SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Category: JAM SESSION (page 1 of 2)

物語の力<保存用>

 

本日は"魔暦20年4月19日"、私の生まれ出ずる日であって、それを奇貨として新たな物語を付与してみようと、大いに言祝ぎながらここに試みる次第。

福音は高らかに鳴り響くべきものであって、それは私のもとにも降り注いできても良いもので、さらには心より待ち望んでみても良いものであろう。

世の中には、映画や小説などの作品が無数と言って良いほどに多くあって、そして、時代を問わず広く親しまれているように、「物語」の持つ魅力は強大なものです。

身近なところでも、思うところや言いたいことの骨子を、ほんのひと言やふた言にして言い切ることがほとんどできないように、また、それらは数百~数千字足らずで語り尽くせるようなものでもなく、いくらかまとまった分量の、場合によっては長大に渡る「物語」によって、何かしらの"本懐"を伝えようとします。

そして、多くの場合、どうにも言い表せないようなことが、言い表していること以上に背後や裏側に控えているようにも思いますし、人それなりに生きているとあれば、時間の長さでもしかり、心の奥深くに大切にしまってあるものは、そう容易には口をついて出てこないものです。

時には、何かを語らないことによって、何かを語ろうとすることもあるでしょうし、きっと見えるばかりが本当のところでもなく、見えないところにも目を向けようとする、そういう想像の及ぼし方ができることも必要だなと思います。

必ずしも説明しきれない、そういう"もどかしさ"はすべて取り除くものではなく、そこはかとなく漂う情緒のように、あってしかるべしというところかもしれません。

奥歯の間にモノが挟まってしまったら、速やかに取りたいと思うものですが、その間は挟まっているから気にするようにもなるし、舌先でつついて何とかしようとも思うわけです。

あるいは、"事実は小説より奇なり"なのかもしれないけれども、一方では"小説もまた事実より奇なり"ということもあって、現実だろうが虚構だろうが、自分が知っている(と思っているような)ことは、知らないことに比べて随分と少ないことに気がつくものです。

そこでは、何が本当のところかを知ろうとする態度が採られるかもしれないし、ドキュメントやロードムービーのように、日々の活動を月単位や年単位で通じながら、語らずして語るようなこともいくらかは可能になっていくように思います。

また、「文体」が自分の思いを乗せる"乗りもの"のように考えられる時に、その思いがどこに行き着くのかの最果てを知ってみたいものだし、自分自身においても今の思いを乗せる"存在"自体が果たしてどのようなところに行き着くのか、それを見届けたい思いがあります。

私個人としては、ひとつには音楽の、バンドやミュージシャンの活動を通じてそういった「物語」を感じることは多いものです。

たとえば、音楽におけるCDアルバムの制作及び発表、また、それをプロモート&フォローするライブ・コンサートやツアーを経て、時にはDVDや(最近では)Blu-Rayの映像作品にまとめることもして、活動の基本的な(あくまで基本的なところでの)サイクルが一巡します。

また、時と場合によっては、日本武道館や東京ドームのような大きな会場であったり、演奏する曲目や内容が特別なものであったりして、ライブ・コンサートそのものが活動におけるひとつのトピックとなることもあります。

それでも、各バンドや各ミュージシャンの活動を総括するようにして見る場合には、これまでにどのようなアルバム(あるいは、シングルやミニ・アルバムなど)を出してきたのか、ディスコグラフィーの一覧でもってどうにか知ろうとすることが多いように思います。

これまでに出たものしかり、次の新たなアルバム、さらに次のアルバムと、その時期ごとに出るアルバムがひとつの節目となっていくように、そこで各時期ごとの意味づけができたり、事後的にその時々がどういう時期であったのかを知ったりすることも多いものです。

バンドやミュージシャンの置かれている個別の状況やタイミングだけでなく、音楽シーンの範囲だけに留まらないところでの、その時期に付随する時代の雰囲気や社会の趨勢のようなものも、それぞれ同じようにして知るところです。

ハードロック/ヘビーメタルの世界においては、それぞれ"ひいきの"バンドやミュージシャンはいるとしても、それでもわかりやすいところでMETALLICAやIRON MAIDENが引き合いになることが多いため、メタルの世界に入門したばかり人にとっても、各アルバムの特徴や時期ごとの特徴を比較的容易に知ることができます。

また、もう少し間口を広く取って、"ロック"としてとらえる場合、上記のように大きな視点で活動を見ているバンドとして、LUNA SEAを挙げていくらかの言及をしておきたいと思います。

必ずしも多作ではない、それは言い換えればアルバム一枚ごと、楽曲の一曲ごとに全身全霊を注ぎ込んで製作にあたっているわけですが、アルバム一枚あたりに込められている「物語」もしかり、アルバムを前後する活動から見える「物語」もまた、こちら側に真に力強く迫ってくるほどに、かなり分厚いものを持っているように思います。

1990年代半ばから後半にかけての、『MOTHER』~『STYLE』~『SHINE』と続いていく時期の、バンド内外にほとばしる緊張感やテンションは桁外れに増していくように思います。

また、2007年の一夜限りの復活"GOD BLESS YOU~One Night Dejavu~"から再始動の"REBOOT"、そして今に続く活動とそれに呼応して出てくるアルバムについては、いくら言葉があっても分析も説明も追いつかないもののように思います。

それだけに依然として多くの人を魅了するのでしょうし、強く魅了された人は身も心も"SLAVE"と化するのでしょう。

音楽を楽しむということでは、楽曲単位であったり、ひとつひとつの歌詞やメロディーのフレーズであったりをそれぞれ楽しめばそれで構わないわけですが、もう少し広くとらえるという意味において、LUNA SEAはひとつの際立った例なのかもしれません。

その時々のインタビューやレポートを通じて、バンドの活動を現在進行形でこと細かに知っていくこともしながら、一方では、ある程度時間が経つのも待って、より包括的に知るようにするのも良いようにも思います。

一度は"終幕"を迎えたものの、その後の時間の経過があって、にわかに機運が高まって再び同じステージに立ち、さらに2010年からの本格的な活動になるとは、当事者であるメンバーを含め、2000年のあたりで想像できた人は果たしてどれくらいいたのでしょうか。

それでも、どれほどにドラマチックな事象であろうとも、実際には小さな出来事の積み重ねであるので、何かがそれほど急に起こることは滅多にないような気がします。

一見すれば偶然に見えるようなことであっても、そのひとつひとつが必然であるようにして寄り集まってくることで、当然のように物事は進んでいくものです。

年月においても同様で、長年にわたるひとりひとりの小さな"祈り"が集まってこそ、大きな岩をも動かす力が働いたとも言えるので、つい小さく見えてしまう(ような)ことも決しておろそかにすることはできないものです。

そのようにしてまたLUNA SEAとしての大きな「物語」は動き出し、25年以上のまとまりを持って、今もなお"続き"を描き出しているわけです。

LUNA SEAに限らず、意識的・能動的に音楽を楽しむようになって四半世紀以上が経つような自身をとらえてみれば、当然いろいろ見知ることはあるものです。

このように"時を恃む"ことで味わえる深さや奥行きもあるので、リアルタイムで追いかけるとともに、大きな視野に立つことのどちらもできた方が良いのではないか、ささやかながらそのように取り上げておきたいと思います。

ここで、自分にとって大きく影響を及ぼしているバンドやミュージシャンの、名前の多くを挙げることもやぶさかではありませんが、それを披歴すること自体にあまり意味はありません。

むしろ、これまでにどれくらい芳醇な(音楽を取り巻く)体験をしてきたかが重要なポイントになります。

最近の目立ったところでは、Hi-STANDARDのアルバム発表及び全国ツアー、HELLOWEEN特別版のPUMPKINS UNITEDに歓喜した人も多いことでしょう。

それは、ひとりひとりが思い出や記憶をかみ締めていれば良くて、何だかそれ以上でも以下でもないような気がします。

多くを語ろうとすれば、当然言葉を多く費やすでしょうし、費やしたところでどれだけ伝えることができるのか、それはまた別の問題になります。

話を元に戻してみると、見る側としてだけでなく、自分のことにおいてもおそらくそうですが、何事も最初から「何ヶ年計画」のように綿密に考案され、そのまま齟齬なく実行されることは相当に少ないように思います。

ある程度の、期間の長さを想定してやっていることはあるでしょうが、結局はその時々の状況に合わせて臨機応変に対応しながら、その時々でどれだけ充実した時間を過ごすことができているのか、あるいは、持てる力を十全に注ぎ込むことができているのか、ひたすらそれの積み重ねでしかないように思います。

そして、一歩一歩と地面を踏みしめるようにして進んでいき、いつか振り返ってみ見た時に、あくまで結果として、そこに何かしらの"道"が踏み固められていたということなのでしょう。

もしも最初から大きな「物語」を織り成したいと思ったとしても、果たして最終的にはどこに行き着くかわからないでしょうし、途中での変更や修正は余儀なくされるはずです。

結局は、紙面に一文字ずつ綴っていくしかないように、逆説的に"今"の連続によってしかそれはかなわない、そのように言うこともできるかもしれません。

これまでも、そしてこれからのことにしても、その"今"を力強く精一杯打ち込んでいるようにしている場合では、そこから立ち上がってくる「物語」は、時間は経っているということでの時代の移り変わりは感じたとしても、必ずしも古さを感じるものではないように思います。

音楽におけるアルバムが、その時期ごとを切り取っている作品であるように、それがまた世に語り継がれるようなものであれば、時には"クラシック"と呼ばれるようにして、時間の長さを取り込んでさらなる魅力とすることができるものです。

活動が現在進行形で、なおも続いているようなバンドやミュージシャンにおいては、技術やパフォーマンスがより洗練されたり、より深い魅力を醸し出していったりするでしょうから、アルバムであり楽曲なりもまた呼応して、決して色褪せることはない"今"を絶えず感じさせながら更新していくと言えそうです。

アルバムや楽曲のタイトルに関して少し付け加えておくならば、意識してかしないでかの明確な線引きはできないものの、その時点ごとの事実認知的な言明であり、これから先々に対しての遂行的言明でもある場合が少なからずあります。

ここは言語学者のジョン・L・オースティンに詳しくあるようですが、コトの要諦としては、今がそうであることの状態や形態をそのまま言い表していて、それを確認しているものが事実認知的な言明になります。

一方、理想や目標を掲げて向かっていく姿勢や様子を言い表して、これからそうしていく前向きさを表しているのが遂行的言明ということで、時間を前後しながらもふさわしいタイトルになっていると感じるものがいくつかあります。

METALICCAの最初のアルバムが『KILL’EM ALL』というタイトルで、決して"ミナ殺し"ではないけれど、"ヤラれた=心を持っていかれた"ように、多くのファンの心を射抜き、膨大な数のファンを得ていくことを物語っているように見えるものです。

また、間近でセンセーショナルなところでは、X JAPANの"もうすぐ出るはずのアルバム"がいつ出てくるのか、タイトルはセルフタイトルの『X JAPAN』とも一部ではささやかれていますがが、それによってまた音楽シーンの衝撃的な景色を見ることになるでしょう。

この場合では、"X"の持つ可能性が読んで字のごとくの"開かれた未知性"であり、"JAPAN"が地政学的に日本の出自であることを表し、名実ともに"これぞX JAPANっ!"というものになっている可能性が高いどころか、そのはるかに高い期待すら越えてくる予感がします。

もしも正確さをもってこれを語ろうとするには、こちらの語ろうとする姿勢が整わないことには、そもそも語り出すことすらしないというエピソードもあるにはあります。

端的に言えば、人ひとりのことと言えど、少なくとも口に出して言えるくらいには干支が一周するくらいの年月(=約12年)は必要ですし、そこからようやく落ち着くと思えるくらいにはさらに数年はかかるものです。

自分の歩みと重ねてみれば、10代の終わりから、20代をそのまま通り過ぎ、30代の半ばになるまで、ずっと待ち続けたひとつの「物語」に対し、長く思いを持ち続けてきて良かったと言える自分がここにいます。

それについては、どこにあるのか、あってもきっとわからないでしょうが、時系列に従いながら少しずつ切り取っているものが別にあるので、こちらではあくまでほのめかす程度で終わることにしておきます。

少なくとも、私にとって"待つことのできる"基準として、ひとつは12年くらいであるということになります。

人は誰しも、どこから来てどこへ行くのかがわからないように、ひとつの命を生きているとは言え、ただひとつの道を行くだけに定まっているわけではありません。

次の一歩をどこに踏み出していくのか、今のここから新たに踏み出すことはしていくにしても、それは事前に決まっているわけではなく、ある意味では自分の意思に委ねられているわけです。

これまでの延長線上に続けていっても良いわけですし、別の方向に転換しても決めるのはあくまでも自分自身であって、誰の意向に添わなくても基本的には構わないということになります。

その歩みのひとつひとつを漫然としてではなく、極めて自覚的に置いていこうとする時、その決断自体の重さに逡巡するようなこともあるかもしれません。

場合によっては、どうにも歩を進めることができないような極めて心許ない気持ちになることもあるでしょう。

日頃から、何をどうしたら良いかわからないような時に、どうしたら良いかを知っていることができるようにしておくことも大切ですし、あるいは、そのような時には何をどうしようが好きなようにすれば良いと言い換えることもできる気がします。

想像の枠組みを押し広げる試みとしては、人生はあくまでも単線的なものではないし、単線的にできるほど単純なものではないということを知っておくのも、ひとつには良いと思います。

あちらに寄りこちらに寄りと、いろいろ行き当たりながら自分の進む「道」を次第に見出していくように、時に振り返って、過去の経験やこれまでの様子を確かに参考にするかもしれないけれど、これから先は別のレーンをいくようであっても構わないわけです。

それも、競技場のトラックの話だけに限ったような話でなく、道路でも舗装されていない野道でも、少しでも視野を広げてみれば選択肢は思っている以上に多くあるものです。

また、推理小説やミステリ作品と異なって、伏線を方々に複雑に張り巡らせたとしても、何か事件や問題を解決するわけでもないので、律儀に全部を回収しようとしなくても良いでしょう。

場合によっては、迂回するようにしてまた来た道に戻ることも、選択肢のひとつに数えて構わないと思います。

それでも「物語」としては"続いていく"ことに何ら変わりはなく、その時々で興味や関心を持って取り組んできたいくつかのことが、進んでいくうちに突如として"点と点が結びつく"のであれば、それはまた望外の嬉しさになる気がします。

このように、何が起こるのかわからないことを好意的にとらえるならば、これまでがどうであったかよりも、これからがどうあってほしいのか、自分の内なる声を聞くようにしてひたむきに進んでいく、ただそれだけで十分なのだと思います。

自分が今どこにいるのかを、時間や場所の地点として俯瞰的に知る(マッピング)することも必要なことでしょうが、進む道が変われば、当然これまでのことも意味づけは変化していくのだから、結局は敢然と進んでいってこそ、また何かがはじまっていくのでしょう。

そのような意味では、野球のバッターボックスに立たないことにはヒットを打つチャンスが訪れないように、自分の内側にそれなりの「決意」がないことには、もたらされる結果もまた望ましいものにはならない気がします。

私は、普段から見聞きしたものの多くを言葉に置き換えておくような習慣があって、それはひとつの癖でもあるのだけれど、その都度思ったことや考えたことも含めたあれこれを、基本的にはブログに書きつけるようにしています。

自分の視点や観点を明らかにするというのもありますが、「忘れないため」というのが大きい理由であるような気がして、長く続けていると結構な分量になってくるものです。

ほとんど振り返って目を通すようなことはしないけれど、内容としても記憶としても残っていることも決して少なくはなく、時として思い出すこともあります。

過去の資料(アーカイブ)のひとつとして有用ではあるけれど、時間の流れにおいて足枷になることも時としてあるのではないか、そのような考えが頭をもたげる場合もないわけではありません。

ある程度は参考にするとしても、これからの見立てや展望を考える時に「あの時はああだった、こうだった」となってしまえば、どうしてもそこに基づいていくために、ある意味では過去に引っ張られているとも言えるでしょう。

記憶と想像が"今の時点で"目の前にないことで共通し、脳内での働きにおいても似ていると考えるならば、この場合では、過去と未来との比重では過去の方に大きく傾いている状態であることは明らかです。

きっと、たくさん書き残しているけれど、振り返るように見るのではなく、吐き出したらそれで終わりと考えるようにして、いつの間にか置き忘れるくらいで良さそうです。

なぜならば、想像できない限りは実際にもそうなっていかないわけで、次に進むために頭の中を定期的に空っぽにするような作業ととらえ、気持ちの余裕や想像するための余白を随時確保していくことになります。

そこでは、過去の意味づけを変え得るような、意味の可塑性なんてそんなものまで気にする必要はなくて、ただ流れるままに任せるだけで良いのかもしれません。

大量のインプットもアウトプットも、息を吸って吐いての繰り返しのようなものですし、吐いた息の行方をわざわざ追うことをしないように、書き出したものに対してもやたら未練を抱く必要はなさそうです。

私の前を多くの人が通り過ぎていったように、私もまた誰かの前を通り過ぎていっただけなのかもしれない。

それでも、私は今、ここにいる。

長く思考をつなぎ合わせて、どうにか新たな物語を付与しようと試みてきたけれど、もしかすると付与すること自体が重要なのではなくて、付与しようと試みること自体がすでに良いことなのかもしれません。

何となく片づかない気持ちになるかもしれませんが、たとえば、電話の受話器を持ち上げてみたものの、誰にかけて何を話そうか、アイディアが輪郭を持って浮かんでこなくても、かけようとしていたこと自体が妥当な判断であり、適切な反応でもあったということなのでしょう。

たとえ思いあぐねていたとしても、それは物事にしっかり対峙している表れであって、決して目を逸らさなかったことの裏返しでもある気がします。

そして、実際のところでは、これまでに言ってきたことや行ってきたことのそれなりが、届く人には(いくらか)届いていたし、何らか実を結んでいたということで、決して少ないどころか大いに意味があったとも言えそうです。

求めてしまえばキリがないように、自分自身が「こういう人に会いたい」と考え、実際に出会うことを求めていくかもしれませんが、「あなた(のような人)に会いたかった」と、自分のことを求めていた人と出会えることは、きっと後者の方が"喜び"の度合いが大きいように思います。

自分の欲求を優先して満たしていくのではなく、誰かの満足に応えることが結果として自分も満たされることがどうやらコトの真理であるように思います。

そして、ここがわかるためには人としての陶冶や涵養が、相当に必要である気がします。

また、視野が狭まって、気持ちも萎縮してしまうとか、自分のことばかり考えてしまっていては、これまでのことが今に続いてい"ない"、これからのことが決まってい"ない"などと、「ない」ことばかりに目を向けてしまいがちになって、今「ある」ことの"ありがたみ"でさえも、十分に受け取れなくなってしまいます。

この世に命を授かり、誰もがその人なりの「お役目」を持っているとして、英語でいわゆる"天職"のことを(いささか話を簡単にしつつ)"CALLING"と言い表すように、それはあくまで"呼ばれる"ものと考えることができます。

自分で無我夢中にやっていることや、力むようにやるようなことが、自分の思うような力量や技量になっていないことも、また、思うような結果や成果になっていないこともあるかもしれません。

昨今言われる"やりがい"や"生きがい"みたいなものは、あくまで自分の主観の問題であるし、どこで満足するようなわかりやすい指標があるわけでもなく、きっとどこまでも手の届かない先にあるような気がします。

しかし、自分の普段から当たり前にやっているようなことであっても、誰かにとって大いに助けになっている場合、そこでのあなた自身の存在は"かけがえのない"ものになっていると言えるでしょう。

顔の構造として、自分の顔を自分の目で直接見ることができないように、自分の存在の際立ちや貴重さは他の人によって知らされるものです。

何が得意だとか、何が有利だとかにとらわれないことの方が、かえって物事は円滑に進むという場合が実際にはあるものです。

そのために、自分が今できることを精一杯やっておくことは、そういうことに気づくキッカケにもなるので、決して手を緩めるわけではないことを付記しておきます。

人は、誰しも時間的な存在であるとして、望みがあるかどうかとは別のところで、やはり前に進んで行く存在であると言えそうです。

それは、現実的な距離を前に行くことであるし、遡行のできない時間においても同様であって、とにかく"前に進むこと"のひとつの隠喩でもあるわけです。

そして、ここに別の切り口を重ねてみるとすれば、私自身の存在が、肉体的であるのか精神的であるのかで言えば、半々であるよりかは精神的な方が多くを占めているような気がします。

放っておけば精神的な存在に傾いてしまいがちな私にとって、時々は走ったり筋肉に刺激を与えたり、さらには、呼吸も組み合わせてみたりして、どうにかバランスを保っているようなところがあるかもしれません。

そして、多くのことに直面しながらも、どうにか前に進むでしかないではないかと自分を奮い立たせ、最終的には思いをまた新たにするわけです。

もしもこれまでの経験が、白銀色のスプーンにすくい取られた蜂蜜のように、すでに黄金色を放っているのだとしたら、今後はより輝きを増すようにしていくのか、または新たな経験を得るようにしていくかのいずれかで、そこに終始するような気がします。

つまり、これまで過ごしてきた日々が決して無駄ではなくて、今、ここに私がいること自体が素晴らしいのかもしれない、そのようにも受け取れるわけです。

それはまた、その時点で貴重なことに気がつくのであれば、実に"ありがたい"ということなのでしょう。

前述のように、何をどうしたら良いかわからないような時には、一方では何をどうしても良いように、必ずしも自分本位ではないところで、何をどう解釈しても構わない、そう言えるような気もします。

そうして見出された(すでにそこにあったような)素晴らしさが、これからはじまる日々を祝福し、より多くの期待に満ちるものであるようにエールを送っているのであれば、できることはただひとつ、それを大きく上回るように応えていくだけになります。

それもその通りのことで、今年は特に①たずきの道、②本を出す、③法悦の至りの3本立ての目標を掲げながら、究極的には「掬する人」でありたいと願う私は、きっともっと良くなっていきます。

それは、あるいは"sentinel"であり、"unsung hero"なのかもしれないけれど、これはまたの機会に取り上げたいものとして、とにかく私は私であることを選び続けたいと思います。

もう少し具体的には、向かうべき方向にカバン(=「浪漫飛行」のトランク)を置くべく、その方向を見定めることもするし、一方では野放図と言えるほどに自由に想像をふくらましてもいきます。

そんなことは"ありえない"と思うこと自体が"ありえない"わけで、それならむしろ"ありえない"くらいのスケールで夢や希望を描いても構わないでしょう。

やがて"ありえない"ほどに何かに行き着いたような時であっても、さらなる続きを見出して、きわめて愉快に日々を過ごしていきたいものです。

何事もすべて、"アーライッ(ALL RIGHT)"に導かれるままに、案ずるより産むがYASU SEA、ここまで読み通したあなたもまた、日々にとびきり良きものが訪れますよう、心より願っております☆

 

 

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至高体験について<保存用>

 

あー、めくるめくる耽溺に浸りた~い、息もつかせぬ恍惚にまみれた~いと思ったとしても、

会った人にいきなり話を吹っかけるわけにはいかないし、実践においても…(以下同文)。

おっと、まずはお近づきになって、楽しくお話するところからですね。

行き着く先の希望はひとまず申し上げておきますので、どうぞお手柔らかにお願い申し上げます。

それはさておき、三砂ちづるさんの「オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す」(光文社新書/2004年)を、この度読了。

男性には経験し得ない月経、妊娠、出産を通じながら、女性の身体の持つ可能性や女性自身の持つ力強さなどを、今一度考え直してみようというのが主な内容になります。

初版が2004年で、種々の取り巻く状況は多少は変わっているかもしれないものの、何かと効率や結果みたいなところが取り沙汰されることの多い昨今においては、

2018年の今でさえ、人の、生物としての生々しいところはどうも後回しになっていたり、あえて取り上げないで、あくまで個人のこととしてそのまま個人的に解決しなさいとなっていたりする気がします。

この頃は、私がひとりの人間として、女性に向けてお伝えしたいことが常にいくつかあるので、"あなた"は基本的に女性を想定して宛てているわけですが、

男性の場合は、自分のステディな女性とかスウィートに思う女性に伝えたいとなれば、話を受け取るにも受け取りやすいかなと思います。

冒頭のように、あなたと私がどうということとは別に、ひとりひとり、あなた個人としてどうなのかというところと、女性であるとはどういうことなのか、

男女限らずに広く考えてみることも大切ですし、さらには、他の誰かと意見を交わしてみるというのも大切なことのように思います。

少し言葉を選び、少し言いづらいようなことでさえも、「人間」として大切なことはそこに怯むこともせずあるがままに展開していきますが、

どうしても無理っ!と嫌悪を抱かないでいられるように、適切な配慮は随所に施していきたいものです。

たとえば、身体操作や身体技法において、時代や地域によっては、月経の手当てを、下着やナプキンがなくても支障なくできていた/できる人が、日本においてもいた/いるわけですし、

遠いブラジルといった国であったり、ある意味では他の未開の土地であったりしても、その集団特有の知恵や経験があることを知ることが大切かなと思います。

そう言えば、室町時代や江戸時代の女性はどうしていたのかしらと不思議に思うようなものです。

この、同じ日本においても、全員が同じような知恵や知識を有しているわけでもなく、自分の知っていることや知らないことが、そのまま他の誰にもあてはまらないことは想像に難くないところです。

せめて、その提案だけでもできたら良いなと思うので、これを契機と呼びかけているのが少しでも届くようにと、このまましばらく続けていくことにします。

武道・武芸の達人技もスポーツの高難度のプレイなんかもそうですが、自分がその方法を体得し、日頃からできるかどうかは、試しにでもやってみないことにはわからないものですが、

実際にどこかにできている人がいた/いることを見過ごすべきではなく、その事実をしかと認めるところから、何らかの参考にした方が良いのは、ことさら言うまでもないことです。

少しわかりにくい例かもしれませんが、体操の白井健三選手の高難度のパフォーマンスであったり、プロレスのスワンダイブ式のドラゴン・ラナであったり、目を見張るようなことをできる人は確かにいるものです。

フィギュアスケートにおいても、羽生結弦選手の4回転ジャンプが飛べているように、同じ「人間」として訓練の積み重ねでできる可能性が、他の人においてもまったくのゼロでないような発想になります。

再三思うのですが、この「オニババ~」は、女性はもとより、男性も一度は読むに値する一冊だなと思うわけですが、この一冊でもってすべてを網羅できるわけではないので、一読の後に早計な判断や結論に落ち着くのは控えておくようにも申し上げたいものです。

また、本を読む順番というのも結構重要で、いつ出会って、どう読むのか、それまでの読書体験の積み重ねが自分の人生的な歩みとも深く関わっているとも考えられるからです。

自分のこれまで経験したことや日頃考えていること、そして、本を読んだり、話を聞いたりして価値観やモノの見方ができていくし、

そういったものを背景や土台として読み進めていくことで、共感したり、納得したりすることになるのは、おそらく同意してもらえるかと思います。

個人的には、今のこのタイミングだからわかることが多くて、巡り合わせというものの因果をそこはかとなく感じるものです。

簡単に言えば、代々木忠監督の著書「つながる セックスが愛に変わるために」(新潮文庫/2016年)やブログにある言説や、

八木龍平さんの「成功している人は、なぜ神社に行くのか?」(サンマーク出版/2016年)を参照しながら読み進めると、

切り口や語る人は変われど本質はほとんど同じところに行き着くのだなという思いが強まっています。

ここで余談ですが、今は、ひとつに"宇宙を感じる"とも集約される発想を自らに敷いているのですが、

その過程で、黒田有彩さんという宇宙飛行士を目指しながら活動をしている方を知り得たのは、最近の個人的ファインプレーのひとつと申し上げても良いでしょう。

もしもお目にかかることができるのなら、それはまた光栄なことで、そこでどう私は私のことを名乗り、お知らせするのが良い印象となるかを、内心そわそわしながら今のうちより考えておきたいところです。

そして、そもそもなぜ"宇宙を感じる"ことを心がけているかの理由はいくつかあって、そのひとつには次のような背景があります。

直接それがこうであるわけでもないのですが、引用を表しながら何かを感じ取ってもらえたら良いなと思います。

三砂ちづるさんの「オニババ化~」では、医療介入をする病院でのお産でなく、助産院で女性が自分の"からだ"に向き合ってお産を経験すると、その後に記した産婦の方たちの手記では溢れるように文章が出てきているし、そこにはいくつかの共通点があるとのことです。

たとえば、次のようにして、

"「宇宙との一体感を感じた」「自分の境界線がないようだった」「大きな力が働いてそれに動かされているようにゆだねていた」…..など、いわゆる心理学でいう「至高体験」に近いような経験をしています。"(P.101、102)

これが、長年本質的なオーガズムを追求しながら映像作品を撮っている代々木忠監督の「つながる~」にも似た記述があって、その一部を引用すると、

"オーガズム体験を言葉にすれば、

「相手の体が自分の体」(小沢なつみ)

「人間の手と手は合体しないけど、水とジュースは混ざり合うでしょ」(栗原早記)

「男って私、きょうまで私は自分を敵にまわしていた。男の人も女の人も、私なんだ。私だから一体になって当然なんです」(姫ゆり)

これらの言葉は時間も場所も異なるところで発せられたものだが、三人に共通しているのは、自分の体と相手の体の境界線がハッキリしないくらい「溶け合う」感覚を持つという点である"(P.33)

三砂ちづるさんにおいては妊娠・出産において説いているものが、代々木忠監督においては、その前段階である性行為(セックス)において説かれています。

それでも、女性にとって、どこかの段階で"宇宙を感じる"ような体験ができやすいことが考えられるので、そのような至高体験が瞬間的にでも自らにも感じられるよう、粛然として臨みたい気持ちが今は発露しています。

こういう、少したどる経路は異なっていても、同じような体験や表現に行き着くのは興味深く、他の分野や領域においても、言っていることや取り上げていることは異なっていても、

その理路や本質が似通っていることが多いので、それを見出だすためにも、自らの集中力をさらに増すように耳を澄まし、眼光は一層鋭さを帯びるようになるものです。

人間誰しも、個人においては生きて十数年~数十年の年月ではあるものの、連綿と続くようにして存在する人類においては、何百万年とか何千万年とかの気の遠くなるような膨大な長さがあって、

その年月の遺伝的叡智が誰の体内にも組み込まれているのであれば、やや言葉を荒く申し上げるならば「人間、ナメんなよ」とあなたひとりひとりにある底力や可能性を深く信奉したいものです。

また、計量・計測可能なデータばかりに頼るのでなく、目には見えないけれど、自分はこう感じるとか、目には見えない何かはあるだろうとの信憑性を疑わないとか、そういう姿勢や態度が同時に必要であるようにも思います。

見えるものばかりが必ずしも信用・信頼に値するものでなく、どこか「直観」にも似た自分の感覚であったり、

心の声とか内なる声に耳を澄ましたりすることが、かなり妥当であるのも、人間が生物(なまもの)であることの証左なのかもしれません。

具体的には、医学的見地に依る知識や技術も大いに活用しながら、各種医療機関で診察や診断を受けるし、

同時に、自分自身でも内面を見つめるようにして、自分の身体がどのような状態なのかを普段から能動的に知る、

そのどちらも同じように必要なものとして、相互補完的に取り入れるのが良いように思います。

そして、それもまた宇宙の広大無辺なるスケールとか人類の膨大な歴史とか、とてつもなく大きなものの内にあるのだと感じながら推し進めるのではいかがでしょうかと、ここに申し上げる次第です。

なかなか言いたいことの多くはあるものですが、理路を整えるようにして割愛もしながら進めていくことにします。

三砂ちづるさんの「オニババ化~」の途中に、「愛のヨガ」からの引用でも出てくるルドルフ・V・アーバンは、医師として一生セックスについて探求を続けたようで、それは大いに敬意を表し、ぜひとも後塵を拝していきたいものです。

現場における実践においては、しみけんさんや森林原人さんの(まさに)精力的な活動に注目しながら、親しい人とも気軽にこういう話ができることをやっていこうと思います。

民俗学者・赤松啓介の研究を知るのも、大いに啓蒙を得るところとなるでしょう。

冒頭にも申し上げましたが、卑猥にもならず、淫靡にもしないようにして、私は「人間」の話をしているのだと、ただ、そのためにはちょっぴりエッチな話にはなるよということはあるでしょう。

この手のエッチな話がそもそも苦手な人もいるので、一定の配慮や気配りは必要ですが、もしも「人間」の根源に関わる話が一切できないのであれば、

それは日頃の生活(ご飯を食べる、トイレに行くなど)の話もしにくいようにも思いますので、一緒に時間を過ごすことはあまりないように思います。

家庭生活において「メシ、風呂、寝る」しか言わないのはやや問題があるとも思いますが、いつも楽しくゴハンを食べることができるような相手とは、エロス的な関係においても、同様に楽しく入浴し、さらには楽しく…(以下自粛)。

自分の大切に思う人、それがパートナーとなるような人であれば

より一層、自分はこのように思いながら、その思いを伝えたいということを、まさしく伝えていきたいなと思うわけです。

また、機会があるのなら、少なくとも同年代の人たちにはもちろんですが、10代~20代の人たちにもそうですし、どの年代の人たちとも、わりとフランクにこの界隈の話を共有していけたら良いなと思います。

普段より、私は"私はスケベである"と高らかに公言していきたいのですが、はじめよりこう言い募っておくことで、

実際には言っているほどでもないなとか、言っている以上にこいつはスケベだとか、何かしらは判断が下されることを望んでいるわけです。

それでも、このいかなる判断が下されようとも、すべては"スケベ"の範囲でなされるものなので、度合いはさておきスケベな印象を持っていただくことは間違いのないところで、ありがたく思うものです。

なかなか収束しそうで話が広がるのは、私の話すのと同じクセなので恐縮なのですが、

ここで思いついたついでに申し上げておきますと、きっとライトに「いい恋しなよ~」みたいに言う時には、心がときめく≒心臓の鼓動が高まるようなことだけでなく、

身体(からだ)の接触をもって体温が高まるとかホルモンが分泌されるとかのことも含むのかなと思います。

それが一糸まとわず行うような性行為(セックス)だけでなく、唇を重ねる(キス)とか熱い抱擁をする(ハグ)とか、

そうでなくても手をつなぐとか腕を組むとか、相手の存在を"からだ"を直に感じることが良いことのように思います。

ありていに考えて、大っぴらに「いいセックス(性行為)しろよ~」とも言いにくいですので、恋愛と性行為とでは感情と行為との軸足の差異はあっても、一部は重なることを担保に言い替えているのでしょう。

報告する方も、「いいデートだったよ~」と包括して、ややもすれば抽象的にも表すのが礼儀なのかもしれません。

そこんとこどうなのよと率直に知りたい(けど、自分は言わない)ように、そこは人間的修練が必要であるように、私としては思われてなりません。

ここまで、希望を託し込めながら、ひとつ文章を練るようにしていたのですが、それは何のためなのか、

より自分の望むもの、自分の進みたい方に思いを重ねていく方が、とても愉快であるので、そうしたまでのこと、

あるいは、そうして希望を多く表す方が、実際にそうなる捷径という向きもあるので、それを実践している今日この頃なのです。

だいぶ多く(ヴァーチャルでの)紙幅を費やしたので、言いたいことのいくつかはまた追ってお知らせいたします☆

 

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タモリについて<保存用>

 

ここ何週かは、週末に来るとひとつ文章ができる感じで、

特に決め込んではいませんが、そうなっています。

 

そして、本一冊は8万字〜10万字程度あれば、

300ページの内容でできあがるアイディアに、今はしびれています。

 

字数ばかりを重ねるだけでなく、充実した内容が必要ですが、

今回は3,000文字でお届けとなります。

 

テーマが必ずしも前景化していない点で、

どういう話の筋なのかは、パッと見にはわかりづらい、

それでも読み応えはそれなりにあると思います。

 

これで今月は<保存用>×3で、8,000文字程度となり、

似たようなペースで1年続けていけば、

分量としては、一応クリアということになります。

 

以下、どうぞゆるりとご覧くださいませ。

先日、しみけんさんのTwitterを見ていて、"一番の変態は「一人の女性を浮気せずに抱き続ける男」"ということで、その数がおよそ1,000人中の3人らしい(@avshimiken:2018年1月18日 3:32)。

これが日本国内でのことなのか、あるいはどの年代なのかといった、どのような道筋を経て導き出されたデータなのか、対象の選定や調査の方法など、細かいところは気になるところですが、

そこばかりが今回の主題ではないので、随所に冴え渡る"しみぺディア"の信憑性に、今回もまた頼ることにしておきましょう。

男性自身がひたすらに一途であるとか、女性がそれほどに魅力的であるとか(いわゆるファム・ファタルなのか?)、しかるべき理由や背景があるにしても、

そうして話を進めていくに、上記の割合は0.3%を前後するあたりで、これは全体から見るとその数字のまま、だいぶ少ない≒少数派と呼んで差し支えはないように思います。

ここで問いたいのが、もしもこのカギ括弧内にある前提が理想のひとつとされ、全体的に望ましいと(およその)合意がなされている場合、

それにも関わらず少数に留まっているのはどういうことなのか、その望ましいと思うことの理想の高さや崇高さ・険しさゆえに、到達することの困難さを物語っているということなのかもしれません。

あるいは、そうなっていることが、少数派である多くの帰結であるように、むしろ異端であるとか、異常であるとかとらえられている場合(今回では"変態"と称されているように)、

そこを目指したい人は個人の判断や主義・主張で、他の人にとっては特にどうということのない案件なのかもしれません。

一顧だにしないとでもいうような…。

多数ばかりが正義ではないし、少数派を看過して良いわけではないけれど、大きな趨勢にはなかなか抗いにくいのも事実であって、

是なのか非なのか、世の中の雰囲気はどちらみたいなところが感じられると、鵜呑みにするわけではないところで、判断するためのひとつの指標となるのはあるでしょう。

ここで正常か異常かの、定義付け・使い分けもしておきたいところですが(もしかすると専門家がいそうだから)、地域や時代によって一括できないような多様さがあって、

その時々に、どのような価値判断の規矩を用いるのか、文化や歴史なども巻き込みながらそれに左右されるのは免れ得ず、

わかりやすいところでは、天動説と地動説との葛藤であったり、それぞれの宗教的戒律に従う生活様式であったりするのかなと思います。

自分の持つものの見方が、どのような文脈から採られているものなのか、あるいは、どのような影響を受けてそうなっているのか、

ものの見方それ自体を俯瞰するような、少し離れて観察する態度も時には必要だということになるでしょう。

最近では「チーズダッカルビ」が話題になっており、"意外とミーハー"な私も早速ご相伴に預かることができました。

結構、火が入るのが早いので、チーズが焦げないようにして、絶品なるところまで持っていくには、それなりに場数をこなすような、こなれた手腕が必要な気がしましたが、

ここでは、単純に自分が食べたいからなのか、周囲で話題になっていて、かつ"インスタ映え"もするから食べたいのか、

流行に乗ることの、自分との距離感もまた知っておくに越したことはないように思いました。

時代そのものが呼吸するように移ろうものでもあるので、その息づかいをそれとなく知りながら、合わせる/合わせないを鑑みて、ともに歩んでいくのが良さそうです。

なぜ、このようなややこしい理路を取り上げて、ここまで引っ張っておいたのかというと、

読む行為それ自体には、時間も要しますし、知的体力も消費することになります。

興味のが持てない人はそもそも通り過ぎているでしょうから、ここまで読み進めているだけで、大いに感謝を申し上げたい気持ちでいっぱいなのです。

まことに、ありがとうございますm(_ _)m

そして、最後まで到達した時には、少しでも新たな知見なり、異なった感覚なりを得てもらえたら本望なので、

こちらとしても腕まくり(今は寒い季節なので、意気込みとしてですね)をして、せっせせっせと文字を紡いでいくように臨んでいく次第です。

そうは言っても、はじめは硬い" スルメ"みたいなものなので、お茶やコーヒーを手元に置きながら、ゆるり楽しんでもらえたのなら、それこそ望外の喜びなのです。

少しずつやわらかくなっていかないと、深い味わいも訪れてはこないので、しばらくの辛抱は欠かせないような気もします。

ワインを寝かせることで、馥郁な香りが出るのにも、それとなく似ているものです。

これまた先日のことなのですが、タモリさんの1992年に出演した番組「講演大王」(スゴいタイトルですね:日本テレビ系列)の内容がまた感嘆を通り越して、驚嘆に値するものでした。

内容の本編自体は、それぞれの時間を用いてじっくり観賞していただきたいのですが、

なぜタモリさんが、若者のクリスマスイブやバレンタインデーの過ごし方に異議を唱えるのかを、哲学者のキリケゴールの言説を引用したり、当時のソ連の崩壊と重ねてみたりして、

額に汗を浮かべながら、それこそ20分の持ち時間たっぷりに"情理を尽くして語る"姿勢に大いに心打たれるものがありました。

何かと移ろいの早い普段にあっては、表面をなぞることで終始しまったり、結果ありきみたいなところで、どんな心中なのかまで思いが寄らなかったりして、

そうなると、こちらとしても言葉を飲み込んで、ほとんどを削ってしまったり、そういうことがあることすらほのめかすこともしなかったり、

自分以外、所詮は他人であるかもしれないけれど、"わかり合う"スタートラインにもつけないのは少し残念な思いがするものです。

そうなれば、極限まで削除を尽くしたひとこと、ふたことで済ませる他はなく、そうでしかないのならそうするしかないのは、それ以上致し方のないところです。

しかし、個人において、思索を深めることは、地下に井戸水の水脈を掘り当てるような作業に近く(石油でも可)、

脳みその限界に挑むようにして、知恵の地表なるものにスコップを差し込んでいくことは、誰しもやっていくと良いことのひとつであるように思います。

そうして、何か掘り当てた時の喜びを、自分の中だけに留めておくのは惜しくも思うので、きっと誰かには届く、その一心でどこかに表していくのも良いことだなと思います。

それにしても、人ひとりと言えども、生きている年月の重みや厚みは誰しもあるもので、まずはそこに敬意を払わないといけない気がします。

それが自分自身に取り入れたいことや追体験したいことなのかは、相性とか波長みたいなのもあるので、それ相応の態度で臨めば良いとは思いますが、

一見だか一聴だかして、そんなに即座にわかるような、浅薄なものではないと思っています。

浅いとか、即座にわかると思っているそれ自体が、ややもすれば浅慮なのかもしれないと懐疑する、そんな姿勢も頼もしく目に映るかもしれません。

冒頭の話に戻りますが、「一生、あなたのことを愛し続けます」と言葉にできるような出会いがあると良いなと思い、絶えず求めてもいきますが、

そのためには、直接の因果関係はないものの、手元のところではキリケゴールを読むところからはじめていくのも良さそうです。

あとは、「メッセージの宛て先」とか「好き-□ッ□□=愛」みたいなトピックも興味をそそられるところですが、それはまた別のお話になりますので、今日はこの辺で切り上げたいと思います☆

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