SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Author: Sobajima Yasushi (page 1 of 138)

折衷案を採る

 

「ありがとう」という言葉は良い言葉だから、たくさん言うと良い、良いことが多くありますよというとらえ方があります。

言えば言うほどに良くなるのであれば、言わないよりかは言った方が断然良い、そのように思ってできるだけ多く言うようにしていました。

ただ、これには考え方の"からくり"があるようで、たくさん言っているだけでは心からのありがたみが薄れてしまうだけに、数はむしろ少なく、心からの「ありがとう」を言うようにしましょうという意見がありました。

なるほど、先に「ありがとう」と言うことで次第に心を伴わせるというよりかは、心から湧き上がってこそ「ありがとう」と言うのが良いということなのでしょう。

この、どちらの理にかなっているように思いますし、個人的には気持ちや心がそれほどでなくても、実際に「ありがとう」を言うのに勝るものはないなという気がしています。

この、たくさん言うのか、心を大切にするのかということで、どこか二者択一の様相を呈してくるように思ってしまいます。

どちらも選べないというのを優柔不断としたくないために、どうしたら良いのか、こういうのを欲張ってみるもので、両者の良いところを抜き出してしまうのが良いように思います。

きっと先に「ありがとう」を言うのは、たくさん言っているうちに心がそれに伴ってくるわけで、少しずつでも心を込めていくようでなければいけないわけです。

ただ言うのみにあらず、言っていくうちに心からのありがたみが湧き上がってくる、そのためには何回も言うしかないといった具合でしょう。

イメージとしては硬いものをゆらゆら揺らして、多く長く揺らしていくうちに柔らかくなってくるようなことかもしれません。

また、心を込めて「ありがとう」という場合には、普段の何割か増し、だいぶ誇張するくらいで良いのかもしれません。

それだけ念入りに気持ちが入っている「ありがとう」は、相手にもしっかり届くであろうから良いように思います。

この発想自体、カツを食べたい、ごはんも食べたいと言っているうちに「カツ丼」にすれば解決するようなことで、それほど無理があるわけではないはずです。

「ありがとう」は多く言う、言うにしても心伴わせ気持ち込める、それを成り立たせながら今後も実践を続けていきたいものです☆

 

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光の反射するように

 

自分の普段の行いがどうであるのか、個人において省みる人は多いのでしょうか、少ないのでしょうか。

これがまた、個人においてだけでなく、地域や国家のような規模の集団においてどうであるか、それを考えるところまで行き着く人はきっと少ないように思います。

これは、品行方正が好ましいということもありますが、自分の普段の行いがどのような影響を及ぼすのかについて想像を巡らしてみることも、時に多くの気づきがあるのではないかということを言いたいわけです。

自分においても完璧ではないことを自覚しながら、外に出かければなかなか眉をひそめてしまうとか、それってどうなのと思う言動をする人をそれなりに見かけるものです。

自分の埒外にあるような場合では、腫れ物に触るようにどころか、一切関与しないように忌避するわけですが、これがあまりに多いようでは集団としてのモラル(倫理)が破綻してしまうようで、それはまた避けておきたい事柄です。

たとえば、それはまだ発達段階にある子どもたち若者たちにも無関係ではなく、価値判断において脆弱な傾向にあるだけに、むしろ多大な影響を受けてしまうように思います。

そこに責任を多く求めるわけではなく、今の大人のつくった社会や生活の反映が、子どもたちや若者に現れているわけで、大人たちがあまりにもそこに無自覚でいるというのは、どうにかして戒めておきたいものです。

生物学的に自分の子どもというだけでなく、次の世代に向けて何を残せるのか、また、何を引き継げるのかというのは、何かの機会を設けて声高に何かを教え諭すようなことではない気がします。

それよりも普段の立ち居振る舞いをどうしていくのか、そこに注力するのが良いような気がします。

ゴミを道端に捨てない、人の迷惑となるようなことをしないなど、細かく挙げればキリがないわけですが、自分のされて困ることは誰に対してもするものではないことは自明であるように思います。

自分がどういう立場の人であろうとも、良いこともそうでないことも結構見られていますよと、そっと耳打ちしたい気分でいます。

自分の利益ばかり追っているようではかえって大きなものは巡っては来ないものですし、経済的な景気や国家の機運みたいなところも、こういうひとりひとりの言動が関わっているように思います。

たとえそうでないとしても、丁寧に生きていくというのはひとつのモラル(倫理)ある姿勢であるように思うものです☆

 

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市井の英雄<保存用>

 

「さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、四谷、赤坂、麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水ゥ~」

間もなく元号が変わろうかという頃合いの今、単に言いたいだけ&推していきたい"魔暦"では今年は21年、そして、4月19日の本日は私の生まれ出づる日であって、これはささやかに言祝ぐ所存でございます。

自らがささやかに言祝ぐものだけに、日頃ご愛顧いただいている皆様におかれましては、深く深く感謝を申し上げるばかり、それをもって速やかに切り上げるのも一思案ではありますが、それも何だか味気ない気もするもので、何かしら展開していけたら良いなと思います。

今の状況では、事情がいくらか錯綜しているために、わりとゴニョゴニョと言葉や表現を濁すところがあって、さてどう表したものかなと思いながら、どうにかこうにか話を進めていきたいと思います。

それでなくても、普段より思うことの仔細をあまり言わず、それゆえに何を考えているのかわからないという事態に、自ら陥ることさえあります。

これは、自分自身はどうしても"通り過ぎる者"としての側面が強いあまり、何でも思う通り話せば良いというものでないと考えているフシがあります。

絶えず"飛ぶ鳥あとを濁さず"に行くのもありますし、普段より多くの人が思っているであろうことと、自分自身の思っていることでは結構隔たりがあるような気がします。

あらゆる物事に本質があるとして、どれくらいの人がそこにタッチできているのか、あるいは、タッチするに向かっているのか、いくらかのやり取りで判断を下すことは難しいのではないでしょうか。

たとえば、自分自身では掘り下げて考えるのが好きなタチで、これは垂直方向に思考や感情を向けることで、できる限りとことん追求していきたいものです。

そうではなくて、何となく興味をそそられるものを片っぱしから知るとか、楽しいということに重きをおいて多くの表面をなぞるというのは、どちらかというと水平方向の動きになるのではないでしょうか。

氷の上をスケートで滑る場合、氷の下に何があるのかだなんて気に留めることがほとんどないように、スケートを楽しむ場合ではあまり考慮する事柄ではないでしょう。

それこそ、スケート場で、スコップかザイルかで氷を砕いて穴を掘っている人がいたら、それは"邪魔"であり"危ない"ということになります。

自分自身においては、滑ることより穴を掘って氷の下を調べたい、その後は元に戻して別のところを探り当てることをする、一方では、滑らかにスケートを楽しみたいという人がいる。

これは、どちらが優れているとか正しいということではなく、ただ志向の差異があるだけ、時には相容れないこともあるでしょうし、もしかしたら相容れないことの方が多いかもしれません。

感覚的には、ごはんが好きなのかパンが好きなのか、どちらも食べるけれど、どちらかがより好きだというようなことのようにも思います。

そうであるしても、同じところにいるにも関わらず、それぞれが何を思っているかで何をするかが変わってくるというのは、まことに興味深いことのように思います。

ただ、自分の強みが"通り過ぎる"ことそれ自体にあるのだとしたら、あちこちに移りながらしていれば、そこから立ち上がる何かが生じることもあるはずです。

それがかなうのであれば、何を求めることもなく、かつ、すでに手にしているものは多いはずで、それで十分であるように思います。

その場合では、具体的に穴を掘ることをしなくても、志向として穴を掘ることを思っているだけで、周囲に何らかの示唆をもたらすことができるのかもしれません。

あるいは、穴を掘っては埋める、また掘っては埋める、確かに元のようにするけれど、そこには掘って埋めた痕跡だか雰囲気だかを見て取れることもあるわけです。

自分の本分としては、あちらからこちらへと通り過ぎた後に巻き起こる小さなつむじ風のように、見えないけれど感じることができる、そんな何かをほのめかせたら良いのかもしれません。

決して邪魔はしないし危ないこともしないですが、あの人何だろうと思われながらも、しっかり物事の本質に行き着くようでありたいものです。

どこか煙に巻くようにして、サラサラ流れる水のように、あの人何だろうと思われるくらいが、自分のやりたいことをやれるというのはある気がします。

どうにもこのあたりは一筋縄ではいかない、自分の生来のクセ(=ネイチャー)だなと思う次第です。

たとえば、いきなり自分の主張を繰り広げるにしても、どういう考えの向きで、どれくらい考えているのかを明らかにする必要があります。

言いたいことを言うためには、前提となるところまで行き着くことが必要ですし、そこから何が積み上がって今に至っているのか、それをお知らせすることも大切なところです。

「今のあなたのご専門・立場はどういうものでいらっしゃるの?」と奇特にも尋ねていただける場合、率直に言えば「"目合研究家"です!」と申し上げたいものです。

会って間もない場合もそうですし、相応に過ごす時間が多くなっている場合においても、率直に言うことがあらゆる齟齬や誤謬を交えることなく伝わるかと言えば、きっとそうでないことの方が多い気がします。

「目合」とは?これは至言してしまえば"目を見る"ことに尽きるわけですが、その真髄を余すことなく知るためには、あちらへ行き、こちらへ行きと方々を遍く巡って、ようやくひと言で言えるということになります。

普段の生活においては、こういう話が合う状況や場合が少ないため、波風の立たない方、よりやり過ごす方を選んでしまうのはどうにもやるせなくも思うところです。

そのためには、飄々としてあまり話さない、差し障りなく笑みを浮かべておくのも良いですし、実相とは少し異なる印象を与えるようにして、どうにかこうにか溶け込むと良いものです。

何より大切なことは、自分で知ること、そして、それを実践していくことにあるのだから、何だかんだと考慮してしまうようではどうにもならないものだ、そんな思いを強くするばかりです。

肩書きですらも特段用意するものではなく、実践のうちにいかに取り組んでいくのか、それに限ることでしょう。

できることであれば、小林正観さんや代々木忠監督の知見に触れてもらいたいし、こういう叡智はより多くの人に伝わるようでありたいと願うものです。

他の人の言説にしても、しっかりと本質をとらえているようであれば、地球のどこから掘り下げてもマントルに向かっていけるように、しっかり耳を傾けてみるのも良いと思います。

これがひとつ、走ることの素晴らしさを思うにしても、走ってみないことには、どこにも辿り着けないのであって、それは自らはじめるものでもあるわけです。

走って汗をかく、息が上がって気持ちもスッキリとするものですが、やがて記録や距離のようなところで目標を打ち立てるようなことがあるでしょう。

一度にどれくらいの距離をどれくらいの早さで走るのか、また、月間とか期間にしてどれくらい走るのかという切り口があります。

それもまたひとつの見えるカタチとして良いと思う一方で、今を生きることを強く思うのであれば、どこに行き着くわけでもなく、どこに向かっているわけでもない、"今、ここ"で走っている自分を大切に思う、それで十分ではないかという思いもあります。

たくさん走れるというのは体力・持久力において素晴らしいものですが、それだけでは測れないものもあるし、そういうところにもいくらかの敬意を払っておくのが賢明というものです。

そして、どれくらい走っただとか、どれくらい早いだとかを公言するのみにあらず、いつも足を動かして走っているようでありたいものです。

それがまた、実践のうちに生きる"通り過ぎる者"として、軽やかに駆け抜けるのはひとつの表し方かもしれないからです。

人に会う、誰かと出会うというのは、自分からも会いに行かないと、お互い会いたい人に会えないというのはあるものです。

特段主張するような何かはないけれど、話してみないことには「気が合う」こともわからないので、それなりに会話の糸口を探ることはする必要があります。

一方的に話すばかりでなく、一方的に聞くばかりでもない、どちらも担いながらも、どちらかと言えば自分自身は聞く方が多いようでありたいものです。

耳のたぶのところを「垂珠(すいじゅ)」と言うのですが、ここのふくらみ具合と聞く度合いが同じようであるというとらえ方があります。

話し手・聞き手という関係のみにあらず、いかにしっかりと聞いているのか、それが垂珠の大きさに関わるようです。

音声として耳という器官に入るとしても、心でそれを受け取ったり理解したりするのとはいくらか様子が異なるために、単純に比率で測れるようなものではないのでしょう。

何が引き出されるかは、何を引き出せるのか、そういう相互の関係において成り立つものであるわけで、今はインタビューの何たるかの要諦がつかめれば、自分自身がまた別の境地に立てる、そんな予感がするものです。

このあたりを行き来して考えていくと、自分が会いたい人というのは、視点を変えれば、自分のなりたい人であるということも言える気がします。

だから、「気が合う」というのは、同じような思いを持っていたり、目指すものが似ていたりすることを含んでいるのでしょう。

今回は、何をどう話そうとそれほど多くは展開しないつもりなので、早くも収束に向かっています。

もう少し踏ん張ってみて、ちょっと先取りの発想を取り入れてみれば、腹のよじれるほどに笑っていたいと申し上げておきましょう。

加えて、夏頃を目処に"何か新しいこと"がはじまるように、鋭意取り組むといった具合です。

行雲流水、何がどうだろうがどうでも良いという気持ちでいれば、空に浮かぶ雲、川を流れる水であるように、そっと行き過ぎれば良いのでしょう。

きっと、何を思うでもなく、何を憂うでもない、そうやって日々の目の前のことに専心していれば、自分の進む道は自ずと続いていくものです。

そのためには抗うことはしないで、流れに身を任せる、それがまさに水の流れるごとしという境地なのでしょう。

ひとところに滞れば水は淀むばかり、流れにあってこそ水も本来の力を発揮するのであれば、これがまた、”通り過ぎる者"としての本領としても理に適っているはずです。

そこに関連してみると、水は流れるようにあるために、一見するとその実態をつかみにくいものですが、両の手を合わせて掬ってみれば、そこにいくらかの水を湛えることができるものです。

それは、どのようにして掬うのか、掬い手の工夫によって成り立つもので、指の間をすり抜けるからといって水の性質に難癖をつけることはしないはずです。

実態をつかみにくい、わけがわからないとしたところで、そのわからなさ具合は一貫しているために、何らか掬するだけの手立てはあるということになります。

そういうことの仔細すら脇に置いて、起こることの多く、出会う人の多くを諾い、肯んじることができれば、個人的にしたいことはほぼ達成ということになります。

今後も一層、無理はしないで緩やかに、楽をするわけではなくて楽しいままに、そして、流れのままにひたすらに行くばかりです。

ともあれ、自分を含め、どなたにおかれましても健勝にお過ごしいただければありがたく思いますので、何かの折にお目にかかるようであれば、そこはかとなくお導きいただければ甚だ幸いでございます☆

 

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