較するものでもないし、代替できるものでもないのです。

これは、たとえばプロ野球選手に会いたいからといって、熱心な巨人ファンの人に他の球団のスター選手を合わせるようなもので、確かに光栄なことかもしれないけれど、そうじゃないんだよなというミスマッチが起こっているわけです。

そして、特定の誰かに会うような単純なことでもなくて、多くの人とそれなりの場数を通じて知り合っていくうちに、そのうちの何人かと親しい交流をするようになるか、ならなくても良いけれど、せっかくなので、なったらなったで楽しそうだなという感覚でいます。

何かをしたいから出会いを求めているわけでもないし、出会いが多くあれば他に何もいらないわけでもないのです。

出会いの先に望む何かはあるとしても、手が届くかどうかは次の話になってくるので、自分自身、今はそれに向かっていること自体が尊いのだと思っています。

こういう考えの順番とか理屈とかを解き明かしたいと思うし、今は入れ替えるように考えているところもあって、それだけに説明を丁寧に繰り出さないと、思うところのいくらかを伝えることはできないような気がします。

この場合で言い方を変えてみると、"出会うからはじまるのでなく、はじめているから出会う"のだと言えるかもしれません。

もう少し具体的には、『ワンピース』において、ルフィが海賊王を目指しているから仲間(クルー)のひとりひとりに出会っていくわけです。

ゾロやナミに出会ったから、海賊王を目指そうかな、ウソップやサンジに出会ったから余計にそう思ったということにはなっていないのだと、それはわかってもらえるかと思います。

海賊王になるにしても、誰かと出会ったり、誰かを倒したりしたからなれるようなものでもなくて、目も眩むような金銀財宝を手に入れたからなれるようなものでもなくて、いつの間にか名実ともにそうなっているものなのかもしれません。

ルフィの場合とどことなく対照的に思うのですが、"白ひげ"の場合では、当初は海賊王を目指していたかもしれないけれど、やがて家族(ファミリー)と呼べるような仲間たちと旅を続ける、それ自体に価値を見出しているわけで、これはまたひとつの望むものとかなうことが一致しているケースのように思います。

白ひげの思いを汲まずして「海賊王を目指さないのは日和ったからだ」みたいなことは決して言えないわけです。

自分自身の場合でも、シャンパン100万本手に入ったから「達成でーす!」、自宅にナイトプールがあるから「幸せでーす!」みたいなことを望んでいるわけでもないし、それなりに抽象的であるかもしれないけれど、これを目指さずして何を目指すのかという感覚の元に推し進めていることがあります。

言い換えれば、目標は相対的なものであるし、個人がそれぞれに何を思っているのか、目に見えない部分が大きな意味を持っているようにも思うものです。

本音を易々と言うことができるのか、嘘や偽りは良くはありませんが、冗談や戯言でやり過ごすこともないわけではありません。

発言する方としての心構えや姿勢としてもそうですし、これは尋ねる側の力量にも関わるところでもあるように思います。

良きインタビュアーは、的確な質問を繰り出すがために、良い答えを引き出すことができるものです。

概ねのところで考えれば、音楽のアルバムのプロモーションをしているのに、遊園地で好きな乗り物を聞くようなことはしないわけです。

真率に語ろうとする自分自身においては、玉ねぎの薄皮を、一枚ずつ剥いでいくようなもので、丹念に言葉を紡いで、それでどうにか思っていることを伝えようとするものです。

しかし、それはこちらの内側で調整もできるようなことで、相手にとっては果たして、それが本音なのかどうかの保証はどこにもないわけです。

言い換えを多用したり、言わないことで伝わったりすることもあるでしょうし、伝えようとしていても言葉が伴わないこともあるでしょう。

それがまた、自分の言える/言えないを選択する葛藤かもしれないし、相手との信頼によるものかもしれないわけです。

どちらが先に立つのか、譲り合ってばかりでもいけないし、我先にと立ち上がるのも具合が悪いとなれば、どうするのが最適かということも断定的には言いにくいなと思います。

たとえば、相手の言い分や性格をうかがい知るのに、断片的な、ともすれば支離滅裂な質問をつないでいくものです。

生まれは?年齢は?家族構成は?のようなところから、趣味・特技や今の興味・関心にまで及んでいくことでしょう。

ただ、基本的にその人がどのような姿勢・心構えを敷いているのは、部分を寄り集めたところで全体にならないように、どの断片が欠けているかどうかの切り口でない場合があります。

できる限りはひとつひとつの部分も尋ねるし、同時にまた、全体からも探っていくことが大切で、異なる観点から組み合わせながら切り込んでいくことも必要になってくるものです。

まったくもって続くばかりの今回において、無事に最後はミラクル回転にて着地できるのか、今は定かではないけれどやがて終わることはわかっています。

ある程度の一貫性でもって取り組んでいるだけに、散らかしたままで終わるということはありません。

伏線も、別に伏線と思って張り巡らしているわけではないし、"ハウダニット"や"フーダニット"の類でもないので回収しきれなくても構わないことでしょう。

そんなこんなで、"これで終わります"【PART III】をお楽しみくださいませ。

人それなりに生きていくと、長年の習慣やクセみたいなところが、その人と不可分になってくるもので、どのような言葉遣いをしているかが、その人を表していることも多くあるものです。

前向きな人は、いつも好意的な解釈をする傾向にあるでしょうし、そうでない人はそうでないようになっているものです。

このあたりの、「文体とエクリチュール」という関係が興味深いところでもあるのですが、とにかく、どのような言葉遣いをしているのかで、普段の生活がどう動いているかにつながっていくものです。

そこに付随すれば、場合によりけりというところもあって、基本的なところとその時々の、ある意味臨時の対応をすることがあります。

そのためには、いくつかなのか、いくつものなのかは好みで良い気がしますが、複数のスタンダードを自らに設けておいて、その時々で対応するのが良いと言えるでしょう。

うどんやそばの麺打ち職人が、その日の気温や湿度によって麺に含ませる水分の量を調整するように、巧みに使い分けることに似ているように思います。

それを、ひとつの"ゆらぎ"と呼ぶのかもしれないけれど、向こうへ振れてこちらに振れてとなりながら、意外と一定の範囲をたゆたっているものかもしれません。

そういうものを知っていてやっているのと、何となくの感覚でやっているのでは、見た目は同じでも、内実は雲泥の差ということもあるはずです。

しっかり厚みのあるサーフボードにつかまって波間にゆらいでいるのと、何もつかまるものもなく、波に翻弄されるがままに揺れているのでは、似ているようでも随分と隔たりはあることでしょう。

しかも、こういう"ゆらぎ"が、思考や感情において浮き沈みのあるような上下の動きでなく、より多彩であるという方での左右の振り幅につながるのであれば良いように思います。

自分自身においては、こういう不安定さが、かえって気持ちを落ち着かせることになっているのではないか、最近は特にそういう考えのもとに日々を過ごしています。

果たして、人はそれぞれわかり合えることができるのでしょうか。

あるいは、人は、わかり合えない。

そのように考えることも、必ずしも誤りとは言えないものです。

なぜなら、自分のことだって、何を考えているかわからないのだから。

しかし、このような問いかけに対して、「お互いにわかり合えないよね」というところで合意が取れるような、そういう頭の使い方ができるのは、だいぶ建設的であるように思います。

また、無駄を排するように即座に解決にしてしまうのと、迂回を多く経ても知的負荷がかかる方では、自分自身は後者を選んでいきたいと思っています。

そして、わかり合えないところを数え上げるより、それは随分と少ないかもしれないけれど、わかり合えている方をうんと大切にした方が良い。

これもまた、コップに半分ある水をどうとらえるのか、考え方と日頃の習慣による賜物と言えるでしょう。

さらなる問いかけになりますが、自分の生まれてきた意味や、生きていく意味を、あなたは言うことができるでしょうか。

自分自身で、「さて、生まれて、いっちょ生きてみるかー」と思って世に出ている人が(ほとんど)いないように、ポンと生まれ出た瞬間から時を刻みながら生きることがスタートします。

ある意味では本人の意思どころでなく、時間や場所や置かれている状況など人それぞれで、しかし、否応無しに生きることをはじめていくしかありません。

どのような境遇であるのかも選び取れませんし、それ自体その人固有のもので、誰にとっても余人をもって代え難いわけです。

ただ、誰にとってもその人固有であるということは、孤独の裏返しでもあって、それだけに出身地や年齢が同じであると妙に嬉しくなるのは、他の人と自分の間に、何かしら共通点があるという喜びが大きいのかということが考えられます。

どうやって生きていくのか、それは一筋縄ではいかないかもしれないけれど、目の前のことに精一杯取り組んでいるうちに、やがて長い年数を経るうちに、生まれてきた意味を知ったり、生きていく意味がわかってきたりするのかなと思います。

今、それなりに生きてきたからわかることがあって、これが過去のどの時点でもわかり得てはいないなということがそこかしこにあるものです。

ようやくまとめに取りかかっていこうと思うのですが、自分なりの物事を見るモノサシのような、判断の基準となる考えを持っていると良いと思います。

こういうものを、まさしく規矩として持っておくことで、取り組む具体的なあれこれは異なったとしても、根底にあるものは似通っている場合があるものです。

何を食べるにしても、箸やスプーンを使うかもしれないけれど、何か取ったりすくったりして口に運ぶことでは共通していると考えるような感覚です。

そして、一歩でも前へなのか上なのかはわかりませんが、歩を着実に進めていくことで、世の中の真理や本質に近づいていけることでしょう。

少しずつであっても、そうなれるように、日々を大切に過ごしていきたいと思う次第です。

魂は崇高なるものだけれど、この世で生きている限り、現実的には肉体を介さないとどこにも行けないものです。

また、心が動けば涙が出るように、心やカラダは決して別個のものでなく、ひとつなぎのものでもあります。

心と魂は似ているように思いますが、心の深いところにあるのが魂と考えると、これもまたつながっていると考えられます。

魂は別に扱うとして、そうして、心とカラダ(肉体)、思考や論理を司る頭(あるいは、脳)とをセットにして考えてみると、決して頭でっかちになるわけでもなく、行動で動き回るだけでもなく、感情に任せるがままでもないことになってきます。

これら3つと魂の、取り上げ方や組み合わせはいくつかの例があると思いますが、頭で考えながら、心とカラダを使いながら魂の充足を図るのが良いということはひとつ言えることのように思います。

こういう結びつきは、決して目には見えないものだけれど、だからといっておろそかにしてはいけないものでもあります。

ここまで述べておいて言うのも妙なものですが、自分自身は決して論理・理屈のタイプではないのです。

自分自身が普段何を考えてみるのか、それを知ってもらいたいがためにあれこれと述べているのもありますが、それ以上に、しかるべきところにはとても有用な知見が蓄えられているということ、その事実に意識を向けてもらいたい思いが強いものです。

それだけに言葉や例証を多く持ち出して、(もちろんヴァーチャルな)紙幅を費やしていき、何か説明をするとか、自分の考えを披瀝するような場合では、とことん"情理を尽くす"ことを心がけています。

時間や分量の限りはありますが、それにしても「感情*論理」の組み合わせになります。

そして、今は特に観念的な領域にも飛び込んでいて、これはまた少し軸層が異なってくるものになります。

それぞれ固有に大切なものでもあるし、「あなた」と「私」の相互の関係によって引き立つもこともあるでしょう。

そういうことを介在しながら、お互いに、世の中の真理や本質にまで届いていけると良いものです。

海賊の宝箱も、たしかに空の箱が多いのかもしれないけれど、ずっと開け続けない限りは金銀財宝を収めるものにも巡り会うことがないようなものでしょう。

石をひっくり返してみるとダンゴムシが多くいるのは、苦手な人もいるかもしれませんが、それにしても石をひっくり返し続けないことにはダンゴムシの多くいるところもわからない、そういうことをそれとなく感じ取ってもらいたいものです。

先述の「文体とエクリチュール」にも関連して、何かを言おうと思っている場合に、言葉を駆使し、文体にも気を配りながら推し進めていくことになります。

ただ、言葉や文体は、ここから遠くだか深くだか行くために用いる乗り物や地図のようなもので、それ自体が目的ではなく、あくまで手段に過ぎないものです。

これらを熟知し、いかに使いこなすかによって、思考や感情においても未だ知り得ぬところまで行き着くことができるようにも思うものです。

日本語にしても、それ自体にある叡智や極意みたいなものがあるために、普段の会話で出ている語彙や表現など、かなり限られたものであることでしょう。

いかに考えを深めるのか、いかに多くの人に訴えかけることができるのか、そういう営みを繰り返したり、内容や表現において上達したりしていくことで「人と成る」のであれば、言葉や文体でもって人格陶冶をするというのは平仄が合うことのように思います。

そして、それを目指していきたいとも思うものです。

今回はだいぶ長くなりましたが、これだけ述べていけば自分自身にも、そして、ここまで読み進めてきた「あなた」にとって、もたらす何かがあることでしょう。

その中に、少なからず共感するところがあるようであれば、「類は友を呼ぶ」ように、良きつながり・結びつきが生じる可能性があることになります。

少なくとも、ここまで読み進めてしまったからには、引き返さなかっただけの理由や背景があるのでしょうし、かなりの忍耐・忍辱の備わっていることの証左であるように思います。

今の時点で狙っていることは明示しにくいものでもありますが、何かしら"閾値を越える"ためにもこれだけの分量が必要だったということはあったのでしょう。

また、何かの折には、もう少し読みやすい分量と内容においてお届けできたら良いなと思います。

次にお目にかかるのはいつになるでしょう、再会の時を待ち望むその時の流れが、今は心地好いと言うことができるような気がします☆

 

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