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傍島康始|ブログ

Category: JAM SESSION (page 1 of 3)

恋は革命よ!<保存用>

 

先日の「恋は革命よ!」にちなんで、今年(~来年あたり)の目標のひとつが「法悦の至り」だったことを思い出しました。

自分で言っておいて、迂闊にも忘れそうになるとは何という体たらく。

これですっかり忘れてしまえば、どこにも目を当てられぬーというわけです。

そもそも今は夏の終わりの秋の入り口、"ひと夏のアヴァンチュール"と洒落込みたいのであれば、春のあたりからじっくり備え

ておかないと間に合わないこと必至です。

そうなると次の盛り上がりは年末か、これはこれで別件で気になる"ありったけ"があるから、またしても見逃してしまうことになりそうです。

だから、あえて意識できるようにと連呼していきたいわけですが、結局は興味の有無のようなところで、実際がどうなるかにつながってくるだけのようにも思います。

そうして、自分の内側をライトで照らすように探ってみても、自分自身の優先事項としてはそれほど高くはないので、何がどうなろうとも、そこで喜ぶとか憂うとかの何かしらを思うということもないのです。

ただ、ひとつの切り口として"大切な人と過ごす"ことを思えば、なるほどそれなりに辻褄は合っているのだなと密かに得心し、ウンウン首肯する次第です。

また今回も思いつくままを並べては、どこに行くのかわからないけれど、可能な限りの遠さ・深さまでたどり着きたいものです。

どれくらいの(もちろんヴァーチャルな)紙幅を費やすことになるのか、それによっても自ずと行ける先は変わってくることでしょう。

論理の射程の広さと深さにおいて、今いる場所からどれだけ離れられるのか、それが成長や変化の余地であるし、新たな自分との出会いの機会かもしれないからです。

今の足元から1mや10mくらい移るのでは見える景色はほとんど変わりませんが、10kmとか100kmとか越えてくると随分と変わってくるように、ある程度あーだこーだとやらないと行けない領域があるものです。

そのためには、入念な準備体操にはじまり、適度に負荷のかかるウォーミング・アップをこなしつつ、そして、徐々にペースを上げながらせっせと汗水垂らして取り組んでいくわけです。

それが、見えるカタチとしてはどうしても(もちろんヴァーチャルな)紙幅を随分多く費やすことになっている、そういうことになっているわけです。

そして、徐々に本題に切り込んでいきながら、これについては率直に言っても良いけれど、瞑想、臨死体験、哲学、呼吸、エニアグラム、ミラーニューロンなど、一見すると多岐に渡る分野の書籍にあたっている人は、一体どのような人であるのか想像がつくでしょうか。

先ごろ出版された代々木忠監督の『哲学としてのセックス』(幻冬舎新書/2018年)は、このようなことを取り上げながら、ご自身の80年あまり生きてきて得た経験や考え、または仕事を通じて知り得たことが不可分であるようにまとめあげられています。

そして、内容としては今までの言説や知見を今一度囲うようにしていて、文字通り「完結編」と謳うのが良いのでしょう。

個人の、ひと夏の読書感想文として仕上げてみるのもアイディアのひとつですが、これは多くの人の目に触れて、今一度しっかり考えてみるべき一冊のようにも思います。

それだけに割愛も大いにしていきますし、主たる内容を取り上げることもしないだろうけれど、いくつかの観点はあくまでもベースとして、そこはかとなく織り交ぜていければ良いなと思います。

そして、それはベースであるがゆえに、真っ先に気づくものでもないでしょうが、味噌汁の"だし"のようにじわじわと効いてくるようにも思うもので、同じように感じてもらえたら本望ということになります。

かねてより言葉にしてもいるのですが、性の話やお金の話はなかなか会話の俎上には上がってこない類のものになっています。

あってもホニャララな人数や回数の多い/少ないとか、誰とヤッた/ヤラないとか、だいたい下世話な表現に終始してしまうのが、まことに残念でなりません。

そして、本の内容も加味してみれば、何をもって「普通」とするのかは言いがたいものですが、きわめて「普通」に過ごしているのではなかなか行き着かないようなことがあるものです。

少なくとも自分においてそうであるし、身近でこんな類の話をする人を見かけたこともありません。

もしかすると、これまでにも身近にいたのかもしれませんし、自分から働きかけなかったから知り得なかっただけなのかもしれません。

このあたりは、ひとつには「類は友を呼ぶ」ことのコツ(THE ART)を知らなかった、自分自身の不徳のいたす、ひたすらそのあたりになります。

それはそれとして、ここの領域を上手に掘り下げていくと、単なる肉体や精神をはるかに凌駕するような貴重な知見に行き着くので、知らないよりかは知っておいた方が良いわけです。

わかりやすい言葉で言えば"悟りを開く"ことができるのではないか、少なくともその手立てやヒントの重要な部分を知っているかもしれないと思うようなものになります。

人によっては、"開眼する"と言い替えても良いかと思います。

それだけに、機会があればとことん話し合ってみたいなとも思うわけですが、今は自分自身の内側で考えを広げて、かつ、しっかり深めていくことが良いことのように思います。

聞かれれば余すところなくお伝えしようとしますが、言葉遣いや発想の仕方において、あらかじめ敷いておきたいことが既にそれなりの多さであるために、本題に突入する前に、興味・関心がどこかに行ってしまうことも考えられるものです。

だから、普段はだいぶ物静かに過ごすくらいで、しかも「あの人、何考えているの?」と思われるくらいで、自分自身は至極安寧な気持ちでいられるものです。

内心ではこういうことが渦巻いているし、今年の年明けからの一連の投稿を覗いてもらえれば、それなりに首尾は一貫しているように思います。

また、こうして先を促すように進んでいることで、余人をもって替えがたいほどに不思議な境地に向かっているような気がします。

それゆえに、物事を観察する態度が加速するものですが、だからといって、それにとらわれているわけでもないのが、余計にわかりづらい境地にいることになるのだなと思います。

一定の"こだわり"はあるけれど、偏って"こだわり"を持たないことが"こだわり"でもあるので、裏の裏が表であるように、一周して元の位置にいるのだなと思います。

それでも、実は一周している分、何もしないでいるよりかは立つ位置が変わっているかもしれませんし、前進だか高みだかに歩みを進めているのかもしれないわけです。

先の例にあるように、口を開かずとも思うことでは、たとえば、道行く人でも身近な人でも構わないのですが、「その人が一体どのようなセックスを行うのか」、そういう観点で見るとその人の本質をグイッと引き寄せるようにして、知ることができるように思います。

あるいは、「どのような歩き方」をするのかがその人の本性を反映しているなとも思っていて、それとなく観察を続けています。

それはさておき、決して「あなた」と「私」でいたすーわけではなくて、他の誰でも、その人が誰かと真っ向から向き合う時に、どういう振る舞いを行うのかを知ることで、どういう考えや行動のもとに普段を過ごしているのかを擬似的に知ることができます。

経由して、ほんのりとうかがい知ることができると言っても構わないのですが、ごまかしも虚勢も張れない時にどうであるのかは、かなり大切なことのように思います。

これは、後にも詳しく述べたいことでもあるのですが、平素何を基準として考えたり行動したりするのか、その人なりの固有のものがあると思います。

それと連動するように、目の前のあれこれに対応して日々が営まれていくのであれば、たとえば、何をもって"幸せ"と思うのかで、幸せの感じ方がそれぞれにあることになります。

それについては、個々で自由に思えば良いことなので、取り立てて何を言うことはいたしません。

これを敷衍して考えて見ると、多くの人にとって、勝手がわからない、どうしたら良いかの正解がわからない状況や事態がしばしばあるかと思います。

そのような、ある意味土壇場にある時にどう振る舞うのか、その振る舞い方がその人の本性が垣間見える瞬間なのかなと思います。

普段は饒舌に何でも話すような明るい人でも、誰かと(しかも一糸まとわない姿で)向き合う時に、素直に「好き」とか「こうしてほしい」とか自分の感情や気持ちを言えないし、それを不自然なままにためらっているということがあるわけです。

それも、急にノドが詰まったように言えないとなると、よほどのものがその人の中にあるのだなと思うわけです。

こういう光景を目の当たりにすると、「あー、こちらの持っていた(最初の)印象とは異なるものだな」と、何だか不思議な気持ちになるものです。

また、似たようなことでは、普段いろいろと強い抑圧を受けているがために、深く呼吸をすることができない人も随分と多くいるようなのです。

意識・無意識と呼吸では関連がないようにも思うものですが、素直に感情を言えない、姿勢の悪さも相まって呼吸が浅いような人がいて、パッと見は問題がなさそうでも、抱えているものが重大だという人が意外どころか、随分と多いような気がします。

いくら外見を着飾って整えたとしても、内心ではとか、本心のところではとか、当の本人にとっても周りの人にとっても何もわからないことは多いのかもしれません。

これは同時に、自分自身を少なからず偽ろうと思っているのかもしれませんが、自分自身のことをしっかり知らないでいるうちは、他の人をしっかり知ることなどできようがないように思うものです。

奈辺をこのあたりとしてみると、普段、色恋だなんだとやっているような場合でも、スタイルがどうこう、大きさやカタチがどうこうということは、実際にはほとんど関係がなくなってくるように思います。

見た目でどうであるかは多くの人にとってわかりやすいものですが、"一緒にいること"と"仲が良いこと"は決して同じではないことにも気を向けなければなりません。

あるいは、何回デートをしたから親しさが何%増したということでもなくて、どれだけ親密になることに真摯であるのか、決して測れないところが大切になってくるのでしょう。

また、相手を知ることが自分を知ることにもつながってきて、相手との差異や共通項が浮き彫りにしていくものです。

こういうことを下卑た感じにもならず、揶揄するようなことにもしないで、「今日の空は、快晴でサワヤカね」くらいの、きわめてライトに語れると良いなと思います。

基本的には、こういうのは"秘め事"であって、個別にイチャイチャしたり、よろしくやってくれれば構わないのですが、一方では人類・人間存在に共通のものでもあるわけです。

それなりに、経験や知識を持ち寄ることもできたら良いし、より良いもの、より本質に近づくであろうことを、忌憚なく話し合えたら良い気がします。

【PART II】

話が広がるがゆえに、今のところはまだ収束するようなことはなくて、さらに思いつくままに展開していけばどうなっていくものか、しばらくは続けていこうかなと思っています。

だいたい今回においては折り返し地点を過ぎたあたりとも思うので、「まだ半分か!?」と思いつつ、後半も読み進めてもらえたら良いなと思います。

むしろ後半の方が長くなりそうです、そして3部構成へ・・・。

果たして、個人的に、恋愛においてのパートナーはどういう人が良いのかを考えてみようと思いますが、端的に言えば「一緒にいて、賦活されるような人」ということになる気がします。

"フカツ"だからと言って、決して深津絵里さんでなくてよ(ステキな方ですね、最近は映画や舞台を中心に活躍のようです:余談)。

一緒にいて刺激になる、頭をより使うとか発想が柔軟で素晴らしいとか、そういう自分の内側にあるけれど、誰かといることで知的活動がグイッと促進されるような感覚をもたらしてくれる人、そんな人が良いなと思います。

見た目においては、笑顔の似合う人、このあたりに小林正観さんの「そ・わ・か」の法則が働いてくるのですが、今回はそこには触れないで、やがて詳述することになるのかどうかなくらいに留めておこうと思います。

時折頭をもたげるような発想として、自分自身の、基本的な考えや性質は変わらないわけですが、時期であったり、日々の積み重ねであったり、その時々の成長・変化があります。

何もしなくても年齢は加わっていくので、自分自身の雰囲気や考え方も、何かしらは変化していくものです。

また、極端な話では、一週間も経てば何もしなくても手や足の爪が伸びていくように、あるいは、カラダの細胞が順次入れ替わっていくように、どこかしらかは変化が訪れるものです。

そういう、時間の経過そのものに準じるように、自分自身もいつも変わり続ける存在でいたいし、それがより良い変化であるようにしていきたいものです。

変わり続けるということでは変わらないために、たとえば出会った頃のままを期待されるとか、ある時点での雰囲気のままでいてほしいと言われるようでは、ともすれば窮屈な思いにとらわれるものです。

場合によっては、体型が変わることもあるでしょうし、着る服の雰囲気がガラリと変わるということもあります。

それゆえに、殊更に言われるようなこともないように、そういうことは口を衝いて出てこないように、かつ、無言の圧力もないようにそっと距離を置くようにしてしまうものです。

自分自身でそう思うように、相手に対してもむしろ能動的に変わり続けている方が、好意を抱きやすいようにも思います。

そういう方がかえって安定しているということで、福岡伸一さんの「動的平衡」の発想を持ち寄ってみると良いかなと思います。

もっと身近なところでは、ゴハンを食べては排泄を繰り返して生きていくように、独楽(コマ)もクルクル回り続けているから安定していると見ることができるわけです。

今のところ、これを尋ねられたことがないので、これ幸いなりと思っていることのひとつとして、「アタシと有紀、どっちを選ぶの?」という質問です。

必ずしも知り合ってからの月日ばかりではありませんが、昨日今日会ったくらいでの関わりでは、こういう質問はいかがなものかなと思ってしまいます。

無論、これに対しては(今は)ほとんど即答で「有紀」であり、これが答えに窮するようであったり、いくらか逡巡したりするのであれば、もしかするとコトなのかもしれません。

そういう「あなた」はそれだけ得難い存在であり、唯一無二の存在なのかもしれないと思うわけです。

これは単純に性別とか、性格の合うとかいうことではなく、理屈を越えたところでの「出会い=邂逅」なのだということなのでしょう。

人が人として生きていくためには、多くの人の間に立っていることが必要になってきます。

それでこそ、動物としてのヒトでなくて、"人間(にんげん)"になるわけです。

ただし、それは必要条件であって、十分条件ではないように思います。

この、必要か十分かのような言葉を用いずとも、条件を満たすための要素がいくつかあることを知っている人はどれくらいいるのでしょうか。

あるいは、人と出会うこと自体が目的でなく、出会って何がはじまるのか、何をはじめることができるのかを知ることも大切な気がします。

これは、目的と手段かみたいなことにもなるのですが、自らの思うところの仔細を聞かずして、判を押したように配慮も工夫もなく言われると、何としてもコトの比重を見誤るのは避けたいなという気になるものです。

そのためにも、拙速で迂闊な発想をしないように、普段からしっかり知性を発動させておこうとも思うものです。

最近の、自分自身の場合では、ひとつひとつの出会いを楽しんでいるだけであって、特定のこういう人に会いたいというわけではないのです。

今回の話で言えば、代々木忠監督に会いたいなと内心思っていたとしても、他の監督のことを言われたところで、比較するものでもないし、代替できるものでもないのです。

これは、たとえばプロ野球選手に会いたいからといって、熱心な巨人ファンの人に他の球団のスター選手を合わせるようなもので、確かに光栄なことかもしれないけれど、そうじゃないんだよなというミスマッチが起こっているわけです。

そして、特定の誰かに会うような単純なことでもなくて、多くの人とそれなりの場数を通じて知り合っていくうちに、そのうちの何人かと親しい交流をするようになるか、ならなくても良いけれど、せっかくなので、なったらなったで楽しそうだなという感覚でいます。

何かをしたいから出会いを求めているわけでもないし、出会いが多くあれば他に何もいらないわけでもないのです。

出会いの先に望む何かはあるとしても、手が届くかどうかは次の話になってくるので、自分自身、今はそれに向かっていること自体が尊いのだと思っています。

こういう考えの順番とか理屈とかを解き明かしたいと思うし、今は入れ替えるように考えているところもあって、それだけに説明を丁寧に繰り出さないと、思うところのいくらかを伝えることはできないような気がします。

この場合で言い方を変えてみると、"出会うからはじまるのでなく、はじめているから出会う"のだと言えるかもしれません。

もう少し具体的には、『ワンピース』において、ルフィが海賊王を目指しているから仲間(クルー)のひとりひとりに出会っていくわけです。

ゾロやナミに出会ったから、海賊王を目指そうかな、ウソップやサンジに出会ったから余計にそう思ったということにはなっていないのだと、それはわかってもらえるかと思います。

海賊王になるにしても、誰かと出会ったり、誰かを倒したりしたからなれるようなものでもなくて、目も眩むような金銀財宝を手に入れたからなれるようなものでもなくて、いつの間にか名実ともにそうなっているものなのかもしれません。

ルフィの場合とどことなく対照的に思うのですが、"白ひげ"の場合では、当初は海賊王を目指していたかもしれないけれど、やがて家族(ファミリー)と呼べるような仲間たちと旅を続ける、それ自体に価値を見出しているわけで、これはまたひとつの望むものとかなうことが一致しているケースのように思います。

白ひげの思いを汲まずして「海賊王を目指さないのは日和ったからだ」みたいなことは決して言えないわけです。

自分自身の場合でも、シャンパン100万本手に入ったから「達成でーす!」、自宅にナイトプールがあるから「幸せでーす!」みたいなことを望んでいるわけでもないし、それなりに抽象的であるかもしれないけれど、これを目指さずして何を目指すのかという感覚の元に推し進めていることがあります。

言い換えれば、目標は相対的なものであるし、個人がそれぞれに何を思っているのか、目に見えない部分が大きな意味を持っているようにも思うものです。

本音を易々と言うことができるのか、嘘や偽りは良くはありませんが、冗談や戯言でやり過ごすこともないわけではありません。

発言する方としての心構えや姿勢としてもそうですし、これは尋ねる側の力量にも関わるところでもあるように思います。

良きインタビュアーは、的確な質問を繰り出すがために、良い答えを引き出すことができるものです。

概ねのところで考えれば、音楽のアルバムのプロモーションをしているのに、遊園地で好きな乗り物を聞くようなことはしないわけです。

真率に語ろうとする自分自身においては、玉ねぎの薄皮を、一枚ずつ剥いでいくようなもので、丹念に言葉を紡いで、それでどうにか思っていることを伝えようとするものです。

しかし、それはこちらの内側で調整もできるようなことで、相手にとっては果たして、それが本音なのかどうかの保証はどこにもないわけです。

言い換えを多用したり、言わないことで伝わったりすることもあるでしょうし、伝えようとしていても言葉が伴わないこともあるでしょう。

それがまた、自分の言える/言えないを選択する葛藤かもしれないし、相手との信頼によるものかもしれないわけです。

どちらが先に立つのか、譲り合ってばかりでもいけないし、我先にと立ち上がるのも具合が悪いとなれば、どうするのが最適かということも断定的には言いにくいなと思います。

たとえば、相手の言い分や性格をうかがい知るのに、断片的な、ともすれば支離滅裂な質問をつないでいくものです。

生まれは?年齢は?家族構成は?のようなところから、趣味・特技や今の興味・関心にまで及んでいくことでしょう。

ただ、基本的にその人がどのような姿勢・心構えを敷いているのは、部分を寄り集めたところで全体にならないように、どの断片が欠けているかどうかの切り口でない場合があります。

できる限りはひとつひとつの部分も尋ねるし、同時にまた、全体からも探っていくことが大切で、異なる観点から組み合わせながら切り込んでいくことも必要になってくるものです。

【PART III】

まったくもって続くばかりの今回において、無事に最後はミラクル回転にて着地できるのか、今は定かではないけれどやがて終わることはわかっています。

ある程度の一貫性でもって取り組んでいるだけに、散らかしたままで終わるということはありません。

伏線も、別に伏線と思って張り巡らしているわけではないし、"ハウダニット"や"フーダニット"の類でもないので回収しきれなくても構わないことでしょう。

そんなこんなで、"これで終わります"【PART III】をお楽しみくださいませ。

人それなりに生きていくと、長年の習慣やクセみたいなところが、その人と不可分になってくるもので、どのような言葉遣いをしているかが、その人を表していることも多くあるものです。

前向きな人は、いつも好意的な解釈をする傾向にあるでしょうし、そうでない人はそうでないようになっているものです。

このあたりの、「文体とエクリチュール」という関係が興味深いところでもあるのですが、とにかく、どのような言葉遣いをしているのかで、普段の生活がどう動いているかにつながっていくものです。

そこに付随すれば、場合によりけりというところもあって、基本的なところとその時々の、ある意味臨時の対応をすることがあります。

そのためには、いくつかなのか、いくつものなのかは好みで良い気がしますが、複数のスタンダードを自らに設けておいて、その時々で対応するのが良いと言えるでしょう。

うどんやそばの麺打ち職人が、その日の気温や湿度によって麺に含ませる水分の量を調整するように、巧みに使い分けることに似ているように思います。

それを、ひとつの"ゆらぎ"と呼ぶのかもしれないけれど、向こうへ振れてこちらに振れてとなりながら、意外と一定の範囲をたゆたっているものかもしれません。

そういうものを知っていてやっているのと、何となくの感覚でやっているのでは、見た目は同じでも、内実は雲泥の差ということもあるはずです。

しっかり厚みのあるサーフボードにつかまって波間にゆらいでいるのと、何もつかまるものもなく、波に翻弄されるがままに揺れているのでは、似ているようでも随分と隔たりはあることでしょう。

しかも、こういう"ゆらぎ"が、思考や感情において浮き沈みのあるような上下の動きでなく、より多彩であるという方での左右の振り幅につながるのであれば良いように思います。

自分自身においては、こういう不安定さが、かえって気持ちを落ち着かせることになっているのではないか、最近は特にそういう考えのもとに日々を過ごしています。

果たして、人はそれぞれわかり合えることができるのでしょうか。

あるいは、人は、わかり合えない。

そのように考えることも、必ずしも誤りとは言えないものです。

なぜなら、自分のことだって、何を考えているかわからないのだから。

しかし、このような問いかけに対して、「お互いにわかり合えないよね」というところで合意が取れるような、そういう頭の使い方ができるのは、だいぶ建設的であるように思います。

また、無駄を排するように即座に解決にしてしまうのと、迂回を多く経ても知的負荷がかかる方では、自分自身は後者を選んでいきたいと思っています。

そして、わかり合えないところを数え上げるより、それは随分と少ないかもしれないけれど、わかり合えている方をうんと大切にした方が良い。

これもまた、コップに半分ある水をどうとらえるのか、考え方と日頃の習慣による賜物と言えるでしょう。

さらなる問いかけになりますが、自分の生まれてきた意味や、生きていく意味を、あなたは言うことができるでしょうか。

自分自身で、「さて、生まれて、いっちょ生きてみるかー」と思って世に出ている人が(ほとんど)いないように、ポンと生まれ出た瞬間から時を刻みながら生きることがスタートします。

ある意味では本人の意思どころでなく、時間や場所や置かれている状況など人それぞれで、しかし、否応無しに生きることをはじめていくしかありません。

どのような境遇であるのかも選び取れませんし、それ自体その人固有のもので、誰にとっても余人をもって代え難いわけです。

ただ、誰にとってもその人固有であるということは、孤独の裏返しでもあって、それだけに出身地や年齢が同じであると妙に嬉しくなるのは、他の人と自分の間に、何かしら共通点があるという喜びが大きいのかということが考えられます。

どうやって生きていくのか、それは一筋縄ではいかないかもしれないけれど、目の前のことに精一杯取り組んでいるうちに、やがて長い年数を経るうちに、生まれてきた意味を知ったり、生きていく意味がわかってきたりするのかなと思います。

今、それなりに生きてきたからわかることがあって、これが過去のどの時点でもわかり得てはいないなということがそこかしこにあるものです。

ようやくまとめに取りかかっていこうと思うのですが、自分なりの物事を見るモノサシのような、判断の基準となる考えを持っていると良いと思います。

こういうものを、まさしく規矩として持っておくことで、取り組む具体的なあれこれは異なったとしても、根底にあるものは似通っている場合があるものです。

何を食べるにしても、箸やスプーンを使うかもしれないけれど、何か取ったりすくったりして口に運ぶことでは共通していると考えるような感覚です。

そして、一歩でも前へなのか上なのかはわかりませんが、歩を着実に進めていくことで、世の中の真理や本質に近づいていけることでしょう。

少しずつであっても、そうなれるように、日々を大切に過ごしていきたいと思う次第です。

魂は崇高なるものだけれど、この世で生きている限り、現実的には肉体を介さないとどこにも行けないものです。

また、心が動けば涙が出るように、心やカラダは決して別個のものでなく、ひとつなぎのものでもあります。

心と魂は似ているように思いますが、心の深いところにあるのが魂と考えると、これもまたつながっていると考えられます。

魂は別に扱うとして、そうして、心とカラダ(肉体)、思考や論理を司る頭(あるいは、脳)とをセットにして考えてみると、決して頭でっかちになるわけでもなく、行動で動き回るだけでもなく、感情に任せるがままでもないことになってきます。

これら3つと魂の、取り上げ方や組み合わせはいくつかの例があると思いますが、頭で考えながら、心とカラダを使いながら魂の充足を図るのが良いということはひとつ言えることのように思います。

こういう結びつきは、決して目には見えないものだけれど、だからといっておろそかにしてはいけないものでもあります。

ここまで述べておいて言うのも妙なものですが、自分自身は決して論理・理屈のタイプではないのです。

自分自身が普段何を考えてみるのか、それを知ってもらいたいがためにあれこれと述べているのもありますが、それ以上に、しかるべきところにはとても有用な知見が蓄えられているということ、その事実に意識を向けてもらいたい思いが強いものです。

それだけに言葉や例証を多く持ち出して、(もちろんヴァーチャルな)紙幅を費やしていき、何か説明をするとか、自分の考えを披瀝するような場合では、とことん"情理を尽くす"ことを心がけています。

時間や分量の限りはありますが、それにしても「感情*論理」の組み合わせになります。

そして、今は特に観念的な領域にも飛び込んでいて、これはまた少し軸層が異なってくるものになります。

それぞれ固有に大切なものでもあるし、「あなた」と「私」の相互の関係によって引き立つもこともあるでしょう。

そういうことを介在しながら、お互いに、世の中の真理や本質にまで届いていけると良いものです。

海賊の宝箱も、たしかに空の箱が多いのかもしれないけれど、ずっと開け続けない限りは金銀財宝を収めるものにも巡り会うことがないようなものでしょう。

石をひっくり返してみるとダンゴムシが多くいるのは、苦手な人もいるかもしれませんが、それにしても石をひっくり返し続けないことにはダンゴムシの多くいるところもわからない、そういうことをそれとなく感じ取ってもらいたいものです。

先述の「文体とエクリチュール」にも関連して、何かを言おうと思っている場合に、言葉を駆使し、文体にも気を配りながら推し進めていくことになります。

ただ、言葉や文体は、ここから遠くだか深くだか行くために用いる乗り物や地図のようなもので、それ自体が目的ではなく、あくまで手段に過ぎないものです。

これらを熟知し、いかに使いこなすかによって、思考や感情においても未だ知り得ぬところまで行き着くことができるようにも思うものです。

日本語にしても、それ自体にある叡智や極意みたいなものがあるために、普段の会話で出ている語彙や表現など、かなり限られたものであることでしょう。

いかに考えを深めるのか、いかに多くの人に訴えかけることができるのか、そういう営みを繰り返したり、内容や表現において上達したりしていくことで「人と成る」のであれば、言葉や文体でもって人格陶冶をするというのは平仄が合うことのように思います。

そして、それを目指していきたいとも思うものです。

今回はだいぶ長くなりましたが、これだけ述べていけば自分自身にも、そして、ここまで読み進めてきた「あなた」にとって、もたらす何かがあることでしょう。

その中に、少なからず共感するところがあるようであれば、「類は友を呼ぶ」ように、良きつながり・結びつきが生じる可能性があることになります。

少なくとも、ここまで読み進めてしまったからには、引き返さなかっただけの理由や背景があるのでしょうし、かなりの忍耐・忍辱の備わっていることの証左であるように思います。

今の時点で狙っていることは明示しにくいものでもありますが、何かしら"閾値を越える"ためにもこれだけの分量が必要だったということはあったのでしょう。

また、何かの折には、もう少し読みやすい分量と内容においてお届けできたら良いなと思います。

次にお目にかかるのはいつになるでしょう、再会の時を待ち望むその時の流れが、今は心地好いと言うことができるような気がします☆

 

 

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核心を衝く<保存用>

 

繋ぎ止めておかないとどこかに行ってしまうようなもの、それを「はかない」と言ってしまえばそれで終わってしまうようなもの。

生きること、働くこと、恋することなど、生活にまつわることは多くあるわけですが、どれに重きを置くのか、どれを優先していくのかは、人それぞれの向き合い方・取り組み方であって構わないでしょう。

そして、それぞれとことん突き詰めた先に、"共通した何か"があるような気がしてならないのですが、それは一体どういうものでしょうか。

ひとつひとつ、突き詰めていくうちにそれぞれに見知ることがあるかもしれませんが、それを並べて見た時にはまた異なって見えるような、普遍的な何かがあるように思います。

連なる山々において、どの山のどのルートを選んで登っていっても、最終的には富士山の頂に行き着くような感覚かもしれません。

それは、行く途中の道筋は異なろうとも、どれも同じような"真髄"に行き着くようなもので、できることならばそういうものをこの目で見てみたいとも思うものです。

何事もそうですが、取り組む前にそれがどういうことになるか事前にわかることもありませんし、何の苦労もなく即座に見通せるようなものでもありません。

そうでないから、だからいつも長い道のりを行きながら何かを得ようとしたり、あらゆることにおいて試行錯誤したりするのかもしれません。

また、それぞれに目に見えるカタチでの「達成」があるのかもしれませんが、大きな家に住んだり、多くの稼ぎを得たり、美男美女のパートナーを得たりするような、見た目でわかることが本当の意味で行き着く先なのだろうか、懐疑する気持ちをひっそり差し込むことも必要です。

上っ面のいくらかをすくい取ったところで、本当のところは誰にわかるようなことでもないことのように。

難解なことを丹念に紐解いていくように、何事もわかりやすく伝えることは大切なことですが、その一方で、わかりやすいことがそのまま良いこと・正しいことになるとは、あまり思えないものです。

少なくとも、その境界を見極めるだけの術を、今の私は十全には持ち合わせていないということはあるでしょう。

昨今のスポーツにおいて多く見られるように、キッチリと勝敗を分ける・雌雄を決するような時に、「楽しんできます」、「結果にこだわります」といったコメントを耳にすることが多い気がします。

特に「結果」は、ある程度終わってみてとか、区切りをつけてみてとかして、それでどうなのでしょうというもので、最初からそこに用意されているようなものではなく、いろいろ紆余曲折を経てようやく行き着く先ということになるものです。

いつの頃からか時間の前後や因果が入れ替わってしまい、また、目に見えることは誰にとっても同じように見えるため、どうしても「結果を出す」みたいな表現になってしまうのでしょう。

全力を尽くし、最善を尽くしていくうちに、自ずと出るはずのものを、最初から無理にひねり出すようなことになっています。

もちろん、取り組むからには成果・結果として良いものを残しておきたいし、それが数値として計測・計量できる方が、誰かにわかりやすく伝えるにも有益だということはあるでしょう。

数の多さや規模の大きさというものも良いとは思いますが、その一方で、到達の深さということをもっと大切にしておくべきではないか、並行してそのようにも考えたくなるものです。

先の例を延長して考えていくと、住んでいる家の坪数や稼いだ金額、またはこれまでに親密になったパートナーの人数は、そのまま数値として表せるので、多い・少ないことが一目でわかるようになっています。

しかし、その数を競ったところで、上限がどこにあるのかわからないものだから、どこまで行けば安心とか十分ということでもありません。

試合に勝つことと勝負に勝つことが少し異なるように、取り組む途中で得られるものと、取り組んだ後で得られるものが同じでないということは、比較的容易に考えが及ぶかと思います。

大切なことをねじまげてまでやる必要があるのか、これはいつも自分に問いかけていきたいことのひとつです。

長く時間を過ごしたから、多くの言葉を交わしたからといって、お互いのことが知り尽くせるというものでもありません。

たとえば、自分自身の場合、十余年にわたる"メタルヘッド"であるのですが、自分から主張することもないですし、特段尋ねられるわけでもないために、それを知るにはいかんやという具合です。

ほとんど脈略もなく、「いついつの頃、DREAM THEATERの『IMAGES AND WORDS』をキッカケにメタルの世界に入門したんですよね〜」とは言いづらいものです。

もう少し細かく言及すると、激しくて頭を振るのに適しているような、また、多くの人にとってわかりやすいMETALLICA、MEGADETH、SLAYER、ANTHRAXにEXODUSを含めるかどうかの"スラッシュ"の系譜に入れ込んでいるわけでなく、DREAM THEATER、OPETHなどの、随分と"プログレッシブ"なところが、心の深いところの琴線に触れてくるわけです。

あるいは、米米CLUB「君がいるだけで」に端を発し、他のバンドやミュージシャンにも興味・関心をその都度広げ続け、気づけば四半世紀以上音楽を聴くことを好んでいることの、聴いている内容と時間においての影響や特徴も当然あることでしょう。

ひた隠しにしているわけでもない事柄ですが、もしかするとそういう好みの傾向や、これまでに触れてきたもののいくらかが、自分自身の"気質(ネイチャー)"に関与しているとも考えられ、知らないでいるかは知ってもらっていて良いことのように思います。

少なくとも黒いTシャツを着ることを好むのは、この文脈においてであると取り上げることができます。

こういうことをつらつらと書き出しても詮ないことでもありますが、そこでは、自分自身の好みの範囲・傾向を知ってもらいたいというよりかは、それ以上に、自分自身のことを自分の中でどれくらい把握できているのかということに多く意識が向いています。

最も身近でありながら、意外と不明の多い自分自身を知ることをせずして、何を他の人に語ろうと言うのか、そんな気がします。

もしかすると、ここでも物事の前後や因果が入れ替わっているのかもしれません。

そして、たとえば異性の好みを尋ねられたとして、"見た目がナイス"、"優しい"と答えるよりかは、"背が高い方が良い"とか、"目が大きい"というような外見的な特徴であったり、"ミステリ小説を多く読んでいる"、"週末はキャンプに出かけている"という、行動に見え隠れする好みを伝えた方が、周りの人が見当をつけるのにも役に立つものです。

さらに、こういうことを、蛇足ついでに"メタルを聴くこと"に特化してみれば、"スラッシュ"なのか"メロスピ/メロパワ"なのか"デスコア"なのかの好みを伝えることで、振り幅の大きいジャンルの中であっても随分と範囲を狭めてオススメを受けることができるように思います。

自分にとって有益となる情報が他の人から多くもたらされることを、もう少し身近なところで考えてみると、評判の良いレストラン、行って楽しい場所など、自分の興味・関心のあることを日頃からそれとなく言っておくと、ちらほらと情報が集まってくるものです。

それが把握するのに必要な分だけそろっていなくても、少なくとも自分は知っていたり、そう思っていたりするアンテナが立っているのだから、ちょっとした手がかりさえあれば、そこから多くの情報を引き出すことができます。

"あなた・私"の多くの結びつきで成り立っている日々の生活や人生ひとつを送っていくにあたって、もしも自分のことを知ってもらいたければ、先に相手の言うことやその内容に興味を持つことからはじめていくのが良いということを、さりげなく、それでいて少し語気強くここで述べておきたいなと思います。

思考や感情において、自分自身を掘り下げることは、岩盤を砕きながら地表から深く潜るようなことに似ていて、どこかでガツンと突き抜け、先に開ける何かがあると考えられます。

そういう、何かあるという予感が、時間の前後を入れ替わるようにして、今の手元で行なっていること=岩盤を打ち砕くことの原動力となっているとも言えるわけです。

記憶や意識においても、性格同様決して裏表のあるようなことでなく、二重底・三重底とかいうものを思い浮かべてもらって、そこにあるものにもお互いに思いを馳せていくことが大切です。

そのためにも、自らに敷いているものの考え方やとらえ方、何かの判断や選択をするような時に駆動するものがどういうものであるのか、普段からできるだけ詳しく知っておくことが良いと思います。

自分でしっかり把握しておくだけでなく、誰かと関わりを持つ時にも有用で、肉をえぐり、骨にまで到達するようなやり取りをしない限り、本当の意味で「お互いのことがわかる」ことはないでしょう。

それは、決して「肉を切らせて骨を断つ」ようなことでなく、単純に血の通う存在としてのやりとりであるということです。

一緒にゴハンを食べるような時に、楽しくゴハンを食べれる相手なのかどうかは、思っている以上に多くの含蓄が含まれているものですが、ここではその事実のみを取り上げておくことにしておきます。

甘ったれた意見なのかもしれませんが、ロマンや理想を語らずして、手前の課題や問題に取り組む尋常ならざるエネルギーとはならない気がします。

それが金銭のやり取りのある仕事であったり、多くの人を巻き込むような取り組みであったりするわけで、もちろん"ままごと"でも無償の奉仕でもないのだから、シビアに考えなければいけない部分は多くあります。

それでも遥か遠くにあるような理想を掲げ、そこに力強く向かうと同時に、今、自分のいる場所が理想のいくらかでもかなっているとか、大部分ですでにそうであると良いものです。

心構えや姿勢のひとつとして、あらかじめ遊園地が楽しい場所であると思うのと同様に、自分自身もまた行けば楽しめる場所であると思える、そういうものであってほしいなと思います。

また、時間や距離において近くと遠くで同時にかなう、誰かにとって心底そう思えるようであってほしいし、自分自身でもそう思いたいものです。

場所自体が拠りどころであるというのは、そこに集まる人がそういう場所であってほしいと思い、その思いのもとに日頃の活動なのか行き来なのかを積み重ねているわけです。

そこにいる人たちが居心地が良いと思えるから、その場所もまた居心地の良いところとなっていくように、そういう"強い思い"からはじまるものに勝るものはないのかもしれません。

さらには、"楽しい"とは一体どういうことなのか?それを突き詰めていくと、やたら能天気に振る舞うだけでもなく、苦役に耐えることの先にあるばかりでなくて、そういう個々の思いが、あくまで自発的に発しているのかどうか、それが何に増して重要であるように思います。

自分の今いる場所が、これからどういうところになっていくのか、そして、自分自身が関わることやその度合いによってどんな変化をもたらすことができるのか、そういういくつかの視点・観点で見定めたい思いがあります。

何事においても"より良さ"を追い求めていきたい自分自身において、また、常に留まれないもの="ただの止まり木でしかない"(天野月子「菩提樹」)気質(ネイチャー)があるとしても、今はそこにいることを望んでいます。

何かコトを成すような時に"強い思い"を持つことは必須のように思いますが、それに加え、普段自分が発している言葉がもたらす恩恵やその偉大さを知りたい気持ちがあります。

たとえ、本心では思っていないようなことであっても、いつも言っているとどうなっていくものか、実際のところを知りたく思うものです。

今思うそういうことの、声高らかに言っていきたいひとつは「恋は革命よ!」というフレーズになります。

恋に落ちるから見える世界が一変するのか、何かのキッカケで見える世界が変わるから恋にも巡り会うのか、そのあたりの因果関係はわからないものですが、ぼちぼちやっていこうと思います。

自分自身を突き動かすものを内心知りながら、果たして自分自身はどこに行き着くことになるのだろうか、それを知ることにおいても、続きはこれからだし、お楽しみはこれから、つまりはそういうことなのです☆

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物語の力<保存用>

 

本日は"魔暦20年4月19日"、私の生まれ出ずる日であって、それを奇貨として新たな物語を付与してみようと、大いに言祝ぎながらここに試みる次第。

福音は高らかに鳴り響くべきものであって、それは私のもとにも降り注いできても良いもので、さらには心より待ち望んでみても良いものであろう。

世の中には、映画や小説などの作品が無数と言って良いほどに多くあって、そして、時代を問わず広く親しまれているように、「物語」の持つ魅力は強大なものです。

身近なところでも、思うところや言いたいことの骨子を、ほんのひと言やふた言にして言い切ることがほとんどできないように、また、それらは数百~数千字足らずで語り尽くせるようなものでもなく、いくらかまとまった分量の、場合によっては長大に渡る「物語」によって、何かしらの"本懐"を伝えようとします。

そして、多くの場合、どうにも言い表せないようなことが、言い表していること以上に背後や裏側に控えているようにも思いますし、人それなりに生きているとあれば、時間の長さでもしかり、心の奥深くに大切にしまってあるものは、そう容易には口をついて出てこないものです。

時には、何かを語らないことによって、何かを語ろうとすることもあるでしょうし、きっと見えるばかりが本当のところでもなく、見えないところにも目を向けようとする、そういう想像の及ぼし方ができることも必要だなと思います。

必ずしも説明しきれない、そういう"もどかしさ"はすべて取り除くものではなく、そこはかとなく漂う情緒のように、あってしかるべしというところかもしれません。

奥歯の間にモノが挟まってしまったら、速やかに取りたいと思うものですが、その間は挟まっているから気にするようにもなるし、舌先でつついて何とかしようとも思うわけです。

あるいは、"事実は小説より奇なり"なのかもしれないけれども、一方では"小説もまた事実より奇なり"ということもあって、現実だろうが虚構だろうが、自分が知っている(と思っているような)ことは、知らないことに比べて随分と少ないことに気がつくものです。

そこでは、何が本当のところかを知ろうとする態度が採られるかもしれないし、ドキュメントやロードムービーのように、日々の活動を月単位や年単位で通じながら、語らずして語るようなこともいくらかは可能になっていくように思います。

また、「文体」が自分の思いを乗せる"乗りもの"のように考えられる時に、その思いがどこに行き着くのかの最果てを知ってみたいものだし、自分自身においても今の思いを乗せる"存在"自体が果たしてどのようなところに行き着くのか、それを見届けたい思いがあります。

私個人としては、ひとつには音楽の、バンドやミュージシャンの活動を通じてそういった「物語」を感じることは多いものです。

たとえば、音楽におけるCDアルバムの制作及び発表、また、それをプロモート&フォローするライブ・コンサートやツアーを経て、時にはDVDや(最近では)Blu-Rayの映像作品にまとめることもして、活動の基本的な(あくまで基本的なところでの)サイクルが一巡します。

また、時と場合によっては、日本武道館や東京ドームのような大きな会場であったり、演奏する曲目や内容が特別なものであったりして、ライブ・コンサートそのものが活動におけるひとつのトピックとなることもあります。

それでも、各バンドや各ミュージシャンの活動を総括するようにして見る場合には、これまでにどのようなアルバム(あるいは、シングルやミニ・アルバムなど)を出してきたのか、ディスコグラフィーの一覧でもってどうにか知ろうとすることが多いように思います。

これまでに出たものしかり、次の新たなアルバム、さらに次のアルバムと、その時期ごとに出るアルバムがひとつの節目となっていくように、そこで各時期ごとの意味づけができたり、事後的にその時々がどういう時期であったのかを知ったりすることも多いものです。

バンドやミュージシャンの置かれている個別の状況やタイミングだけでなく、音楽シーンの範囲だけに留まらないところでの、その時期に付随する時代の雰囲気や社会の趨勢のようなものも、それぞれ同じようにして知るところです。

ハードロック/ヘビーメタルの世界においては、それぞれ"ひいきの"バンドやミュージシャンはいるとしても、それでもわかりやすいところでMETALLICAやIRON MAIDENが引き合いになることが多いため、メタルの世界に入門したばかり人にとっても、各アルバムの特徴や時期ごとの特徴を比較的容易に知ることができます。

また、もう少し間口を広く取って、"ロック"としてとらえる場合、上記のように大きな視点で活動を見ているバンドとして、LUNA SEAを挙げていくらかの言及をしておきたいと思います。

必ずしも多作ではない、それは言い換えればアルバム一枚ごと、楽曲の一曲ごとに全身全霊を注ぎ込んで製作にあたっているわけですが、アルバム一枚あたりに込められている「物語」もしかり、アルバムを前後する活動から見える「物語」もまた、こちら側に真に力強く迫ってくるほどに、かなり分厚いものを持っているように思います。

1990年代半ばから後半にかけての、『MOTHER』~『STYLE』~『SHINE』と続いていく時期の、バンド内外にほとばしる緊張感やテンションは桁外れに増していくように思います。

また、2007年の一夜限りの復活"GOD BLESS YOU~One Night Dejavu~"から再始動の"REBOOT"、そして今に続く活動とそれに呼応して出てくるアルバムについては、いくら言葉があっても分析も説明も追いつかないもののように思います。

それだけに依然として多くの人を魅了するのでしょうし、強く魅了された人は身も心も"SLAVE"と化するのでしょう。

音楽を楽しむということでは、楽曲単位であったり、ひとつひとつの歌詞やメロディーのフレーズであったりをそれぞれ楽しめばそれで構わないわけですが、もう少し広くとらえるという意味において、LUNA SEAはひとつの際立った例なのかもしれません。

その時々のインタビューやレポートを通じて、バンドの活動を現在進行形でこと細かに知っていくこともしながら、一方では、ある程度時間が経つのも待って、より包括的に知るようにするのも良いようにも思います。

一度は"終幕"を迎えたものの、その後の時間の経過があって、にわかに機運が高まって再び同じステージに立ち、さらに2010年からの本格的な活動になるとは、当事者であるメンバーを含め、2000年のあたりで想像できた人は果たしてどれくらいいたのでしょうか。

それでも、どれほどにドラマチックな事象であろうとも、実際には小さな出来事の積み重ねであるので、何かがそれほど急に起こることは滅多にないような気がします。

一見すれば偶然に見えるようなことであっても、そのひとつひとつが必然であるようにして寄り集まってくることで、当然のように物事は進んでいくものです。

年月においても同様で、長年にわたるひとりひとりの小さな"祈り"が集まってこそ、大きな岩をも動かす力が働いたとも言えるので、つい小さく見えてしまう(ような)ことも決しておろそかにすることはできないものです。

そのようにしてまたLUNA SEAとしての大きな「物語」は動き出し、25年以上のまとまりを持って、今もなお"続き"を描き出しているわけです。

LUNA SEAに限らず、意識的・能動的に音楽を楽しむようになって四半世紀以上が経つような自身をとらえてみれば、当然いろいろ見知ることはあるものです。

このように"時を恃む"ことで味わえる深さや奥行きもあるので、リアルタイムで追いかけるとともに、大きな視野に立つことのどちらもできた方が良いのではないか、ささやかながらそのように取り上げておきたいと思います。

ここで、自分にとって大きく影響を及ぼしているバンドやミュージシャンの、名前の多くを挙げることもやぶさかではありませんが、それを披歴すること自体にあまり意味はありません。

むしろ、これまでにどれくらい芳醇な(音楽を取り巻く)体験をしてきたかが重要なポイントになります。

最近の目立ったところでは、Hi-STANDARDのアルバム発表及び全国ツアー、HELLOWEEN特別版のPUMPKINS UNITEDに歓喜した人も多いことでしょう。

それは、ひとりひとりが思い出や記憶をかみ締めていれば良くて、何だかそれ以上でも以下でもないような気がします。

多くを語ろうとすれば、当然言葉を多く費やすでしょうし、費やしたところでどれだけ伝えることができるのか、それはまた別の問題になります。

話を元に戻してみると、見る側としてだけでなく、自分のことにおいてもおそらくそうですが、何事も最初から「何ヶ年計画」のように綿密に考案され、そのまま齟齬なく実行されることは相当に少ないように思います。

ある程度の、期間の長さを想定してやっていることはあるでしょうが、結局はその時々の状況に合わせて臨機応変に対応しながら、その時々でどれだけ充実した時間を過ごすことができているのか、あるいは、持てる力を十全に注ぎ込むことができているのか、ひたすらそれの積み重ねでしかないように思います。

そして、一歩一歩と地面を踏みしめるようにして進んでいき、いつか振り返ってみ見た時に、あくまで結果として、そこに何かしらの"道"が踏み固められていたということなのでしょう。

もしも最初から大きな「物語」を織り成したいと思ったとしても、果たして最終的にはどこに行き着くかわからないでしょうし、途中での変更や修正は余儀なくされるはずです。

結局は、紙面に一文字ずつ綴っていくしかないように、逆説的に"今"の連続によってしかそれはかなわない、そのように言うこともできるかもしれません。

これまでも、そしてこれからのことにしても、その"今"を力強く精一杯打ち込んでいるようにしている場合では、そこから立ち上がってくる「物語」は、時間は経っているということでの時代の移り変わりは感じたとしても、必ずしも古さを感じるものではないように思います。

音楽におけるアルバムが、その時期ごとを切り取っている作品であるように、それがまた世に語り継がれるようなものであれば、時には"クラシック"と呼ばれるようにして、時間の長さを取り込んでさらなる魅力とすることができるものです。

活動が現在進行形で、なおも続いているようなバンドやミュージシャンにおいては、技術やパフォーマンスがより洗練されたり、より深い魅力を醸し出していったりするでしょうから、アルバムであり楽曲なりもまた呼応して、決して色褪せることはない"今"を絶えず感じさせながら更新していくと言えそうです。

アルバムや楽曲のタイトルに関して少し付け加えておくならば、意識してかしないでかの明確な線引きはできないものの、その時点ごとの事実認知的な言明であり、これから先々に対しての遂行的言明でもある場合が少なからずあります。

ここは言語学者のジョン・L・オースティンに詳しくあるようですが、コトの要諦としては、今がそうであることの状態や形態をそのまま言い表していて、それを確認しているものが事実認知的な言明になります。

一方、理想や目標を掲げて向かっていく姿勢や様子を言い表して、これからそうしていく前向きさを表しているのが遂行的言明ということで、時間を前後しながらもふさわしいタイトルになっていると感じるものがいくつかあります。

METALICCAの最初のアルバムが『KILL’EM ALL』というタイトルで、決して"ミナ殺し"ではないけれど、"ヤラれた=心を持っていかれた"ように、多くのファンの心を射抜き、膨大な数のファンを得ていくことを物語っているように見えるものです。

また、間近でセンセーショナルなところでは、X JAPANの"もうすぐ出るはずのアルバム"がいつ出てくるのか、タイトルはセルフタイトルの『X JAPAN』とも一部ではささやかれていますがが、それによってまた音楽シーンの衝撃的な景色を見ることになるでしょう。

この場合では、"X"の持つ可能性が読んで字のごとくの"開かれた未知性"であり、"JAPAN"が地政学的に日本の出自であることを表し、名実ともに"これぞX JAPANっ!"というものになっている可能性が高いどころか、そのはるかに高い期待すら越えてくる予感がします。

もしも正確さをもってこれを語ろうとするには、こちらの語ろうとする姿勢が整わないことには、そもそも語り出すことすらしないというエピソードもあるにはあります。

端的に言えば、人ひとりのことと言えど、少なくとも口に出して言えるくらいには干支が一周するくらいの年月(=約12年)は必要ですし、そこからようやく落ち着くと思えるくらいにはさらに数年はかかるものです。

自分の歩みと重ねてみれば、10代の終わりから、20代をそのまま通り過ぎ、30代の半ばになるまで、ずっと待ち続けたひとつの「物語」に対し、長く思いを持ち続けてきて良かったと言える自分がここにいます。

それについては、どこにあるのか、あってもきっとわからないでしょうが、時系列に従いながら少しずつ切り取っているものが別にあるので、こちらではあくまでほのめかす程度で終わることにしておきます。

少なくとも、私にとって"待つことのできる"基準として、ひとつは12年くらいであるということになります。

人は誰しも、どこから来てどこへ行くのかがわからないように、ひとつの命を生きているとは言え、ただひとつの道を行くだけに定まっているわけではありません。

次の一歩をどこに踏み出していくのか、今のここから新たに踏み出すことはしていくにしても、それは事前に決まっているわけではなく、ある意味では自分の意思に委ねられているわけです。

これまでの延長線上に続けていっても良いわけですし、別の方向に転換しても決めるのはあくまでも自分自身であって、誰の意向に添わなくても基本的には構わないということになります。

その歩みのひとつひとつを漫然としてではなく、極めて自覚的に置いていこうとする時、その決断自体の重さに逡巡するようなこともあるかもしれません。

場合によっては、どうにも歩を進めることができないような極めて心許ない気持ちになることもあるでしょう。

日頃から、何をどうしたら良いかわからないような時に、どうしたら良いかを知っていることができるようにしておくことも大切ですし、あるいは、そのような時には何をどうしようが好きなようにすれば良いと言い換えることもできる気がします。

想像の枠組みを押し広げる試みとしては、人生はあくまでも単線的なものではないし、単線的にできるほど単純なものではないということを知っておくのも、ひとつには良いと思います。

あちらに寄りこちらに寄りと、いろいろ行き当たりながら自分の進む「道」を次第に見出していくように、時に振り返って、過去の経験やこれまでの様子を確かに参考にするかもしれないけれど、これから先は別のレーンをいくようであっても構わないわけです。

それも、競技場のトラックの話だけに限ったような話でなく、道路でも舗装されていない野道でも、少しでも視野を広げてみれば選択肢は思っている以上に多くあるものです。

また、推理小説やミステリ作品と異なって、伏線を方々に複雑に張り巡らせたとしても、何か事件や問題を解決するわけでもないので、律儀に全部を回収しようとしなくても良いでしょう。

場合によっては、迂回するようにしてまた来た道に戻ることも、選択肢のひとつに数えて構わないと思います。

それでも「物語」としては"続いていく"ことに何ら変わりはなく、その時々で興味や関心を持って取り組んできたいくつかのことが、進んでいくうちに突如として"点と点が結びつく"のであれば、それはまた望外の嬉しさになる気がします。

このように、何が起こるのかわからないことを好意的にとらえるならば、これまでがどうであったかよりも、これからがどうあってほしいのか、自分の内なる声を聞くようにしてひたむきに進んでいく、ただそれだけで十分なのだと思います。

自分が今どこにいるのかを、時間や場所の地点として俯瞰的に知る(マッピング)することも必要なことでしょうが、進む道が変われば、当然これまでのことも意味づけは変化していくのだから、結局は敢然と進んでいってこそ、また何かがはじまっていくのでしょう。

そのような意味では、野球のバッターボックスに立たないことにはヒットを打つチャンスが訪れないように、自分の内側にそれなりの「決意」がないことには、もたらされる結果もまた望ましいものにはならない気がします。

私は、普段から見聞きしたものの多くを言葉に置き換えておくような習慣があって、それはひとつの癖でもあるのだけれど、その都度思ったことや考えたことも含めたあれこれを、基本的にはブログに書きつけるようにしています。

自分の視点や観点を明らかにするというのもありますが、「忘れないため」というのが大きい理由であるような気がして、長く続けていると結構な分量になってくるものです。

ほとんど振り返って目を通すようなことはしないけれど、内容としても記憶としても残っていることも決して少なくはなく、時として思い出すこともあります。

過去の資料(アーカイブ)のひとつとして有用ではあるけれど、時間の流れにおいて足枷になることも時としてあるのではないか、そのような考えが頭をもたげる場合もないわけではありません。

ある程度は参考にするとしても、これからの見立てや展望を考える時に「あの時はああだった、こうだった」となってしまえば、どうしてもそこに基づいていくために、ある意味では過去に引っ張られているとも言えるでしょう。

記憶と想像が"今の時点で"目の前にないことで共通し、脳内での働きにおいても似ていると考えるならば、この場合では、過去と未来との比重では過去の方に大きく傾いている状態であることは明らかです。

きっと、たくさん書き残しているけれど、振り返るように見るのではなく、吐き出したらそれで終わりと考えるようにして、いつの間にか置き忘れるくらいで良さそうです。

なぜならば、想像できない限りは実際にもそうなっていかないわけで、次に進むために頭の中を定期的に空っぽにするような作業ととらえ、気持ちの余裕や想像するための余白を随時確保していくことになります。

そこでは、過去の意味づけを変え得るような、意味の可塑性なんてそんなものまで気にする必要はなくて、ただ流れるままに任せるだけで良いのかもしれません。

大量のインプットもアウトプットも、息を吸って吐いての繰り返しのようなものですし、吐いた息の行方をわざわざ追うことをしないように、書き出したものに対してもやたら未練を抱く必要はなさそうです。

私の前を多くの人が通り過ぎていったように、私もまた誰かの前を通り過ぎていっただけなのかもしれない。

それでも、私は今、ここにいる。

長く思考をつなぎ合わせて、どうにか新たな物語を付与しようと試みてきたけれど、もしかすると付与すること自体が重要なのではなくて、付与しようと試みること自体がすでに良いことなのかもしれません。

何となく片づかない気持ちになるかもしれませんが、たとえば、電話の受話器を持ち上げてみたものの、誰にかけて何を話そうか、アイディアが輪郭を持って浮かんでこなくても、かけようとしていたこと自体が妥当な判断であり、適切な反応でもあったということなのでしょう。

たとえ思いあぐねていたとしても、それは物事にしっかり対峙している表れであって、決して目を逸らさなかったことの裏返しでもある気がします。

そして、実際のところでは、これまでに言ってきたことや行ってきたことのそれなりが、届く人には(いくらか)届いていたし、何らか実を結んでいたということで、決して少ないどころか大いに意味があったとも言えそうです。

求めてしまえばキリがないように、自分自身が「こういう人に会いたい」と考え、実際に出会うことを求めていくかもしれませんが、「あなた(のような人)に会いたかった」と、自分のことを求めていた人と出会えることは、きっと後者の方が"喜び"の度合いが大きいように思います。

自分の欲求を優先して満たしていくのではなく、誰かの満足に応えることが結果として自分も満たされることがどうやらコトの真理であるように思います。

そして、ここがわかるためには人としての陶冶や涵養が、相当に必要である気がします。

また、視野が狭まって、気持ちも萎縮してしまうとか、自分のことばかり考えてしまっていては、これまでのことが今に続いてい"ない"、これからのことが決まってい"ない"などと、「ない」ことばかりに目を向けてしまいがちになって、今「ある」ことの"ありがたみ"でさえも、十分に受け取れなくなってしまいます。

この世に命を授かり、誰もがその人なりの「お役目」を持っているとして、英語でいわゆる"天職"のことを(いささか話を簡単にしつつ)"CALLING"と言い表すように、それはあくまで"呼ばれる"ものと考えることができます。

自分で無我夢中にやっていることや、力むようにやるようなことが、自分の思うような力量や技量になっていないことも、また、思うような結果や成果になっていないこともあるかもしれません。

昨今言われる"やりがい"や"生きがい"みたいなものは、あくまで自分の主観の問題であるし、どこで満足するようなわかりやすい指標があるわけでもなく、きっとどこまでも手の届かない先にあるような気がします。

しかし、自分の普段から当たり前にやっているようなことであっても、誰かにとって大いに助けになっている場合、そこでのあなた自身の存在は"かけがえのない"ものになっていると言えるでしょう。

顔の構造として、自分の顔を自分の目で直接見ることができないように、自分の存在の際立ちや貴重さは他の人によって知らされるものです。

何が得意だとか、何が有利だとかにとらわれないことの方が、かえって物事は円滑に進むという場合が実際にはあるものです。

そのために、自分が今できることを精一杯やっておくことは、そういうことに気づくキッカケにもなるので、決して手を緩めるわけではないことを付記しておきます。

人は、誰しも時間的な存在であるとして、望みがあるかどうかとは別のところで、やはり前に進んで行く存在であると言えそうです。

それは、現実的な距離を前に行くことであるし、遡行のできない時間においても同様であって、とにかく"前に進むこと"のひとつの隠喩でもあるわけです。

そして、ここに別の切り口を重ねてみるとすれば、私自身の存在が、肉体的であるのか精神的であるのかで言えば、半々であるよりかは精神的な方が多くを占めているような気がします。

放っておけば精神的な存在に傾いてしまいがちな私にとって、時々は走ったり筋肉に刺激を与えたり、さらには、呼吸も組み合わせてみたりして、どうにかバランスを保っているようなところがあるかもしれません。

そして、多くのことに直面しながらも、どうにか前に進むでしかないではないかと自分を奮い立たせ、最終的には思いをまた新たにするわけです。

もしもこれまでの経験が、白銀色のスプーンにすくい取られた蜂蜜のように、すでに黄金色を放っているのだとしたら、今後はより輝きを増すようにしていくのか、または新たな経験を得るようにしていくかのいずれかで、そこに終始するような気がします。

つまり、これまで過ごしてきた日々が決して無駄ではなくて、今、ここに私がいること自体が素晴らしいのかもしれない、そのようにも受け取れるわけです。

それはまた、その時点で貴重なことに気がつくのであれば、実に"ありがたい"ということなのでしょう。

前述のように、何をどうしたら良いかわからないような時には、一方では何をどうしても良いように、必ずしも自分本位ではないところで、何をどう解釈しても構わない、そう言えるような気もします。

そうして見出された(すでにそこにあったような)素晴らしさが、これからはじまる日々を祝福し、より多くの期待に満ちるものであるようにエールを送っているのであれば、できることはただひとつ、それを大きく上回るように応えていくだけになります。

それもその通りのことで、今年は特に①たずきの道、②本を出す、③法悦の至りの3本立ての目標を掲げながら、究極的には「掬する人」でありたいと願う私は、きっともっと良くなっていきます。

それは、あるいは"sentinel"であり、"unsung hero"なのかもしれないけれど、これはまたの機会に取り上げたいものとして、とにかく私は私であることを選び続けたいと思います。

もう少し具体的には、向かうべき方向にカバン(=「浪漫飛行」のトランク)を置くべく、その方向を見定めることもするし、一方では野放図と言えるほどに自由に想像をふくらましてもいきます。

そんなことは"ありえない"と思うこと自体が"ありえない"わけで、それならむしろ"ありえない"くらいのスケールで夢や希望を描いても構わないでしょう。

やがて"ありえない"ほどに何かに行き着いたような時であっても、さらなる続きを見出して、きわめて愉快に日々を過ごしていきたいものです。

何事もすべて、"アーライッ(ALL RIGHT)"に導かれるままに、案ずるより産むがYASU SEA、ここまで読み通したあなたもまた、日々にとびきり良きものが訪れますよう、心より願っております☆

 

 

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