SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Author: Sobajima Yasushi (page 1 of 100)

やせ我慢も時に必要

 

急に暑くなってくると、(適度に効いている)建物や電車の中での冷房のありがたさを、言葉にするまでもなく強く覚えるものです。

そして、その涼しさにしばし身を任せていると、それがいかに効いているものだとしても、当然冬の寒さとは異なるし、果たして秋口の肌寒さ、冬の寒さとはどんなものだったかなと、季節の移り変わりの裏表として少し遠いものとして感じてしまいます。

今は夏、夏ともなれば、着るものも身軽になっていく=薄着になっていくわけで、汗を吸うとか、風通しの良いとか、そういう機能的なところに視点を置くとともに、カラダのラインが出るとか、露出が多くなるということに対して、いくらかの配慮もまた必要になってきます。

これは、女性に多くあるように思いますし、男性の場合で考えてみるには、あまりさわやかな例を挙げにくいというようにも思うものです。

たとえば、薄手のTシャツ・カットソーでは下着が透けてみえるもので、あえてやっているのかもしれませんが、できれば見えない方が好ましく思います。

その見えている肩ひもは、見えて良いものなのか否か・・・。

そのためには、上に着ているものと同系色にするとか、もう一枚キャミソールかタンクトップを着るとかする必要はあるでしょう。

このように、下着の線やそのものが見えるのはセクシーなのかもしれませんが、それが見えないようにもう一枚キャミソールやタンクトップを着るような心意気、それがスカートや薄手のズボンであれば、短いスパッツかタイツを履くような感じになります。

"汗っかき"な自分自身としては、重ね着をする方を選ぶし、サイズにしてもあまりムチムチ・ピチピチしないようにいくらかは気を配っているものです。

それがそのまま、女性のファッションの好みにも通じていくわけですが、肌を多く露出するのか、覆うところが多いのかで言えば、覆うところが多く&ややタイトに着ているほうが色気を多く感じるものです。

カラダのラインを強調しすぎるのもどうかと思いますし、また、多く肌が出ているから/タイトに着ているから良いというものでもなく、誰がそういう格好をしているしてのかというのも大切になってきます。

極端な例で言えば、過度に体重が多い/少ないようでは、いくら裸に近いような格好であっても、あまり見映えはしないことからもわかるようなことです。

今年も暑い夏がやってきています、季節とファッションとの関係も見ながら、楽しく過ごすことができたら良いですね☆

 

 

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頭の中の迷路

 

別段、何かに迷っているわけではございませんが、自分の中の変化に対して、どう折り合いをつけていくか、それについては結構頭を悩ますものです。

たとえば、今進んでいる道があるとして、この道をそのまま行くのか、あるいは、別のまた道を行くのか、それをいつかは決めるタイミングがやってきます。

それは、"HOW(どうやって)"のところで対処していく問題なのか、もう少し手前の"YES/NO(はい/いいえ)"のような可否の問題なのかの差異があるように思います。

基本的なところから大きく逸れるようなことでもなく、行きつ戻りつ何かを見定めようとしているし、あるいは、自分の立つ位置、居場所をどこに定めるか、そんなことも考える必要があるということなのかもしれません。

きっと、どこに寄りかかるわけでもなく自分の意志で選び取っていく、そういう誰に対してでなく自分に対する、強めの気概が今は必要なのだなと思います。

そして、時間的にも場所・物理的にも、これらはいつも一定でなく絶えず流れていくわけですから、この世界のどこかに確固たる自分のスペースがあるわけでもなく、今はそこにいるくらいのことなのでしょう。

もう少し大きな幅で見てみると、今はそこにいる、しかし、明日は?来年は?数年後は?そんなことは予想はできても、実際にどうなるのかだなんてことは誰にもわからないものです。

昨日が来て今日が来るように、今の毎日にしてもまったく同じ繰り返しではないけれど、概ね同じようにして続けば良いなと願うことはできるでしょう。

もしもそのように願うのならそうあるようにしていくだけのこと、その途中ではまた少し考えは変わることもあるので、また対処していくだけのように思います。

望むものの細かくこだわりすぎるのも、何の差異を認めないようなことになるので、何があるかはわからない、それでも何か"良きもの"はあるだろう、そう漠然と思うくらいのことで良いのかもしれません。

だから、極端に言ってしまえば、何にとらわれることもなく、そして、何に従い過ぎることもなく、ひたすらたゆたうようにしているのが最善なのでしょう。

あとは、自分自身がどこに移り行くのか、自分の意志や行動だけでないところで、導かれるままに任せるだけです。

決して自分の考えや主張がないというようなことではなく、お天道さんなのかそれに類するものなのか、何か大きなものに見守られているという感じでしょうか。

仏教的な"諦める"ことが、"物事を明らかにする"ことであるように、そういう静かな心持ちにたどり着けるのなら、その時にわかることも多いのでしょう。

それをひとつの到達や励みとして、今日もまた歩んでいくのです☆

 

 

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届けるために必要なこと

 

たとえば、自分のつくった料理を誰かが食べて、率直に「おいしい」と言ってもらった場合、その言ってもらって嬉しく思った気持ちは、ずっと忘れてはいけないと思います。

それは、誰かに愛を告げて受け入れられることに似ているのでしょうか、自分の発した言葉や行為があって、相手の好意的な反応が返ってくることの喜びは、何にも代えがたいものかもしれません。

普段の生活においても、自分の気持ちを素直に伝えたり、思う通りに行動したりすることはあると思います。

そういう素直さや実直さは良いものですが、その一方で、しかるべきマナーやルールはあるものです。

今日は暑いから何も着ないで過ごそうとか、お腹が空いたからといって店先にあるパンを取って食べるようなことはしないように、相応の「節度」は保っておく必要があります。

誰かに迷惑をかける向きでなく、多くの人それぞれに喜びの多いようにしていくのが、発想のひとつとして持っておくと良いものです。

それがまた、その時はそうでなくても、後々にはかえって自分のためになるということも考えられます。

自分自身においては、日頃の思うこと・感じることを文章にして書き連ねていくことが、趣味というか、取り組んでいくことのひとつとしてあります。

ひたすら言葉を並べていくような時に、少なくとも自分自身に意味が通ればそれで構わないわけですが、誰か奇特な人が目を通すようであっても、何かしら届くことがあってほしいし、それなりに有用であってほしいとも思っています。

読む手間も時間もかかることですし、せっかくであれば「読んで良かった」と思ってもらえるためには、決して支離滅裂でないように、せめて文章としての体裁は整えておくということが必要です。

それが、客人を家に招く時に行うようなマナーのようなもので、掃除を済ませ、スリッパを用意する、お茶とお菓子も準備しておくように、句読点のあるなし、段落分け、語句や修辞の確認など、広く目を行き届かせておくべきだなと思います。

内容としてどうということもありますが、その是非を問う前に、無理なく読めるようにしておくということが最低限のことではないでしょうか。

きっと、そのようにして読みやすいとか読み応えがあるような文章は、内容においても理路が通っていることでしょうし、楽しく読み進めることができるように思います。

それらは相互に連動しているはずのものですから、それぞれに研鑽を重ねていくことで、より多くの人の、より心の深いところにまで自分の文章が届けることができるでしょう。

そういう気持ちを持って、日々文章を書き連ねていきたい次第です☆

 

 

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