SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Author: Sobajima Yasushi (page 2 of 101)

届けるために必要なこと

 

たとえば、自分のつくった料理を誰かが食べて、率直に「おいしい」と言ってもらった場合、その言ってもらって嬉しく思った気持ちは、ずっと忘れてはいけないと思います。

それは、誰かに愛を告げて受け入れられることに似ているのでしょうか、自分の発した言葉や行為があって、相手の好意的な反応が返ってくることの喜びは、何にも代えがたいものかもしれません。

普段の生活においても、自分の気持ちを素直に伝えたり、思う通りに行動したりすることはあると思います。

そういう素直さや実直さは良いものですが、その一方で、しかるべきマナーやルールはあるものです。

今日は暑いから何も着ないで過ごそうとか、お腹が空いたからといって店先にあるパンを取って食べるようなことはしないように、相応の「節度」は保っておく必要があります。

誰かに迷惑をかける向きでなく、多くの人それぞれに喜びの多いようにしていくのが、発想のひとつとして持っておくと良いものです。

それがまた、その時はそうでなくても、後々にはかえって自分のためになるということも考えられます。

自分自身においては、日頃の思うこと・感じることを文章にして書き連ねていくことが、趣味というか、取り組んでいくことのひとつとしてあります。

ひたすら言葉を並べていくような時に、少なくとも自分自身に意味が通ればそれで構わないわけですが、誰か奇特な人が目を通すようであっても、何かしら届くことがあってほしいし、それなりに有用であってほしいとも思っています。

読む手間も時間もかかることですし、せっかくであれば「読んで良かった」と思ってもらえるためには、決して支離滅裂でないように、せめて文章としての体裁は整えておくということが必要です。

それが、客人を家に招く時に行うようなマナーのようなもので、掃除を済ませ、スリッパを用意する、お茶とお菓子も準備しておくように、句読点のあるなし、段落分け、語句や修辞の確認など、広く目を行き届かせておくべきだなと思います。

内容としてどうということもありますが、その是非を問う前に、無理なく読めるようにしておくということが最低限のことではないでしょうか。

きっと、そのようにして読みやすいとか読み応えがあるような文章は、内容においても理路が通っていることでしょうし、楽しく読み進めることができるように思います。

それらは相互に連動しているはずのものですから、それぞれに研鑽を重ねていくことで、より多くの人の、より心の深いところにまで自分の文章が届けることができるでしょう。

そういう気持ちを持って、日々文章を書き連ねていきたい次第です☆

 

 

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紫煙をくゆらす

 

自分自身にそういう習慣がないのもあって、解せないとか不可解というよりかは、単純に理解の埒外にあるなという感覚。

最近は、タバコの喫煙にまつわる議論や取り組みが多くあって、吸う人より吸わない人の意見や主張が強くなっているような気がします。

タバコ自体の有害性ももちろんありますが、それを含めた喫煙の是非について、今一度考えられる機会が多くなっているということなのかもしれません。

たとえば、会社において、タバコを吸うのにあてられる時間を、それを休憩時間に含めるのか勤務時間の一部にするのかどうか、これもまたひとつであるでしょう。

ゴハンを食べることやトイレに立つのは、大半の人にあてはまることなので合意を取りやすいことに比べ、タバコは嗜好品でもあるので、おおむねであってもまとまりにくいということが考えられます。

それが、一日に数本程度、一回あたり5分くらいなら、屋外に行って伸びをしたり、深呼吸もしたりして、気持ちをリフレッシュすることに似ているので、仕事の効率にとっても好ましいかもしれません。

しかし、これが10本を越えるとか、一回行ったらしばらく戻ってこないということであれば、周囲の人で「むむっ?」と思う人がいても無理はないところでしょう。

人によってもそうですし、自分にとっては、こういうことは思いの外気になってしまうことのひとつになります。

実際には誰かと一緒にいて、立ち話ながら重要な話をしているのかもしれませんが、果たしてどうなんでしょうと思うことはやむを得ないものです。

ちなみに、かしこまって会議をすることも大切ですが、ざっくばらんに話す時にも良いアイディアが出てくるようなので、立ち話や雑談も有効な方法のいくつかなのはあります。

だから、頭ごなしに良くないことだなんて言えないところに、少しもどかしさを感じるのはこういう理由もあるからなのでしょう。

これも、おそらく程度の問題なのかなという気がしますが、自分の場合に引き寄せるとどういうことなのかなと考えて見ると、「(どうしても)音楽聴きたいので席外します」とか、「活字中毒なんで本読んできます」というようなことになるのかもしれません。

"食後の一服"ならぬ"食後の一曲"は、結構浸透させていきたいことのひとつですが、今回のことで取り上げるべきものかは、果たしてよくわかりません。

こういうことも、個別にとか職場全体とかで、適度にしてざっくばらんに話し合ってみるのが良さそうです。

その時は、紫煙をくゆらしながらではなくて、ミルクティーとお菓子みたいな組み合わせで話し合うのが平和かなと思います☆

 

 

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ないものを注視するとして

 

自分の中にない発想というものは、端から拒むようなものでもなくて、案外そのタイミングで取り込めるかどうかを試されているのかもしれない、そんなことを思う時があります。

美学・哲学の類として、一切外部の影響を受けないで自分を貫くのも良いけれど、それは"気づき"とか成長の機会を逸してしまっているのではないか、そのようにも考えられるものです。

それが、特に誰かと関わるようなことである場合、お互いの働きかけのひとつひとつが作用し合っていくために、発言や発想の元がどこにあるのかは、あまり関係がなくなってくるということも言えるかもしれません。

良いものは即座に取り入れるし、より良いところを目指していくような、そういう心意気が感じられるのであれば、細かいことを気にしすぎない方が賢明なのでしょう。

そういうバランスにおいては、自分を主張しすぎるとか固辞してばかりなのも頑迷な感じがするし、だからといって迎合しすぎなのも自分の意思がないようにもなるし、このあたりの調整が結構難しいような気がします。

柳が風を受けてもしなやかであるように、自分自身はしかと地に足着けながら、その一方で、その時々に合わせて柔軟に対応できるというのが、上手な振る舞い方なのかもしれません。

あるいは、自分の庭のような、一定の範囲や領域は保っておきながら、そこに収まっている/収まっていないことを知り、新たに加えるとか、手持ちを放出するのでも良さそうに思います。

おそらく、普段から自分はこういう考え方を(基本的には)しているとか、振る舞いや態度においての傾向や特徴を持っているとか、自分の中の"ある/なし"を見極めておくことが必要になっているのでしょう。

自分が何を持っていて何を持っていないのか、それを知らないでいるばかりでは、新しいことも知りようがないものですし、取り入れるかどうかの判別もできないことになるものです。

息を吸って吐くように、いつも同じというばかりではなく、少しずつ変化もつけていく、繰り返しのようでそうでないような、絶妙なさじ加減ができたら良いのかもしれません。

よく言われるように、"変えるものは変える、変えないものは変えない"、それだって絶対的な特定のルールがあるわけではありません。

そうやって行ったり来たり、右往左往しながら自分の行動や思考の範囲が自然に収まってくるのでしょうから、いつも「ない」ことに一喜一憂することはないのだなと思います☆

 

 

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