SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Category: DAILY LIFE (page 1 of 134)

折衷案を採る

 

「ありがとう」という言葉は良い言葉だから、たくさん言うと良い、良いことが多くありますよというとらえ方があります。

言えば言うほどに良くなるのであれば、言わないよりかは言った方が断然良い、そのように思ってできるだけ多く言うようにしていました。

ただ、これには考え方の"からくり"があるようで、たくさん言っているだけでは心からのありがたみが薄れてしまうだけに、数はむしろ少なく、心からの「ありがとう」を言うようにしましょうという意見がありました。

なるほど、先に「ありがとう」と言うことで次第に心を伴わせるというよりかは、心から湧き上がってこそ「ありがとう」と言うのが良いということなのでしょう。

この、どちらの理にかなっているように思いますし、個人的には気持ちや心がそれほどでなくても、実際に「ありがとう」を言うのに勝るものはないなという気がしています。

この、たくさん言うのか、心を大切にするのかということで、どこか二者択一の様相を呈してくるように思ってしまいます。

どちらも選べないというのを優柔不断としたくないために、どうしたら良いのか、こういうのを欲張ってみるもので、両者の良いところを抜き出してしまうのが良いように思います。

きっと先に「ありがとう」を言うのは、たくさん言っているうちに心がそれに伴ってくるわけで、少しずつでも心を込めていくようでなければいけないわけです。

ただ言うのみにあらず、言っていくうちに心からのありがたみが湧き上がってくる、そのためには何回も言うしかないといった具合でしょう。

イメージとしては硬いものをゆらゆら揺らして、多く長く揺らしていくうちに柔らかくなってくるようなことかもしれません。

また、心を込めて「ありがとう」という場合には、普段の何割か増し、だいぶ誇張するくらいで良いのかもしれません。

それだけ念入りに気持ちが入っている「ありがとう」は、相手にもしっかり届くであろうから良いように思います。

この発想自体、カツを食べたい、ごはんも食べたいと言っているうちに「カツ丼」にすれば解決するようなことで、それほど無理があるわけではないはずです。

「ありがとう」は多く言う、言うにしても心伴わせ気持ち込める、それを成り立たせながら今後も実践を続けていきたいものです☆

 

*シェアはこちらから*

光の反射するように

 

自分の普段の行いがどうであるのか、個人において省みる人は多いのでしょうか、少ないのでしょうか。

これがまた、個人においてだけでなく、地域や国家のような規模の集団においてどうであるか、それを考えるところまで行き着く人はきっと少ないように思います。

これは、品行方正が好ましいということもありますが、自分の普段の行いがどのような影響を及ぼすのかについて想像を巡らしてみることも、時に多くの気づきがあるのではないかということを言いたいわけです。

自分においても完璧ではないことを自覚しながら、外に出かければなかなか眉をひそめてしまうとか、それってどうなのと思う言動をする人をそれなりに見かけるものです。

自分の埒外にあるような場合では、腫れ物に触るようにどころか、一切関与しないように忌避するわけですが、これがあまりに多いようでは集団としてのモラル(倫理)が破綻してしまうようで、それはまた避けておきたい事柄です。

たとえば、それはまだ発達段階にある子どもたち若者たちにも無関係ではなく、価値判断において脆弱な傾向にあるだけに、むしろ多大な影響を受けてしまうように思います。

そこに責任を多く求めるわけではなく、今の大人のつくった社会や生活の反映が、子どもたちや若者に現れているわけで、大人たちがあまりにもそこに無自覚でいるというのは、どうにかして戒めておきたいものです。

生物学的に自分の子どもというだけでなく、次の世代に向けて何を残せるのか、また、何を引き継げるのかというのは、何かの機会を設けて声高に何かを教え諭すようなことではない気がします。

それよりも普段の立ち居振る舞いをどうしていくのか、そこに注力するのが良いような気がします。

ゴミを道端に捨てない、人の迷惑となるようなことをしないなど、細かく挙げればキリがないわけですが、自分のされて困ることは誰に対してもするものではないことは自明であるように思います。

自分がどういう立場の人であろうとも、良いこともそうでないことも結構見られていますよと、そっと耳打ちしたい気分でいます。

自分の利益ばかり追っているようではかえって大きなものは巡っては来ないものですし、経済的な景気や国家の機運みたいなところも、こういうひとりひとりの言動が関わっているように思います。

たとえそうでないとしても、丁寧に生きていくというのはひとつのモラル(倫理)ある姿勢であるように思うものです☆

 

*シェアはこちらから*

メッセージの宛先

 

誰かに何かを伝えよう、届けようとして、多くの場合、言葉に声に乗せて何かしらを言うわけですが、受け取る側がどうであるかと同様かそれ以上に、発信する側の配慮もまた大切だなと思います。

たとえば、心からの贈り物をする場合、中身を何にするか考えることからはじまり、包装の仕方、渡すタイミングなど、できるだけ喜びが大きくなるように考えるものです。

それをぞんざいにしたところで、受け取る側としても素直に喜べないし、それをもって贈る側が腹を立てても、物事の順序が異なろうというわけです。

いくら素直に言うのだとしても、言葉選びが迂闊・軽率であると違和感を感じてしまうように、自分で良かれと思っても、受け取る側がどう思うのか、それもまた考慮しておきたい項目です。

わざわざ違和感を感じたい人がいないように、また、わざわざ不快な思いをしたい人がいないように、災いや困難に飛び込むことはほとんどないわけです。

自分で注意するのみにあらず、そういうものを投げかけようとする人に近づくことはないし、関わることもきっとないようにするでしょう。

自分自身においては、言葉遣いやそれにまつわるところでは、普段からだいぶ注意深く意識を傾けているので、もしも相手に対しての敬意や工夫が感じられない場合、自分自身はそれを受け取らない、自分自身へのメッセージとして受け取ることはしないでしょう。

やたら恭しくするわけでもないし、やたらへりくだるわけでもない、ただ何かを贈るにしてもそれなりのマナーや礼儀があるのではないでしょうか、そういうことを述べていきたいわけです。

それがひとつ、敬意としてあるのだから、それなりに表してみるのが良いのではないか、頭の片隅にでも置いておくと良いと思います。

きっと、自分の言葉が相手に届かない、どうにも上手にやり取りができていない場合、相手の器量や采配をあれこれ言うのではなく、自分自身は適切に振る舞えているのか、それを省みるのが良さそうです。

あるいは、相手が思わず受け取りたくなる、これは自分へのメッセージだと思ってもらえるように、配慮と工夫を怠らないことが大切だとも言えるわけです。

そういうステキなメッセージは多くあるものですし、見つけてもいきたい、自分自身も多く発信していきたい、そういう思いを持つことからはじめていきましょう☆

 

*シェアはこちらから*
Older posts

© 2019 SOBAJIMA YASUSHI

Theme by Anders NorenUp ↑

Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial