SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Category: JAM SESSION (page 1 of 5)

今年の総括<保存用>

 

長い、それゆえに目を通さない人もいれば、長い、それゆえに目を通す人もいる。

もちろん、文章を綴るにあたっての大切な作法(マナー)のひとつとして、多くの人にわかってもらいたいと思いながら丁寧に&丹念に綴っていくわけですが、しかし、必ずしもほとんど全員の人に届けば良いと思っているわけでもありません。

少なくとも、こちらとしては単純に字面を追うばかりでなく、しっかり内容をわかってもらえる人を望んでいることもあって、長いがゆえにいつの間にか読み通してしまうとか、時々は思わず首肯してしまう、そういう稀有な人と交流を持ちたい=辱知の栄を賜りたい思いが強くあります。

それは、歩いて数分の距離を雑談しながら行くばかりでなく、ともに長く遠い旅路をともに進むような、ある程度多くの距離や時間を過ごすことがお互いの理解につながることに似ています。

何でだかわからないけれど引き返すことを忘れ、何を書いているのかが気になってしまい、目で追っていくうちにうっかり全部読んでしまった、そういう人に対しても強い好感を覚えるもので、いわば長さを多く持つことで読む人を"ふるいにかけている"というのはあるでしょう。

また、どれだけ読んでいる人のひとりひとりにまで届くのか、せっかくのことだから心のうーんと深くにまで行き渡るようでありたいし、その人の知性だかか感性だかに訴えかけ、より大きな広がり=可能性を持ってもらいたいという思いもあります。

端的に言えば、いくらかでも考えるキッカケになるだとか、いくらかでも滋味深いものにでもなれば、きっと読んで良かったという感想を持っていただけることになるでしょう。

それだけに自分自身もどれだけ踏み込んでいけるのかが大切で、決して力まないけれどゆらゆら揺れていきながら、あなたと私、あちらとこちらの境界線を自在に越えていけるようにしっかりと挑んでいきたいわけです。

どこの誰にどれくらい届くのかはわからない、それでもこれは自分の読むものだ、あるいは、ひとまず読んでおこうかしらと思う人に届くようでありたい。

これは「メッセージの宛先」に関わることで、こちらとしてはいかに呼びかけていくのか、それと同時に、受け取る側にとってもいかに受け取っていくのか、その双方を文章を成り立たせる両輪として進めていくのが良いと思っています。

そういった両輪の兼ね合いを取りながら、前に進んでいくことでどこかにたどり着くでしょうし、それはまた意図してたどり着くどこかであるように思います。

今回はまた、(もちろん)バーチャルな紙幅をたっぷり用いていきたいために、全体としてはおそらくだいぶ長くなるでしょうが、言いたいことが言えたら終わりなので、案外さっぱりと済んでしまうかもしれません。

どうぞ時間の許す限り、コーヒーかお茶でも飲みながら、つらつらと読み進めてもらえたら嬉しい限りです。

どんなことでもそうですが、何事にも必ずはじまりがあれば終わりがあるように、それがいつまでもずっと続くということはないものです。

余談ですが、この(相当に長くなるであろう、あるいはそうではないかもしれない)文章にしても、こうやってはじまってどこかで区切りがついていって、ひとまとまりになっていくことは言えるわけです。

iPhoneやMac BookでおなじみのApple社、その創設者である故・スティーブ・ジョブズ氏の言葉にあるように、

"If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?"

 

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」

折に触れて、この問いを自分に突き詰めてみるのが良いでしょう。

今を生きている人も、50年後ならばまだ存命で健在かもしれませんが、200年後にはきっと誰もいなくなっていることでしょう。

蛇足ですが、単に言いたいだけの"魔暦"、この"魔暦"で生きる人にとっては、10万飛んで何歳ですからこの限りではないような気がします。

https://demon-kakka.jp/aboutDC/

それはさておき、もしも今日が最後の日だとしたら、あるいは、今日を限りの生命(いのち)と思えば、この一日をいかに過ごすのか、にわかにその切実さが際立ってくるのではないでしょうか。

「武士道とは~」のくだり、「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」(『葉隠』佐賀藩士・山本常朝/1716年ころ:江戸時代中期)を引き合いに出すばかりでもなく、終わりがあるのを知ってこそ、ようやく生きることを知るのかもしれません。

とにもかくにも花咲く命ある限り、懸命にやっていきましょう。

それでも、終わりがあれば、次のはじまりがある。

今のタイミングで何をはじめたいのか、そのひとつには「甲斐の虎に、おれはなる」がありまして、その詳細は続く内容に展開していきたいと思います。

詳細については、もっと詰めていったり、展開していったりする必要がありますが、水面下では着々と進んでいる(と信じてやまない)ものです。

まずはそうなりたいと思うこと、それがあって行動や思考の繰り返しがあるわけですから、今日のここからというような明確なはじまり&スタートラインがあるわけではありません。

ただ、具体的には、16世紀の戦国時代に活躍した武田信玄公(以下、敬称略)、彼の異名が「甲斐の虎」なので、それに大いにあやかっていこうではないかというのがあります。

ちなみに、生きていりゃいろいろあるわいな~にちなんで、意識階梯の話題や代々木忠監督の言説にも及んでいきたいわけですが、"人は悲しみが多いほど、人には優しくなれるのだから"(「贈る言葉」/海援隊)でお馴染みの武田鉄矢さんも含め、そこからはじまる話についてはまたどこかの機会で触れていこうと思います。

こちらではほのめかすくらいで、各自追求していくのでも構わないように思います。

また、数多くいる武田さんのひとり、武田真治さんも最近では筋肉でスゴいことになっているようです。

そんな武田さんの良いなと思うひとつに、トレーニングにおいては「キツイな」と思うことが(だいたいいつも)ありますが、そういう時には「効いている」と言う、または思うのがこの場合の正解だそうです。

その発想を参考にしていくにしても、それ以上はまだ不案内なので、今回には特に触れるところではありません。

武田さんは武田さんでもここでは武田信玄を取り上げていきたいのが、ここでの内容になっています。

「人は城、人は石垣、人は掘。情けは味方、仇は敵なり」や「風林火山」で知られる武将・武田信玄。

この「風林火山」をたどれば中国の孫子になり、こちらも『孫子の兵法』でもって掘り下げるとまことに興味深いのですが、そこまでいかなくても実践的な面では武田信玄に学ぶところが多くあると思います。

https://youtu.be/0kq3IGSM3jQhttps://youtu.be/yz5frSzC7OU

この、武田信玄の名前は多く上がるものの、意外と歴史資料が少ないように思いまして、ひと通りの経歴はなぞれても、実際どういう人であったかの仔細はあまりわからない気がします。

残っている逸話のひとつとして、天下を取った徳川家康(敬称略)が、残った武田信玄の家臣団を引き受けたというのがあって、そこに人の多くを束ねた武田信玄の人柄や人望とか、徳川幕府が長く続いた理由や背景があるように思います。

それくらい何か素晴らしいものが見て取れるでしょうから、いっそ眼光紙背を徹するくらいの意気込み・気迫でもってその秘訣やコツを学んでいきたいものです。

戦国時代の大名と家臣の関係を今に置き換えると、経営者と従業員の関係のようなものになるのでしょう、だからといって人心掌握術とか管理の仕方(マネジメント)と言えば、どうしてもテクニック的なことを思ってしまいそうです。

しかし、そればかりで容易にできるわけでもなく、人が多く慕うということには、心の温かさや機微の細やかさのようなものも当然あったように思います。

これはまた、心配り・配慮と言い表しても良いかもしれません。

そういうあれこれが渾然一体となって、チーム・組織としての強さであるとか、次第に一致団結していく過程になっていくのでしょう。

そうことも含め、現地に行ってみないことにはわからないことも多いだろうと思い、甲斐地方、現在の山梨県甲府市に足を運んで、その雰囲気の一端を知ろうとしたのが、この初夏のことでございます。

誰が言ったのかが定かではありませんが、ひとつの定番とも言える発想があります。

むしろ、言い方の違いはあれど、気づいて実践している人の多くが言うことなのかもしれません。

それは、もしも自分の幸せをとことん追求してかなえていきたいのであれば、先に多くの人を幸せにすることでかなう、またはそれでしかかなわないというようなものです。

もっとも自分が幸せであるというのは、もっとも誰かに尽くして、その関わる深さであったり、人数の多さであったりするわけで、その反映や影響であると言うことができそうです。

"情けは人のためならず"とはよく言ったもので、とことん極私的に推し進めていくうちに、それがもっとも個人的なものである場合、全体全部を幸福にしない限り達成できないものなのかもしれないように思うものです。

自分のことではなく、誰かのことを思う、そういうことでの心配や配慮はするというのはありそうです。

そのように考えを突き詰めていくと、自分の身の回りからはじまって、地域全体、社会全体、地球全体、挙げ句の果てには宇宙全体にまで広がっていきそうです。

自分さえ良ければ良いとか、身近な人に対して不親切であるのは、この限りではありません。

また、宇宙については後述しますが、これは個人の生き方としてもそうですし、企業や組織としてのあり方としても通底するものがあるように思います。

もしかすると、自分の幸福のようなものは、地位や名声、お金ばかりではないところでの、ある種の「利益」と置き換えることもできるかもしれません。

ここはひとつ、大いなる仮定として念頭に置いておくのが良いように思います。

このように、自分の幸せとか願いみたいなことを考えていくと、何だかんだ言いはするけれど唯一無二の自分自身だもの、思いっきり幸せにしたいし、思いっきり満たしていきたいわけです。

そこでは、誰かを押しのけてどうのこうのではないところで、自分のことを大切に思う強さがあるかどうかに関わってくるのでしょう。

最初からではないにしても、いずれはそうしていきたいところで"我欲は強い"、そのように表すこともできるかもしれません。

「楽しいから笑う、笑うから楽しい」、どちらが先かは考えの分かれるところではありますが、楽しいことと笑うことには密接な関わりがあると言うことはできるでしょう。

また、向日葵の太陽に向かって咲くかのごとく、楽しさのあるところ、笑顔のあるところに人は集まるものです。

余談ですが、「咲」は「笑」の古字であり、意味も同様に「笑」のが「咲」に含むものです。

花が咲くように、笑顔もまた多くあるようでいたいものです。

すべからく、笑顔の咲くところ、これはまことにめでたいぞというわけです。

そうやって咲き誇る笑顔のためには、自分が笑ったり、楽しい気分でいたりすることが欠かせません。

自分がハッピーでないと、誰をハッピーにできようか、それに尽きるわけです。

それと前後して、自分が幸せな状態というのは、誰かを幸せな状態にすることですし、幸せな状態であるその深さなり広がりなりが増すほどにそうであるわけです。

順序を前後しながらも、推し進めることは変わらないもので、突き詰めていくと、誰かと自分を分けることなく思いやるのが良いのかもしれません。

誰かの幸せ=自分の幸せ、そう思えるようになればなるほどに、笑顔やハッピーの達人になっていけるのでしょう。

先に誰か、後に自分ではありますが、周りの人や大切に思う人の多くを「自分」というものに含みながら、よりその「自分」の範囲を広げていくし、目の前の誰かのためにをとことんやっていくことが大切です。

これを敷衍すると、あらゆるものを含む=全部ともなれば、その規模は"宇宙"になるということなのだと思います。

大仰に言えばそうでありますが、そういう宇宙的な発想で取り組んでいくのが良いでしょう。

こういうことを実践に移そうとすると、多くの人との関わりが生まれていくうちに世話焼きとか親切を働かせていくわけで、その前のめりな様子では「おせっかい」と考えられるように思います。

今回は割愛しますが、場所を設けることと"おせっかい"について、自分の考えを補強するような事柄があり、目のつけどころはかなり良いということだけは、ここにさりげなく取り上げておきます。

時間の長短はあれど、心の拠りどころ・知的依拠にしている人たちは、"ガチガチの唯物論者"の小林正観さんであったり、"根っからビジネス・マインデッドな人間"内田樹さんであったり、自らそのように称しているくらいの人たちなので、自分自身の本質もまた随分と現実寄りであるような気がします。

ただ、リアルとかビジネスという雰囲気があまり出ていないのもありますし、今はそこにまっしぐらに向かっているわけではないというのもあるでしょう。

むしろ、一旦は目には見えないものであるとか、ファンタジー(空想、虚構)寄りを選り好み、一見すると現実的に結びつかない言動をしているような印象を(今は)与えているかもしれません。

それは近所にある目的地に行くために、世界一周してから行くとか、そのために一年激しい武者修行をして行くような、大きく大きく迂回して向かうようなことに見えるということのようにも思います。

近くにあるのだから、最短距離・最短時間で行けば良いのではないと思うのが、概ね思うところかもしれません。

それでも、そうしないのはできないからではなくて、それ以上にそこはかとなく思うことが別にあると言うのが妥当なところでしょう。

稲盛和夫さん(京セラや第二電電(現・KDDI)などを創業、 日本航空(JAL)を再建)が『心』という著書を出していますし、松下電器(現・パナソニック)創設者である松下幸之助さんが運の良いと言っている人しか採用しなかったという逸話が残っています。

経営のプロ、または経営の神様と言われるような人たちが実際に行なっているようなことですから、そういう目には見えないようなことを大切にするのが、かえって大きな利益をもたらすということがある、そう考えていくのが良いのかもしれません。

このようなお歴々な方がやっていることをどうして我々は行わないのか、学んだり真似たりするとことからはじめ、少なくとも何かの参考にはしていきたいものです。

何も知らないでいては何もできるはずがない、できるためにもせめて知ることはしていかないと、何もはじまってはいきません。

それを踏まえながら考えると、グッと屈むから高く飛べる、深く潜ることがかえって空高く行くことに役に立つこともあるということなのでしょう。

最近では"バリの兄貴"丸尾孝俊さんの話をも見聞きしていると、実際のところはやはりそうなんだなと思うことは多いものです。

そういう意味では誰かを蹴落とすとか、出し抜くということではなくて、自らの願望に素直というところで強烈な欲望を人知れず持っている、つまりは強欲だと言うことができるかもしれません。

ここにも"我欲が強い"とか"わがまま"と言える所以が確かに漂うようにしてあるわけです。

それを目に見えてやらないというのが、雄飛のための雌伏のようで良いなと思いますし、上記の各人の唱えることに照準は合っているように思います。

短期戦でどうにかなっても、人生とか生き方とか、もう少し長期戦で物事を見るというのが大切な姿勢・心構えであるかもしれません。

目には見えないとか、考えを張り巡らせるようなことをあまり重視しない場合、きっと村上春樹さんの「地下二階の部屋」、こういう話は理解しにくいのかなと類推してしまうものです。

人の霊的成熟、市民的成熟のために、こういうことも知っていたり、実際の経験としてくぐっておいたりするのが良いように思いますが、生涯に渡ってついぞ関わり合わないという人も多数いるのかもしれません。

普段、私が何を考えているのか、それに興味があろうがなかろうが、なかなか余人をもってはわかりづらいところがあるようです。

小難しいことを考えている?必ずしもすべてがそうであるはずがなく、言うまでもないようなこと、取るに足らないことが多い気がします。

少し自分の心が開いているとか、強い興味でもって踏み込まれているとして、そこで言えるひとつは楽器のドラムの"スウィーベル奏法"があります。

これを脳裏に浮かべていても、音楽に興味がある、楽器に興味がある、ハードロック/ヘビーメタルに興味がある、バスドラムのドコドコドコと叩くのに興味があることで、どうにか伝わることのように思います。

これも"地下二階"の派生かもしれず、差し障りない会話や誰かに合わせているような会話では、容易に出てくることはないでしょう。

本当に思っていること、本当に脳裏に思い浮かべていることは、よほど信頼関係があるとか、本当に興味を持っていることがわからないと開示しないものです。

そして、開示したところでわかりづらいとあれば、その"わかりづらさ"そのものを隠蔽してしまおうというのが、せめてもの思いやりかなと思います。

もしも私が誰かに好意を寄せている、あるいは、誰かからの好意を感じたいと思うならば、素直に思っていること=(今回の例では)スウィーベル奏法を会話の爼上に乗せることがあるかもしれません。

また、文字通り"地下二階"にいる例として、秋の深まる頃のCIRCUS MAXIMUSのライブ公演が地下二階にある新宿のライブハウスでありました。

個人的にこれは滅多にないような、随分と貴重な機会だったわけですが、ノルウェーのプログレッシブ・メタルバンド・CIRCUS MAXIMUSの7年ぶりの来日!と言ったところで、そこは知る人ぞ知るという存在なのは否めないところです。

実際にその場にいたということもありますし、それ以外でもライブハウスは地下にあることが多いので、他の機会であっても位置としては物理的な地下にいることは多いように思います。

さらに、行く前・行った後でそこに思いを馳せることや、意識を向けるようなことを含めていけば、"地下二階"的なところにいる時間や回数は多いとも言える気がします。

これが、東京ドームやさいたまスーパーアリーナなどの大きな会場では、実は行っていましたとか、ライブ公演があるのは知っていましたという会話になる可能性はそれなりに高いことでしょう。

それもまた楽しい、大勢の人と分かち合えるというのは醍醐味のひとつとしても、自分自身としては地下に潜みたくなるような気質・性質を持っているというのが、ひとつの長所でもあり、同時にそうでもないもので、どうにも痛し痒しだなと思う次第です。

KISSの東京ドーム公演、グッズ売り場には並ぶけれど本編は見ていないように、やはり潜行することを好む、何でもかんでも開けっぴろげというわけでもないものです。

ここでひとつまとまるかどうかはわかりませんが、どうにかまとめようと試みてみると、それは特に人の本質のところで「地下二階の部屋」があることを知っていると良いなと思います。

今はわからずとも知ろうとすること、そこから見える何かはあるかもしれませんし、いずれ何かに思い至るということもあるかもしれません。

そういうところにアクセスできるようになることで知るのは、人の叡智かもしれないし、あるいは、心の暗部かもしれない。

暗闇にロウソクをかざすようにして、炎のゆらめきとともに目に映るものは、人類に大きくまたがる大きな物語でもあるのでしょう。

もしもそこに何かあることだけでも知ることは、それだけでも随分と有用であるように思うものです。

ただ、そこにアクセスして、また戻ってこれるのであれば良いけれど、それは知的に、体力的にある程度タフでなければいけない。

わざわざ身の危険を賭す必要はないけれど、そこを"くぐる"勇気、無謀にも似た勇猛果敢さが求められる場面が時としてあるかもしれません。

地下に降りていく、比喩的にも物理的にも降りていく途中にあっても、いろいろな場面、時には困難にも遭遇することがあろうかと思います。

言い換えれば、物事には連なりがあるということでもあって、二重底、三重底のように、多重構造になっているもの。

一見して見えるばかりではないし、見えるから"ある"わけでもない、見えないものはそれでも"ある"のかもしれない、そういうことに次第に気づいていくことでしょう。

だいたいの場合、本当のことは薄皮一枚隔てた向こう側にあるもので、そこでは血肉があり、生々しく脈動があるような感じではないでしょうか。

人の心の中、心の動きにしても、普段語らないからといって"ない"わけでなく、そっと心の奥に秘めているかもしれない。

確かに見えにくいすりガラスのようでも、向こう側にはあるのだから、一定の敬意や畏怖は表すのが良さそうです。

つまり、見えないものやわからないもの、そういうものに対する信奉というか、信心の深さがあると良いのかもしれないと思うものです。

あるかどうかで言っても定かではない、それは字義の通り"ありがたい"ということなのだと、こういう連関がわかってくると感謝の達人への道が開けてこようというわけです。

地下二階に思いを馳せたり、"ありがたい"ものを手繰り寄せたりするような営みは、これはまたどのような物語を自分は生き、また、どのような物語を自分に付していくのかという取り組みでもあるように思います。

それだけ深遠なるもので、同時に幽玄なものだなと思いますが、このあたりの感覚や理屈がわかるというのは、なかなか至難の業かなとも思うわけで、こういう話が共有できるというのは実に"ありがたい"ということは念入りにかつ何度でも強調しておこうかと思います。

今、自分の中にある「挑む気持ち」で言えば、こういう話を普段からお互いに考えている、そういう人たちとの出会いを楽しみにしているのは、ひとつ言えることだなと思います。

感謝の気持ちに付随してもう少し展開してみると、「運の良さ」と「徳を積む」、これが経営の神様・松下幸之助さんの曰く"経営者の条件"であるようなのです。

「運の良さ」というものは必ずしも明らかにはできないものですし、目には見えないものであるように思います。

それでも、あの人は幸運だ、最近ツイているというような会話がなされるあたり、やはりそういう運の向きのようなものはあるのでしょう。

運はあると言いながら、それもまた無限にあるようなものでなく、使ったら目減りするように帳尻は合うようになっているものです。

それだけに、具体的な考え方や行動の仕方を考えるにあたっては、運を強くしていくためにも日頃から「徳を積む」という発想が生じてくるのでしょう。

これも、ドアを押したから向こうに開くとか、ノックをしたから開けてもらえるというような、わかりやすいことにはなっていないもので、それがまた興味深いことのように思います。

ただ、一足飛びにはいかないだろうけれど、そういう生き方を選ぶ、確たる信念を持ちながら選び取っていくのだということです。

先に述べたように笑みをたたえる、あるいは、道端のゴミを拾うなど、ひとつひとつの積み重ねが大切です。

また、人との関わり、仕事においても、こういうことの組み合わせであり、積み重ねが日々の生活となっていくのでしょう。

古く日本では、やはりお天道さまに恥じないように生きる、お天道さまはどこかで見ているという表し方がある通り、そういう大いなるものに見守られていたり、時に助けられたりしているのでしょう。

「徳を積む」生き方は、言い換えれば愛と感謝をいつも持つ生き方、今はまだ十全にできなくともそうなりたいと願えばこそ、導かれるようにしてそうなっていくはずです。

他の人からは「ありがとう」と多く言われるような生き方、そういう生き方をするのもひとつ良いなと思う発想です。

余人をもって代えがたいとか、滅多に会えないような存在、それこそすなわち"ありがたい"ことになるのではないでしょうか。

自分自身をそういう存在に押し上げていく、それもまた大切なことであるように思います。

このように「徳を積む」ことに関しても、随分と推奨していきたいわけですし、大いに実践していきたいわけですが、これは道徳的にこうした方が良いとか、善人として生きることが好ましいということから言っているわけでもないのです。

恭しく額縁に収めて飾っておくようなものではなく、もっと地に足着いて行うような、もっと実地の場面で活かせるものでもあります。

先ほどの余談であるように、日本語においては音が同じである言葉は、意味も近いことが多いという言語学上の研究があり、「徳」=「得」と音が同じです。

この場合では、「損得勘定」の「得」の発想を含んでいるので、必ずしも道徳的に唱えているわけではない、もっと現実的なところからこれを言っていきたい思いがあります。

先述のように、自分が幸せになるためには他の人の幸せをかなえていくことでしかかなわないわけで、見た目からではわからないとか、道徳的に生きているように見えるからといって、その実際に意図するところは随分と強欲="我欲が強い"とか、相当に貪欲であるかもしれません。

それはまた、それくらい強烈なくらいでちょうど良いのかもしれません。

また、及ぶ範囲について言及していくと、「宇宙」という話も取り上げましたが、これもまた言葉の成り立ちから考えていくとまことに興味深いように思います。

「宇宙」と言うと、地球をも含む広大無辺な空間を指すことが多いでしょうが、漢字の字義や成り立ちとしては"時間的にも空間的にも全部"ということを意味する言葉です。

それが、宇宙の絶対法則とか、宇宙の真理とかいう場合には、化学的・物理的なことにとどまらず、"この世界はそうなっている"ということを表すことになるでしょう。

『ジョジョの奇妙な冒険』の第3部でジョセフ・ジョースターが語る「確実!そうコーラを飲んだらゲップが出るっていうくらい確実じゃッ!」というような真理であり、世の中の成り立ちなわけなのです。

仕事においても生活においても、当たり前のようにある俚諺や教訓というものは、それだけ正鵠を射るものでしょうから、決して軽んじて見過ごすことなく、それなりに参考にするのが良いように思います。

先進的とか斬新であるというのも良いものですが、永くあるためには、つまり、時の試練に耐えるには、こういう発想を大切にすることもまた含んでのことになるのでしょう。

知っているとか理解しているのも大切ですが、それ以上に、自然の摂理としてそうなっているのだから、そのまま従うばかりです。

どうにも力んで抗うとかそういうことではなくて、そっとすくい取るような軽やかさがあっても良いかもしれません。

もしもそのような大きな流れに乗ることができるのなら、俗に言う恋愛体質のように、ある種の成功体質になっている、あるいは、近づいているということではないでしょうか。

物事が成就しやすい人は、こういう流れにスムースに従っているということが言えるかもしれません。

自分の意見が正しいとか、誰かのより良いとかはまったく興味はなく、それよりも、自分自身がこの世の"正しさ"の内側でいるかを知る方がよほど良いものです。

それは誰かと比べるとか、何かと比べるとかするようなものでなく、単に理にかなっているかどうかだけを気にすれば良いのです。

自分の言うことが正しい、まことに正統であるということを貫いてしまうと、いつの間にかこの世の"正しさ"に当てはまらなくなってしまうかもしれません。

もしも自分自身が正しいのであれば、即刻成功して、多くのものを得ているでしょうが、そうなっていないのは改善の余地がまだあるということになります。

こういうことに陥らないためにも、普段から愛と感謝の気持ちを持つ、または、謙虚さを持ち合わせながら徳を積む生き方を心がけておくことが必要であるように思います。

そこでひとつ思うのは、たとえばひとりの人をとことん大切にするには、そのひとりにとことん向き合うとか、または、多くの人たちとの関わりを通じて「人とはどういうものか」の一定の答え、とらえ方に向かい合う必要があるように思います。

目の前のひとりの人、生涯たったひとりに巡り合うようでも、普段から大勢と親しく関わることができて、それがあるからとことんひとりに没頭できるとも言えそうです。

話し上手になるための一番の近道は、話す場数をこなすしかないことのようなことに似て、そのためにはいろいろな場面や局面を"くぐって"おく必要があります。

千載一遇の機会をとらえるには、万もの実践を通しておく必要があるということなのでしょう、一世一代の大勝負に出るには、逆説的に一世一代の勝負を何度も経てきているのだということです。

これは、珠玉の一冊、珠玉の一曲など、本や音楽、服や食事のようなことまでも、そういうひとつに巡り会うためには、多くのものを見聞きし、体験してみないことには出会えないことに似ています。

またとない機会のために普段から備えておく必要があるとは、一途さと多様さのことを思う時の、どうにも不思議な気持ちになることのひとつです。

か細い糸のような手がかり、それをたどるのはなかなか至難の業でございます。

別に、何かを約束したわけではないものの、自分の中でそっと思っていることがあるよと伝えたい、そういうことでは約束を果たすという言い方になるのでしょう。

もしもひとつかふたつか願いがかなうのであれば、自分の歩みにおいて、そういうことがあっても良いのではないかと思うことがあるものです。

はてさてこれはどうなっていくものか、今日、明日と日々を歩んでいくことでしかわからないことではあるので、これ以上何を気を揉もうかという次第です。

大切に思う人のうち、別に思う大切な人もいるわけですが、それにしても時の経つのは早いもので、今はもうその人の生きた長さよりも多く生きてきました。

これからは、それよりも長い月日を生きていくのでしょう。

それでも、思いは色褪せることはないし、これからもそういう思いは続いていくものです。

「言える」のは「癒える」ことでもあるとは上手に言ったもので、直接的かどうかではなく、自分の中に思い浮かべて断片でも言及できるということは、そういう状態にあるということだなと思います。

もう少し具体的には、2018年いっぱいをもって活動休止となったriceの流れを受けて、2019年の今年はもう少し間口を広げて、今まで行ったことのないバンドやアーティストのライブに行くこと、また、今まで行ったことのない場所・機会に行くことを意識していました。

そういうことを積み重ねていく中では、終わらない夏、自分自身にとって大きな節目となったのが、CYBER JAPAN DANCERSの「BIKINI de LIVE!」@豊洲PITでした。

詳しい内容は別のところで書き記しているのでここでは多く言及しませんが、今まで自分が踏み入れていなかった領域や分野、こういうものに飛び込むというのは大切だということは強調して言っておきたいものです。

他にもいろいろ試したことはあって、今年の夏は熱く、そして長いものだったなという感想を抱くものです。

自分の既成概念を壊すことや先入観・思い込みを取っ払うということも大切なことでして、そのためには、自分がどう思うかどうかは後回しにして、まずは感じ取るというのが良いように思います。

目の前で起こっていること、それが事実であるのだから、それに対してどう思うかは自分次第ということになります。

物事を多角的に見ると言い表しても良いですし、柔軟にとらえるでも良いですし、ひとつの唯一絶対の答えを求めない方が良いのはあるでしょう。

引き続き、軽やかに行動していくし、素直に振る舞ってもいく、そのためには日頃から足腰を鍛えていくし、自分の水準を高めておくと良いように思います。

魅力を出そうと気張るのでなく、いつの間にかにじみ出てくるように、それもまた普段の取り組み方によって現れてくるものなのでしょう。

今日だけの音楽に耳を傾けよう、そして、奏でていこう。

昨日の自分と今日の自分、同じように思ったり感じたりして、行動を起こしたから同じような時間を過ごしているわけで、明日の自分は今日とは異なるように過ごしてみても良いかもしれない。

それは、同じ自分自身ではあるものの、どこか他の人になるようなもの。

振り返ることもしながら今の足取りを見る、そして、求める何かを目指したいがために、今までの自分を整理していくのも選択のひとつ。

あなたに対しても自分に対しても、もっともっと素敵に進んでいけるよ、そんな風に思うものです。

ともかく、今にともなう活動は年内限り、来年の2020年には、新しい場所で、新しいことに着手したい所存でございます。

そのために今は、比喩的な意味での"荷造り"の真っ只中、要・不要の仕分けをしていきたいと思っています。

これはひとつの宣言であり、ひとつの遂行的な事柄であります。

もしも自分の考えや行動が理に適っているのであれば、しかるべき成果や功績のようなものを早々に得ていることでしょう。

それがまだかなっていないようであれば、アプローチの仕方を変えていく必要があるために、その時々で振り出しに戻る(GO BACK TO SQUARE ONE)ことをすれば良いだけのことです。

2019年の取り組み自体は、自分なりに勝手に思ってやっていたことではありますが、とある視点を取り入れてみれば、実はこれは自分の運回りにとって良いことであったようなのです。

だいたいが、思うにしても考えるにしても「言葉」を用いるために、至極理屈や論理を重視するように自分自身が思われがちですが、その「言葉」が感情の動きや機微を表すものだけに、意外と感覚的であるというのが実のところです。

そういう感受性や感覚を信頼できるかどうか、最終的には自分の"直観"を信じることができるのか、これが日々歩んでいく上で大切になってくるものです。

そういうことでは、私は自分自身を信じているので、選んだ道は決して誤っていないし、これからも選んだ道を正解とするように鋭意取り組んでいくだけのことです。

『聖闘士星矢』の"小宇宙(コスモ)を燃やす"でも良いし、先の『ジョジョの~』の"波紋を練る"でも良いのですが、そういう心意気を絶やさない、むしろ盛り上げていくというのが、ここでいうところの正しいアプローチの仕方のひとつかなと思うわけです。

士気の高さとかやる気とか気の持ちよう、こういったものも目には見えないものですし、目の前に提示しにくいものですが、熱くそっとたぎらせておこうと思う今日この頃です。

見えないものも大切にしていくと、目に見える何かも変わっていくことでしょう。

季節の変わり目、どうぞ皆様におかれましても、良いお年をお過ごしくださいませ☆

 

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物事の決定のプロセス<保存用>

 

"あらゆる現象は、すべてメタファー(比喩)である"という言い回しが、誰かの代表的な発言としてあるのかどうか、あったのかどうか、そこまでの確たる自信はありませんが、ふと脳裏に浮かんできました。

この言い回し、もう少し正確にはヘルマン・ヘッセ(19~20世紀にかけて活躍したドイツの小説家・詩人)の「メルヒェン」にある"地上の現象はすべて一つの比喩である"のようで、いくらか自分なりの解釈を盛り込んでいたようです。

いずれにしても、何かを取り上げるということは、別の何かにたとえているということかもしれず、何かのたとえはまた別の・・・というようにつながって、事実と比喩が交互に折り重なっていくもののように思うものです。

今回はこの言い回しの真意にどれほど肉薄できるのか、それはまた、普遍的な何かに触れることができるかもしれず、そんなことをそれとなく思いながら、それでも基本的には思いつくままに進めていきます。

今回のテーマとしては"物事の決定のプロセス(過程)"を取り上げていきたく、それにあたっては楽器のベースを題材にしていくと十分すぎるほどに紐解けるのかなと思っています。

なぜベースなのかは後述するか割愛するかは(メインのところでだいぶ長くなりそうなので、今のところ)定かではありませんが、基本的には4本の弦からなるベースはバンドサウンドの低音部を担い、リズムとメロディーの架け橋となるのが大きな特徴でしょう。

もちろん5弦とか6弦とか増していくことで、扱える低音が増えてより多彩な演奏や表現ができますが、それはまた異なる工夫であり、異なる観点になっていくように思います。

こういう、思いつくことのひとつひとつを検証していくと、ベースという楽器の持つ奥深さや可能性を大いに感じることができるわけで、それをこれから展開していきたいところでもあります。

どこから取り上げていくにしても、その奥深さや可能性を下支えすることになるでしょうし、あとはいかにわかりやすく展開していくのか、それが焦点となっていくでしょう。

具体的にはベースの話が続きながら、それでも取り上げたいテーマは"物事の決定のプロセス(過程)"であって、多くの物事は構造を伴って存在しているということを、メインのテーマにからめて明らかにしていけると良いなと思います。

行きつ戻りつ、少しずつ掘り進むようにして話は進んでいきますが、書き手としてもそうですし、読み手としてもぐいぐい引き込んでいくためには、見えないところでも丁寧に手を施す必要があります。

気づかなくて構わないものではありますが、呼びかけにおいても構造を伴っているのだとほのめかしておきたく、あらかじめ念頭に置いておくと、よりスムースな理解や全体の把握に役立つかもしれません。

こういう、物事をとらえる視点についても知ることは多いものですが、ベースの本体を手に入れて音を鳴らすということを"極めて"シンプルに考えれば、かき鳴らす楽器本体があって、その音を増幅して響かせるアンプを用意すれば十分と言えるでしょう。

この潔いくらいにわかりやすいセッティングは、ベース本体にシールド(コード)を指して、もう一方をアンプにつなげる「直アンプ(ちょく・あんぷ、じか・あんぷ)」という行為で何の装飾もないもの。

もしも、それを十分な出力で鳴らすとか、どこの場所でも同じように鳴らしたいとなれば、アンプで鳴らす前にプリ・アンプを組み込んで調整するのも良いでしょう。

また、音色や響きのところで工夫をしたいとなれば、各種エフェクターやボードを挟んで多様さを演出することもできるわけです。

あるいは、より良い音を聞き手に届けるために、アンプで鳴らした音を拾うばかりでなく、その手前で電気信号として拾うDI(ダイレクトボックス)を活用して、余計なノイズを取り除く効果を期待しても良いかもしれません。

そうやってキレイに整えるのでも良いし、音は空気を伝わってくるものなので、その場の雰囲気も含めてそこで鳴っている音を拾うのも別の魅力があります。

このあたり、音楽をスピーカーで聴くのか、イヤホンやヘッドホンで聴くのか、それぞれの良さがあって、同時にそれぞれの違いがあることに似ています。

アンプとか何らやを考えていくと、ベース本体のみならず、音を鳴らして響かせるためにはいくつもの段階を経るわけで、どこでどうなっているのか、部分と全体の双方を鑑みていくことが大切であるように思います。

このベース本体からはじまって、聞き手の耳に届くまでどのような工夫をしていくのかを考えるだけでも見るべきところは多く、おそらく(ヴァーチャルな)紙幅を多く費やしてしまうものです。

しかし、ベース本体の工夫だけも尽きることのないものがあると思います。

ここまで駆け抜けたところで、ようやく言いたいことの入り口にさしかかってきたので、そこに続いていくよう、ベース本体の工夫について取り上げていきます。

きっとセオリー通りにいくのであれば、真っ先に取り上げるはピックアップによるタイプ分けではないでしょうか。

弦の振動をとらえて電気信号に変えていく箇所で、大別するとジャズ・ベース(JB)、プレシジョン・ベース(PB)があって、形状の違いやセットの仕方によって音色が変わってきます。

どのピックアップを選ぶのかと同様、ネック寄りかブリッジ寄りのどこにセットして音を拾うのか、それによって聴感の差異が生じることもあります。

もちろん、他にもハムバッカーのピックアップもありますし、それらピックアップを斜めに傾けてセットするとか、ボディから上に出る(=弦に近づく)高さをどうするかもあるでしょう。

そして、これは塗装やシェイプに目がいくあまり、結構見落としがちになるのかもしれませんが、ベースの本体やネックの大部分は木材です。

つまり、どの材質のどの部分を使うのかとか、どれくらいの年数のどの材質を組み合わせるのか、それが音色や本体の鳴りに大きく影響してくるわけです。

弾き方とかフレーズということも魅せる上でとても大切なことですが、どういうベースを選ぶのかによってそもそものパフォーマンスが変わってくるように思うので、しっかり見ていくことが大切です。

どちらかというと中身が詰まっている方がよく鳴るし、よく響きもするだろうと言われており、代表的なところではアッシュ、アルダー、マホガニーがあります。

この木材自体を追求するのは、樹木自体の育成の年数、乾燥する年数、どこの地域で採ってどこでどのように加工するのか、林業とか木工とか、そういう分野も網羅したくなるもので、今は控えめにしておきます。

ただ前述のような木材では、その分だけ重さが増すというのがあるので、もしも長時間演奏するとか、ステージ上でたくさん動き回りたいとなれば、厚みや大きさはできるだけ控えて本体自体の軽量化を図ることも考えなければいけません。

ベースを構える姿勢としても、片方の肩にかけることが多いだけに、その分カラダのゆがみや肩こりの原因ともなってしまいます。

そこに関しては、ボディの形状や厚みをどうするのかもあって、また、ピックアップに何を選ぶのかも含めて、弾きやすさ、音の鳴りや響き、余韻(サステイン)のようなことも考慮するのが良いわけです。

もっと厳密に考えるとするならば、出したい音についてまわるであろう倍音のことも考えたり、塗装、これすらも鳴りに関係あるかもしれないと思い至ったりして、使うネジやベグ、ブリッジ、その他の金属部品においても同様のことが言えるかもしれません。

本体に続いてはネックについてで、これは左右対称か非対称かのヘッドの形状、ボディと同じ色合いにするマッチングヘッドにするかどうか考えていくことになります。

そして、ボディとの接続で、ひとつの木材で仕上げるスルーネック方式か、材質が同じでも異なっても留めることのできるボルトオン方式のどちらにするのかが、実はベース本体で最も考慮することなのかもしれません。

スルーネック方式は、そのひと続きの構造で全体が鳴りやすいので、弾くたびに起こる余韻(サステイン)に有効であり、ベース全体の鳴りに効果があると考えられます。

これについては、一体化している強みがある分、ネック自体を容易に変えることはできないし、使っているうちに生じる反りや損傷に関しては大幅な修理・補修が必要になるというリスクはあるかもしれません。

一方のボルトオン方式では、木材の相性を組み合わせながら試すことができるという点において、それは秀でた構造・特徴であると言うことができるかもしれません。

ついでに言えば、それぞれの音階ごとに打ってあるフレットを外すと、指板がひと続きになるので、そのフレットのない(フレットレスの)方が音の動きが滑らかになる効果があるという発想もあります。

次第に微に入り細を穿つようになっていくわけで、数多の要素の組み合わせと積み重ね、より良いものを目指すにはより多くのことに気を配る必要があるということなのでしょう。

「良い音」と言ってもいろいろな解釈があって良いわけですし、また、ベースと一口に言っても、いくつもの部分を組み合わせる精巧なパズルのようで、どれくらい気を配っても終わりがないくらい、それくらい手の施しようがあるということを表しているわけです。

それだけとことん突き詰めていくとその分奥まっていくものですし、どこまで進んでも壁に突き当たるどころか、その壁自体が次の段階につながる扉であるようなこともあるかもしれません。

可能性の扉をいくつも開けていくことで、自分自身が思ってもいなかったようなところに出ることもあるでしょうし、新たに知ることも多いはずです。

終わりのないのが終わり、それはまた魅力に溢れる状況であるように思います。

ここでもう少しプレイに寄り添って考えてみると、ピック弾きなのか指弾きなのか、ピック弾きならば何を使うのか、素材もそうですし厚みや形状によっても音色が変わってくるものです。

それに伴うように、同じチューニングにしても、より太い音を望むようであれば弦は太めのセットを用いるとか、ダウン・チューニングにするのでも、太いセットの方がたるみにくいはずだとか考える必要があります。

プレイのしやすさでは、薄めのピックで細めの弦を用いる方が、余分な力を用いないだろうから、無理のないタッチになるかもしれません。

それに加えて、ネックからボディに続くあたりからブリッジ寄りまでの間の、どの位置で弦を弾くのか、それによっても音色は大きく変わるものです。

弦の振動はその長さと加える力によって変わるので、指弾きしかり、ピック弾きの場合でも押し当てる位置と角度、これだけでも音色は千変万化するといっても過言でないくらい、多くの追求する余地があるでしょう。

弾くフレーズやテンポの早さ次第では、できればフレットと弦の間隔が狭い、弦高は低い方が良いとなりますし、ピックで力強く弾くとか、同じ方向で弾くダウン・ピッキングのためには間隔を空ける、つまりは高い方が良いとなるでしょう。

この弦高もそうですし、ネックの握り具合や弦同士の間隔もまた、プレイのしやすさと出る音色に関わってきますし、前述のピックアップとの間隔も考慮しながら、弾きやすさと音色の良さのバランスを図るのが良いでしょう。

あえて弾きにくい組み合わせで強引にプレイするというのも、そのアンバランスさやいびつさを表現することになって、意外性をもって受け入れられることもあるかもしれません。

また、弦の太さや高さに関連して言えば、どれくらい張っているのかというのもプレイのしやすさや聴感の差異に現れてくるので、どのテンション(張り具合)を好むのか、これも重要なところです。

これが弦をどれくらい巻きつけるのか、またヘッドの巻き取る位置にも関わってくるので、より太い4弦や3弦側を張りたいとなれば右利き用ではなく左利き用のヘッドを用いて、"リバースヘッド"にするのも良いでしょう。

これはフレーズや運指にも関わるところで、あまり高音域を使わないとか、ネック寄りのハイポジションを使わないということにもなっていくので、ベース本体の特徴がプレイにも現れてくるということでもあります。

十分なテンション(張り具合)を得るための他の発想としても、フレット自体の長さを変えて、通常32インチくらいのところを33~34インチにするロングスケール仕様にしても良いわけで、それによって響いたり鳴ったりする音だけでなく、見た目の変化ということにもつながってくるのが興味深く思うところです。

あとは、ブリッジに何を用いるとか、弦のもう一方をとらえるのに本体の表通しか裏通しかで、弦のテンション(張り具合)や見た目に変化がありますし、ベース本体をどの位置で構えるのかでストラップの長さや素材、ボディ本体のカラダへのフィット感なども考慮していくことになります。

指弾きは親指を固定して、人差し指からはじまって2本から4本を駆使する奏法で、指で直接弦を弾くため、丸みを帯びた音であるとか、太めの音とかを出すのに適していると言われています。

もちろん、親指も用いてのスラップ奏法というのもありますから、これだけでも十分に多くを語れようというものです。

ピック弾きにしても同様で、弦に対して上から弾くのか(手前から腕を下げて向こうへ行く)、下から弾くのか(腕を上に戻すように持ち上げる)のか、またその組み合わせで奏法が変わってきます。

上から弾くのと下から弾くのを交互に行うオルタネイト奏法では、行って戻ってと動きをスムースにできる分、早いフレーズであるとか、弦の間の移動するとかに有利であるように思います。

この、行って戻ってを繰り返す時に、ピックを弦に当てる角度を同じようにすれば、音の粒をバラつかせることなくそろえる効果も見込めるものです。

ベースを構えるのにも、弦にピックを押し当てるのでもできるだけ水平にするのが好ましく、または角度が変わろうとも同じような力加減にするのが、強く意識の傾けるところかもしれません。

または、ひたすら上から下にしか弾かない、ダウン・ピッキングで勢いを増すエコノミー奏法も良いでしょう。

これは、シンプルに方向が同じでやりやすい一方、弦を弾くのは上からのみ、そこから元の位置に戻す早さを意識する必要があるように思います。

こうした、見た目、音の良さ、扱いやすさなどを含めながらこれだけ手を施していますし、そのベースは一回使い切りであるはずもなく、維持するのにやりやすいとか、安定して同じように鳴らせるように工夫していく必要があります。

鳴りの良さとプレイスタイルとの兼ね合い、前述の材質をどうするか、いくつもの要素とも関わりながら考慮していくことになります。

とことん追求するのであれば電圧による影響も考える必要があって、日本の西側と東側でも異なりますし、海外の電圧や気候によっても異なることは知っておくのが良いでしょう。

さらには、もしもエフェクターやチューナーとかで電池を使用するようであれば、その電圧も知っておくと良いものです。

繰り返しになりますが、ベース本体は木材でできているので、できるだけ乾燥している方が鳴りますし、ネックの反りやボディの調子も整いやすいので、亜熱帯に位置する日本では湿気には十分な注意を払っておきたいものです。

ここまで述べてきて、どのようなベースを用いるのか、どのようなセッティングにするのか、それによって鳴らす音は変わってくるものです。

しかし、最も大切なのは自らベースを構えて弾くことですし、その前提としては自分の心持ちというのがあるということです。

「思いっきりロックするぜ!」となれば、力強く弦を弾くことになりますし、ステージを所狭しと動き回ることになるでしょう。

上手く弾けるかどうか、それ以上に伝わる何かがあるのか、決してパソコンの画面上で描かれる波形とかスピーカーの音量の数値ではない、そういうものでは表したり計ったりできないくらいの"熱さ"を醸し出していきたいものです。

また、プレイする人自身にしても、人の身体の70%あまりが水分であって、水面に石を投げれば波紋ができるように、誰がプレイしているのかだけでなく、どれだけ自分自身が鳴っているのか、どれだけ鳴っている音と一体となれるのか、これもまた大きく関わるところのように思います。

どれだけ良い音を鳴らしよく伝えられるのか、つまり、どれくらいの良導体となれているのか、折に触れてそういう観点で自分を省みるのが良いのかもしれません。

読んで字のごとく大きく感動している状態は、心を震わせるとか、打ち震えている状態でもあるので、普段からいかに心を動かしている状態にあるのかを見て取っていきたいものです。

まるで機械のごとく正確無比な演奏ばかりでは、聞き手の心を打つようなことはなく、感動で震えているくらいの状態がグルーヴを生み出していくことも考えられるものです。

何とも言えない揺れや"ゆらぎ"、こういうものは生身の人間であるからできることのように思います。

そういうことを踏まえながら、レギュラー・チューニングEの4弦、その開放弦(つまり、E音)を一発鳴らすだけで聞き手を唸らしてしまう、あらゆる理屈や理論をすっ飛ばしたところに、ベースにおけるプレイの究極があるようです。

いわば、天高くある理想の一音のために、空中にどうにか階段やら梯子を設けてつかめる位置にまで手を伸ばそうとする、それが日々の取り組みということになるのでしょう。

自分の鳴らしたい音が自分の頭や胸の内にあって、それが原点であると同時に最終的な目標であるように、足元から延びる道のりは理想へのひとつ続きとなるのかもしれません。

ここから先は後半に続く、これで折り返しになりますので、今のうちお手洗いや腹ごしらえを済ませておくと良いかと思います。

あるいは、遠くを見やって目の緊張をほぐすのもナイスですが、そんなことを考えているうちに、続きは明日にお届けするのが良いなと思うようになりした。

それではまた、しばらくの風呂やら睡眠などの休息ののち、後半でお目にかかりましょう。

<後半に続く>

<前半の続き>

というわけで後半まだまだ続きますので、深呼吸を適度にしながら楽しんでいただけたら幸いです→

こうして、概ねベース本体の仕様やセッティングについて展開してきたところで、一旦、別の切り口から考えてみたいと思います。

たとえば、どのような音を出したくて、どのようなベースを用いるのか、いくつもの考え方やアプローチの仕方がある中で自分なりに選び取っていくことが大切です。

言い換えてみれば、「1+1=2」のように、今あるものを足して「2」に行き着くのか、あるいは、さらに数を増すようにして「3」とか「4」を狙っていくのでも良いでしょう。

これが、もしも「2」という答えを得ることを強く思っているのならば、その途中は「1+1+3-2-1=2」とか

「1+3×2+1+2-3×2-2=2」みたいな順序を経ても良いわけです。

この場合では、ノイズをあえて出してノイズを消すとか、まるで絵画のまっさらなキャンバスに一度黒を塗りたくって、その上に白で塗り直すようなことがあっても良いかもしれません。

一方、数を増すようにしていくアプローチであれば、本体に多くの趣向を凝らすばかりでなく、スピーカーを多く積んだり、エフェクターをいくつもつないだりして、求めるものに近づいていくことになるでしょう。

そうやって比較していくと、先に目的や結果を見るのか、または手段や過程を見るのかによって、必要に応じて足したり引いたりするわけで、よりどちらに重きを置くのかの差異になっていくように思います。

これは、一体どれが正しいのか、たったひとつの(絶対的な)正解を選んでいくというよりかは、いくつもの正解がある中で最も求めるものに近いものを選ぶ、あるいは考えを重ねて正解と思えるようなものを選ぶことと言えるでしょう。

自分の気持ちや考えの状態もありますし、それは時期や時代によっても異なるもので、自分がどういうモードにあるのかを知りながら、その時々の正解、つまりは最適解を探っていく試みになります。

そこで、これが今の流行であるとか、誰々がこう言っているということに逐一目や耳を向けるのは、その素直さであり、まさに参考にする上では大切なことですが、単純に追従するようでは、自分なりの模索はそこで終わってしまうように思います。

あくまでもどこかにある、最高に「良い音」のために試行錯誤を繰り返す、そして、自分なりの(その時々の)正解を積極的に追い求めていくことが大切なところです。

もしかすると、順当に考えや予想を重ねるばかりでなく、数字で考えるようなところに他の言葉や記号を差し込む、そういう異質なものを入れて現れる効果を期待しても良いかもしれません。

どのような考えの切り口で、どのように考えを展開していくのか、自分の考えがどういう枠組みのものなのかを知っていくと良いと思います。

ともあれ、自分はこういう音を出したくて、そのためにこういうプレイでこういうベースを使うのだと、小さなところでの変更・改善は尽きることはないでしょうが次第に定まっていくものです。

それは一途に貫いていくのが良いのかもしれませんが、ともすれば相反するようなところで、ドラムと連携してバンドサウンドの土台をどう支えるのか、または、バンド全体でどのようなアンサンブルにするのか、それにしたがって自分のプレイやベースを合わせていく必要があります。

突き詰めれば、ドラムのキック、バスドラムがどの口径や深さのものなのかも影響しますし、ギターも、多く弦を張ってベースの担う低音部分に差しかかったり、各種エフェクターで多くの効果を出してアンサンブルに影響を及ぼしてきたりするかもしれません。

自分の求める音、それはプレイスタイルにも通じるものでもありますが、揺らぐことのない一途なところと上手く調和・融合する柔軟さとがあって、それらをともに持ち合わせて対応していくのが好ましいように思います。

主張をともにたたかわせながら押したり引いたりする、単にそれだけでなく、それにともなって新たな境地に行き着くこともあるでしょう。

これがバンドのマジック、その妙とも言えるところで、意外なもの同士を組み合わせたら、興味深いサウンドになることもあるかもしれません。

今で言うと、カレーライスにタピオカを入れたら味と食感に変化が現れるようなものかなとも思います。

ともあれ、バンドのアンサンブルを詳しく見るように、物事のバランスにおいては、あちらを立てると、こちらが立たずということがあります。

ならば、そちらを優先すると、他のことがまた問題となることもあるわけです。

うねうねと迷い出したらどこまでも迷ってしまうような、向きも位置もわからなくなるほどに広がる砂漠や大海、そこに投げ出されたような気持ちになるかもしれません。

東西南北どこに向かうにしても、今、自分がどこにいるかも知らないと、一様に北に向かうと良いよと言われても、どの方向にどれくらい向かえば良いかわからないものです。

なかなか困難な中にあっても大切なのは、自らピンを刺して、地図の上に座標を記すような気概や行為であって、それは決意や覚悟とも言い換えられるもののような気がします。

いろいろ取っ払ったところで自分の軸をどこか一点に決める、だからこそ、プレイもベースも後に続いて決まっていくものなのかなとも思います。

または、この素晴らしき世界に対して経度や緯度を定めるように、この時代、この場所、自分はここにいるのだと知ることが大切です。

自分の居場所や立ち位置があるから、相手との距離感や向き合い方がわかってくるし、そこからはいかようにも変えることもできるだろうというわけです。

物事の決定、こういう例は身の回りにたくさんあって、たとえば住む場所にしても、日当たりを重視して南向きを選ぶと、エレベーターはなく階段を使うしかないとか、静かで良いけれど駅から遠いとか、会社に近いけれど買い物に不便とか、多かれ少なかれ何かしらはあるものです。

仕事においても、給料は良いけれど休みがないとか、好きなことをやれているけれど長期の海外出張があるとか、全方向に対して完璧に満足いくことはなかなかないものです。

それに比べ、自分の意思でできるとは言えども、着る服にしても、どの組み合わせにしても、どこからはじめていくことを知らないと、上着を替え、ズボンやスカートを替えとキリがなくなってしまいます。

ひとつの例として、黒いTシャツとジーパンを基本にするから、他も黒やモノトーンで合わせようとか、対比するようにカラフルに彩るのかを選ぶことができるわけです。

色で選ぶ、ブランドで選ぶ、値段で選ぶ、切り口はいろいろあれどもどこからでも構わなく、それは誰に指示されるまでもなく自分で決めていくし、同時に選んでいくものであって、きっとそれが最たる醍醐味のように思います。

お金や時間、その他の理由を鑑みながら、選択と決定の繰り返しで進んでいく、それが日々の過ごし方であり、大きくは生きるということにつながっていくものではないでしょうか。

資源や機会など、どれもが十全にあるとか、無限にあるわけではないようなところで、いかに充実を図っていくのか、自分自身のそれにはしっかり期待を上回って応えていきたいものです。

このように、住む場所、就く仕事、着る服など、考え方の発想として、不足を不満ととらえるのではなく、満ち足りているところをとらえながら、それでもっと良くしていくためにどうするのが良いか、そういうところに知恵をうんと働かせるというのが良いでしょう。

今ないものを"ない"ととらえると言うより、今はまだない、この先はあるかもしれないというようなアプローチで、いつか手に入るかもしれないと思っている方がウキウキと心踊るのではないでしょうか。

理想についても手が届かないことを憂いてしまうのではなく、たとえ今が至らないのだとしても、どこまでも追い続けられる理想があることに喜びを感じていられるような、そういう心持ちでいつもいたいものです。

これまではこれで十分、さらに突き詰めるには何をどうするのか、そういうアプローチで臨んでいくのが自然であり、至極健全であるように思うわけです。

自分自身の葛藤や工夫のみならず、誰かとの関わりにおいて日々が成り立っています。

これも前述の通り、相手の意見や周囲の意見を取り入れるのも良いけれど、自分はかくあるべしというものを持っておく必要があって、自分はこうであるとか、そうしたいとか、それがあるから、どんな立ち居振る舞いをするのか決まってくるわけです。

それをシンプルに考えてみれば、なるほど"物事の決定のプロセス(過程)"とは、論理的に理屈を積み重ねるばかりでなく、自分が何を望んでいるのかを知ることなのかもしれないと思うようになります。

自分の心の内側を計りながら、それをかなえていく、そういう試行錯誤の果てにに何にたどり着くのかは、日頃の倦まず弛まずやることでしか届かないものかもしれません。

もしもそれがそういう紙を一枚ずつ重ねるようなことであるならば、それこそ継続して取り組んでいきたいものです。

決めるのは自分であって、自信があるかどうかもそうですし、何を思い、何を望むのかも自分次第、そんなことまでふわり敷衍して見てみれば、また見えるものも変わってくるかもしれません。

ここで今一度ベースや音楽の切り口を持ち出して考えてみたいわけですが、今の自分、なりたい自分を含め、あなたの「人となり」があります。

それは文字に表せば「人と成り」でしょうが、今回のテーマにからめてみれば、これは「人と鳴り」とも表せるのかもしれません。

楽器やバンドサウンドからはじまっていくうちに、どう"鳴りたい"のは、自分自身がどういう人に"なりたい"のかに通じると言っても決して過言ではないはずです。

楽器の話をしながら、あるいは、バンドサウンドの話をしながら行き着くのは、どのような生き方、それは普段の日々の過ごし方をどうしていくのかと、そういう観点に続いていくもののように思います。

そうやって考えたり、行ったりする、その過程、決定のプロセスがあなた自身の「スタイル(様式)」というものになるのでしょう。

ならばえいやと、たとえば良いベースを手に入れれば、良いプレイヤーとなれるのか。

これは、値段の高さとも似ているかもしれませんが、果たしてそれを操り扱うだけの技術や度量が自分の側にないと、惜しむらくは宝の持ち腐れ、その力を存分に引き出すことはできないでしょう。

確かに、技術の粋を凝集したものだけに良い音は出るでしょうが、心震わすほどのリアルな良い音を出したいと思って出そうとする、そのあれこれ工夫する前のめりの姿勢・心構えがより尊いのかもしれません。

その一環として、丹念に手入れしたり、何年も弾き込んだりすることで次第に自分好みの良い音が出てくる、このことはあっさり見過ごしていけないことです。

これは、楽しい日々や良い人生、幸せになるようなことでも同じことが言えるかもしれず、言い換えどころかそのまま置き換えることができるでしょう。

今を楽しむ、今日を良いものにしようとして生活をする、その営み自体が幸せだと"いつも"思っていれば、それがすでに幸せなのだろうし、やがて振り返ってみた時にも十分に願うものになっているのではないでしょうか。

これは、決して妥協するものでもなく、いろいろ折り合いをつけながら、かつ、自分の理想を盛り込みながら、総じて良いよねとなるのが高く望むことではないかと思います。

今回、なぜベースの例を用いて、ここまで延々と展開してきたのか、それは次のような理由・背景があります。

今年のはじめから春先にかけて、LUNA SEAやソロ活動で活躍するベーシストのJさんが、およそ28年連れ添ったESP(Electric Sound Products)を離れ、新たにフェンダー(Fender)と手を組んだのがひとつ話題となりました。

Jさんの代名詞とも言えるTVBベースが、音色においてもデザイン、シェイプなど全体においてひとつの完成を迎えたということで、ここからさらに模索をしていくというのが、ひとつ大きな衝撃でもあったわけです。

長きにわたって活躍し、音楽の真髄にまで行き着いているようにも思いますが、ここでまた"もっともっと"とより良いものを追求する姿勢に大いに感銘を受けました。

今回のJさんにおいては、ベース本体を一新することで、ベース・サウンドのデザインに大きな変化・革新をもたらしたわけですが、"物事の決定プロセス(過程)"はこれに似たところがあって、ひとつの考え方として意識して身につけておきたいと思っています。

Jさんの"もっと、もっと"という、気持ちの熱さにおいても、さらなる高みを目指す姿勢・心構えにおいても、とどまるところを知らないその様子に、憧れながらもどこかで追い越せるように取り組んでいきたいものです。

今夏の新しいアルバム『Limitless』も、文字通り"限りなし"ということで、また新しい局面に突入。

LUNA SEAにおいても、結成30周年を迎え、機動戦士ガンダムとコラボレーションしての『宇宙の詩 ~Higher and Higher~/悲壮美』があるなど、また新たな段階に差しかかっているわけです。

LUNA SEAにおいても、ここにきて完璧にして完璧にあるのみならず、それも遥かに超越するようにますます円熟味や魅力を増すばかりなのです。

また、前作『LUV』に続く新しいアルバムを、U2を手がけたこともあるスティーヴ・リリーホワイトをプロデューサーに迎え鋭意作成中ということで、ここから年末にかけて大きなお楽しみが控えているわけです。

年月を経ることは、朽ちることではない。

もっとステキな大人になるということは、きっといくつになってもできるような気がします。

色気も魅力もこれから。

今回は、比喩を重ねてそれらを行き来することで、何を表そうとしていたのか、自分自身でも結論めいて言うことはありませんが、縦横無尽に行き交うことで見えてくる模様はあるかもしれず、それで十分だなと思います。

目がくらむほどの多くの雑多な示唆、それだけでも考える材料はたくさんあるのだから、それに従えば大いに可能性を見いだすこともできようかというものです。

あるいは、今の思うことや思いつくことのあらかたを出し切ることで、その次が見えてくるというもの。

こればかりは、出し切らないと見えてこないだけに、次をどうこうするということではないのが、因果のなせる業だなと思います。

そして、ここで忘れてはならぬのは、途切れることのないように、決して途切れないように行くことが大切であるように思います。

燃え尽きるのではなく焼き尽くす、そういう情熱や情念をいつも絶やさないでいたいものです。

WAKE UP! MOTHER FUCKER、今回はここまで、またお目にかかりましょう☆

 

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場への敬意<保存用>

 

時々は思うことのいくらかをまとめるようにして、それをもって現況をお伝えできたら良いなと思います。

何を伝えるわけではないけれど、何かが伝われば良い、それくらいの構えですので、何を気負うこともないわけです。

練習や試合の前後に、隅々まで丁寧に道場やリングの雑巾がけをするのは、そういう決まりになっているからとか、出た汗水を拭き取るということだけではなく、それ以外の理由もあるように思います。

それは「敬意を払う」という言い方が適切かと思いますが、"より充実した練習になりますように"とか、"より強く、より上手くなれますように"とか、そういう願いや祈りにも似た思いを込める意味合いもまたあるはずです。

また、場所に限らず、野球選手が自分のグラブやバットを丁寧に扱うように、料理人が包丁やまな板を大切にするように、これはきっと道具においても同じようなことが言えるでしょう。

雑巾がけそれ自体、あるいは、道具を大切にすること自体が、直接筋力が増強するとか、高度な技術が身につくわけではありませんが、だからといってそれがおろそかにしても構わない理由にはなり得ないものです。

何となくの雰囲気、そういう目には見えないけれど感じるものや察するものは現にあって、確かに感覚的かもしれないけれど、絶えず頭の片隅で気にしておくと良いなと思います。

たとえば、今は相当に微細なところまで見える顕微鏡にしても、最初は少し拡大するくらいの、しかもピントも合いにくいものだったことでしょう。

それが、より詳密に見えるにしたがって、より見える何かがあるはずだ、そう"強く"思っているから、細胞の成り立ちやらウイルスやら、今までは見えなかったものが順を追うようにしてわかるようになってきているわけです。

そこには、いろいろ工夫を重ねながら、経る結果として見えるかどうかの明らかな差異はあるかもしれません。

それでも、(今は)見えないものをどうにかして見たいと思う、そのような思いは必ずしも言葉にしきれないし、ものさしをあててピシッと数値で測れるようなものではありません。

ただ、容易に表せない、もどかしいがゆえに醸し出るような説得力が、静かでありながらも力強く潜んでいるように思います。

物事の事実とか、本当の様子というものは開けっぴろげにあるばかりではなく、随分と気づきにくいもの。

少なくともそう思うことが「敬意を払う」ことであり、神棚に手を合わせるとか、出入口に塩を盛るとかするように、多少信心深いくらいでちょうど良いのかもしれません。

デパートやスーパーマーケットなどのわりも大きい店舗で、バックヤードと売り場の境目でお店のスタッフが"おじぎ"をするのを見かけることがあります。

これも、マニュアルに書いてあるからとか、通常やることになっているからと思うばかりではいけないもののように思います。

最近はより一層、インターネットを利用しての通信販売が発達していますし、店舗においても自ら会計をするレジシステム(いわゆる「無人レジ」)が広く浸透してきています。

何かを手に入れる購買の行動に関しては、金銭と引き換えに何かしらを交換したり持ち帰ったりするもので、そこでいかに多くの満足を得てもらうのか、それが重要になってきます。

人がいて店舗がある、それだけでコトが上手に進むわけでもなく、いかにお客さまに喜んでもらえるのか、そういう気持ちを念頭に置いて店舗に立つことが必要であるように思います。

それを言葉にして言うこともするし、普段から行動でも表すことで、自分の中に深く浸透するのであって、そのひとつの発露として前述の"おじぎ"になっていくように思います。

そうやって、自分自身がその場に対して敬意を払う、それがやがて伝わってお客さまの高い期待や満足につながっていくような気がします。

自らお金を払うというのは案外シビアなもので、よほど価値があるとかよほど必要と思わない限り、簡単には財布の紐は緩まないものです。

水道の蛇口を開きっぱなしにすることがないように、どうしても開け閉めには慎重になるものです。

そのひとつとして、場に対する期待が高まっていないと、進んでお金を払う気持ちにもならないものです。

だから"夢の国"のような遊園地ではいかに楽しい気持ちになってもらえるような、いくつもの工夫が施されているのだと思います。

お客さまの立場にしても、実際に払う金額以上に楽しいことになると思うから、嬉々として耳付きカチューシャを手に入れたり、ポップコーンを食したりするのでしょう。

仕事の向きはそれぞれにありますが、"楽しい"要素の強い遊園地や音楽のコンサートなど、エンターテインメントの全般には学ぶことは多いように思います。

自分でもお客さまの立場になって、いろいろ足を運んで見るのでも良いし、各種サービスを受けてみると気づくことは多いなと思います。

時に、親しみやすいとか、一緒にいると安心するというような人がいます。

あなた自身、崇め奉られる必要はないけれど、そっと敬意を寄せてもらえるような存在になってみても良いのではないでしょうか。

それと合わせて、礼儀というのも、今はおろそかになっている気がしますが、実際のところはいかがなものでしょう。

あるいは、『ワンピース』のゴール・D・ロジャーのように万物の声を聞くことができる人がいます。

たとえ、自分自身がそれがかなわないとしても、それができる人がどこかにはいると知るだけでも十分に価値はあると思います。

見るのではなく観る、聞くのではなく聴くようにして、目を凝らしたり、耳を傾ける。

そうやって力を注げば、意識の濃さなのかわかりませんが、立ち上ぼる何かを感じ取るかもしれません。

いろいろ考えながら、いろいろ思いながら、自分の職場や学舎、自分の今いる場所の大切さを、改めて考えてみるのが良いかもしれません。

きっと「私は、私のいる場所を大切にする」、それがはじまりであり、同時に全てなのかもしれません。

最後にたどり着くのも、きっと同じようなところ、それは見聞してもそうですし、今の思う直感として正しいように思います。

今のいる場所、今のできること、それを積み重ねることでどういう景色が見えていくのか、それはあくまで自分次第なのでしょう。

改めて取り上げるまでもなく、今回は特定の何かを表すというよりかは、単なるひとつの呼びかけであって、行間に何を読むかは目を通すそれぞれにお任せします。

あるいは、想像力を駆使するまでもなく、たくましく類推するようであれば、ひとつ貫くものを見出すのかもしれません。

いきなり答えがあるようなことでなく、手がかりや気づくきっかけがいくらかあるだけで、それをどう扱うかによって、答えに近づきもすれば遠ざかりもするだけのことです。

物事は相対的なものであって、自分の立ち居振る舞いがどういう影響を及ぼすのか、それもまた興味深いことのひとつです☆

 

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