SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Month: 11月 2020 (page 1 of 4)

大過なく過ごす

 

今年はいつもならざる事態に見舞われただけでなく、そうでなくてもいろいろなことが日々起こります。

たとえば、大雨や洪水のような自然の猛威に襲われることもあるでしょうし、道を歩いているだけでも、自動車やバイクが突っ込んでくるかもしれません。

いくら気をつけて歩いているだけでも、溝に足を引っ掛けて転んでしまうかもしれませんし、うっかりしてぬかるみに足を入れて、足元が汚れてしまうようなことなど、いくら挙げてもキリがないように思います。

そうやって考えていくと、昨日の続きが今日で、今日の続きが明日であるような、夜に寝たら無事に朝を迎えられるというのも、なかなか貴重なことではないでしょうか?

何かしら食べるものがあって、雨露しのげる家がある、それで、今日もまた生きていられるというのは、まさしく「生きているだけで丸儲け」という表現がピッタリであるように思います。

そういう当たり前のことが当たり前のように続いていると、つい忘れがちになってしまうものですが、この"大過なく過ごす"というのも、なかなか至難の業であるということを、折に触れて思い出すのが良さそうです。

心配事はつきないし、時に慎重になりすぎることもあるかもしれませんが、それは少し趣きを変えて、そういう、どうにかこうにかやっていけていることに思いを馳せつつ、それを土台としてやっていくと良い気がします。

健康に気をつけるばかりに、かえって心身の不調をもたらすようでは本末転倒であるように、そこは自分の生命力を信じながら、あくまで大きく損なわないようにすると考えるのが妥当なところでしょう。

力を出し切るには出し切るのだけれども、筋肉が肉離れを起こしたり、関節があらぬ方向にまで曲がったりしないくらいに全力を尽くすという感じです。

不眠不休で走り続けては過労で倒れてしまうように、そこは最低限の休息・休養を取るのが適しているようなことでもあります。

そうやって考えていくと、あくまで過信もせず、反対に臆病になりすぎず、しかし、自分自身や周りの人のことをいたわれるような「優しさ」があると良いなと思います。

今年も、残すところ1ヶ月と迫ってきたところで、良い感じで締めくくれるように、万事抜かりのないように取り組んでいきましょう☆

 

*シェアはこちらから*

鶏頭となれ牛後と

 

「鶏頭となるも牛後となるなかれ」という言い回しがあるように、大きな組織の後ろをついていくより、小さな組織でも先頭に立った方が良いというものがあります。

確かに、大きなものに飲み込まれて、いるのかいないかの状態でいるより、自分が先頭に立って、責任を持ってやるのが良いというのが、この真意であるように思います。

「鶏頭」が、威勢が良くて、何だか引き締まった感じがするのが良い印象をもたらしているのが大きい気がします。

そして、これの解釈を少し変えてみると、鶏頭となりながら、牛後にもいるのが良いというのもあります。

そもそも、ここでいう「牛後」が、どちらかというと"カラダが大きいばかりで、あまりぱっとしない"ということの比喩になっているようですが、大きいには大きいなりの強みがあるように思います。

以前であれば、少数精鋭と言いますか、こじんまりとしながら取り組める「鶏頭」的なものを真っ先に好んでいましたが、最近では「牛後」の意義もわかってきたということです。

これがどういうことかと言えば、たとえば、近所の市営のトレーニング・ルームでせっせと鍛えているだけでなく、猛者たちの集まる「ゴールド・ジム」に行くことで、心身ともにより強い刺激を得られるというわけです。

ここでは、「牛」的なものであるより、クマとかゴリラ、ゾウ、場合によっては恐竜など、屈強なイメージが浮かんできます。

これの両方を取り込んで考えていくと、たとえ小さな規模であっても一位を取るようにしながら、より大きな規模でも勝負を挑むようなことで、決して"お山の大将"になることなく、必死に励むことになります。

これが、ここで言うところの「ゴールド・ジム」に最初に挑むようでは、自分の非力さにかえって怯んでしまうかもしれません。

このあたりは、富士山に登りながら、それよりも低い山でも経験を積むとか、42.195kmのフルマラソンの大会にエントリーしながら、10kmくらいの市民マラソンにも出るのが良いように思います。

そういうものを全部ひっくるめて考えていくと、いつも懸命に取り組みながら、同時に自分の至らなさを知る謙虚さも持ち合わせるようであれということなのでしょう。

いろいろ含めて考えていくにつれて、「鶏頭となって」かつ「牛後でもある」というのが適切な解釈だなと、最近は強く思います☆

 

*シェアはこちらから*

手紙の効用とは

 

今はメールやらLINEなど、何かしらメッセージを送ろうと思えば楽にできるわけで、そうなると余計に手書きの手紙というものは少なくなっています。

近年では、年賀状のやり取りも少なくなってきていて、年に一度のやり取りすらしないという人も多いのではないでしょうか。

こういう手紙を書くということは、周りの誰もが手紙を書かないから古いものだとか、すでに廃れた習慣であるのでしょうか?

おそらくはそういうことでなく、むしろ、そういう過去のもの(に見える)であるがゆえに手紙を送ることの効用があるというものです。

自分が手書きで何かを書くことがほとんどないけれど、誰かからの手紙をもらって嬉しいことを思い浮かべると、新しい/古いの話ではなくて、もっと本質的なことを表しているように思います。

生活でも仕事でも、用件を伝えるだけであれば、そういう画面上に映った字面で良いのでしょうが、それならば以前でも電報という手段があったわけです。

あるいは、早く伝えようとするのであれば、電話を使えば済む話で、これは今も変わりなくあります。

それに加えて、手書きの手紙を書くということは、少し事情が異なっていて、送る相手のことをより鮮やかに思い浮かべながら、一文字ずつを書いているように思います。

そこでは、目に見えるとか耳に聞こえるメッセージの内容以上に、気持ちが乗っていて、こういうことを"ないがしろ"にしてはいけない気がします。

これは、生活においてもそうですが、仕事においても、最終的には人と人とのやり取りですから、いつも情にほだされるわけではないものの、それとなく胸に響くものはあるはずです。

街中を見ていても、手書きの看板やポスターなど、ほとんど見ることはないので、そうなると、小さな定食屋の張り紙みたいなものに安堵を覚えることすらあるものです。

今も、連絡が遠ざかっているような人の顔が浮かぶようでしたら、または、また連絡を取ってみたいと思う人がいるのならば、一度手書きの手紙を書いてみるのはいかがでしょうか?

そのためには、送り先の住所を知らなくてはいけないとは思いますが、それは周囲の協力や知り合いの知り合いなど、どうにか伝手をたどって、知ると良いかと思います。

それもまた、連絡を取る口実として、今は少し離れている人と交流を深めていただけたら幸いです☆

 

*シェアはこちらから*
Older posts

© 2021 SOBAJIMA YASUSHI

Theme by Anders NorenUp ↑

Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial