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傍島康始|ブログ

Month: 9月 2020 (page 1 of 4)

枝葉の先まで

 

自分の取り組んでいることや目指していることなど、あらかじめここが真ん中だろうというのを思い浮かべているものです。

樹木でいうところの幹から、真上の太陽までまっしぐら、そのままてっぺんまでまっすぐに伸びる枝でありたいと思って、そういう枝になろうとしていると思います。

ただ、自分がその真っ只中にいると、どこに向かっているのかはわかりにくいものであり、まっすぐとか真ん中を保てているのかも不安になってきてしまいます。

道でいうと、この道で合っているはずだと思いながら、舗装されていない道だとか、野山を行くような道が続くののかもしれません。

なかなか開けた道に行き当たらないなと思って、途中で引き返したり、進路を変えたりするようなこともあることでしょう。

実際には、それが効を奏することもあるでしょうが、そのまま進んでいるのが正解ということも多い気がします。

自分の感覚や判断で行うのも良いですが、行き止まりや道が途切れるなど、もうこれ以上は進めないところまで行くとわかることもあるでしょう。

これは、枝葉で思うとわかりやすく、どの枝がもっとも太陽に近いかはわからなく、それぞれの枝の先端までいくことによって、やがて求める枝に行き着くということです。

これを、現実的なことで考えると、思いつく限り、できる限りの精一杯を続けていくことの大切さを思うものです。

何事もやってみなくてはわからないし、やりきるからわかる、そういうことの繰り返しとも言えそうです。

どれがどうなるかわからないけれど、可能性のひとつひとつを突き詰めているから、開く可能性もあるわけですし、後になってどうのこうのと言い訳めいたことをいう余地を潰しているとも言えそうです。

当然何かに挑むからには、失敗よりかは成功を望んでいくものですが、成功の確率を上げるということの裏返しで、失敗する可能性を下げることも視野に入れておくのが良いでしょう。

むしろ、失敗の可能性を下げることに専念することによって、自分の弱点がなくなる、つまり、自分の強みしかないということになるかもしれません。

いずれにしても、自分の思う限界よりももう少し先、もう少しねばってみることで得られる何かがあるように思います。

そのためにも、思いつくこと、できることのひとつひとつを突き詰めていくということを続けていきたいものです☆

 

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歴史を紡ぐ

 

自分の目指すことを思って、それをかなえようとして、日々格闘を続ける、それが人の営みの概ねのところであるように思います。

これまでに思ったことを省みたり、場合によっては後悔の念に駆られるということもあったりするかもしれません。

そういうことを踏まえて、自分はこうなりたい、こういうものを目指すのだということは思っても、これから、自分なりの歴史を築いていくぞとはあまり思わないものです。

それなりの野心がふつふつとわき上がり、歴史に名を刻みたい、あるいは、名を挙げる=有名になりたいという欲求があるとしても、その思いが強いほどに、かえって遠ざかってしまう気がします。

これは、勉強するぞと意気込んで、鼻息荒くいるより、英単語のひとつ、漢字のひとつでも覚えた方が、よほど勉強していることに似ています。

きっと歴史というものも、その都度直面する事柄に対応し、それを繰り返し続けていくうちに、ひとつの流れができるように、懸命に走っているうちに、ふと振り返ってみると浮かび上がる道筋のようなものなのかもしれません。

良いのそうでないのと限らず、自分の歩んできた道のりがそのまま個人の歴史ということなのでしょう。

それは、当初思い描いたものと異なるかもしれませんし、道半ばで潰えるということもあるでしょうが、それの結果そのままが歴史ということで受容するしかなさそうです。

ただできることは、目の前にあること、自分に降りかかってくる艱難辛苦を乗り越えるばかり、あるいは、不意に訪れる幸運を享受するばかり、そういう山あり谷ありを味わうことしかないということです。

また、何かの王者にはなれなかったかもしれなかったとしても、子孫繁栄、大勢の家族に恵まれたとか、海外旅行にはいけなかったけれど、空気の澄んだ土地に住むことができたなど、禍福の帳尻は合っているように思います。

それが、自分の目指すものかどうか、必ずしも合致するとも限りませんが、自分の思いを取っ払ってみれば、案外、人のうらやむような歴史を築いているのかもしれません。

自分も人の歴史を垣間見て、あれのこれのと思うこともあるにせよ、それぞれ、その人なりの歴史を自ずと紡いでいることに気づけたら、また異なる感懐を得るように思います☆

 

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じっくりじわじわ

 

TikTokやInstagramなど、最近のSNSサービスでは、短い時間での動画投稿が多く出回っていて、瞬間的に何かを楽しむということが定着しています。

そこでは、勢いやインパクト重視、ある意味では、過激に行き過ぎてしまうこともあるかもしれません。

そういうもののうち、気になったものを拾い上げて、刺激に対する欲求を満たしているとも言えるでしょう。

確かに、そういうものの楽しみ方はいくらかわかるものの、細かなものをつまみ食いをしているようなことで、果たして自らの欲求は満たされるものかと疑問に思ってしまいます。

色とりどり、味わいも千差万別の飴やガムをいくら口にしたところで、満腹とはならないように、それとは切り離して考えることが必要であるように思います。

個人的には、もっと深い感動、もっと本質的な感動を得られることを好みますし、また、そういうものを追っているので、今の流行に対しては、遠い位置を保っていると言えるでしょう。

では、一体どういうものが、自分の欲求を、より満たすものであるのか、それは次のようなものが例として挙げられます。

たとえば、厚い本を一冊読み切るとか、映画を一本見終えるとか、それなりのページや時間を費やすことで得られる快感や喜びというものが、そこにはあるように思えてならないということです。

音楽も、一曲ごとに楽しむばかりではなく、アルバム一枚を通して聴くとか、ひとつのバンドやひとりのアーティストの、2時間くらいのライブを堪能するとか、そういう長さをもって楽しむこともあるように思います。

何事も急ぎ足で、拙速に流れる傾向がありますが、それでは一過性ものばかりを手にしているということになって、後に何が残ろうかという気がします。

もう少し手応えのあるものというか、確かにそれを見たという、自分のひとまとまりの体験として得られるものが良いのかもしれません。

先の、食べ物のように置き換えてみれば、コース料理を味わうとか、大きな皿に盛り付けられたカレーライスを食べきるとか、そういうことが当てはまるように思います。

また、スコールやゲリラ豪雨のように、急に降りしきる雨ではなくて、しとしとと降りながら田畑や木々を潤す、そういう慈雨のようなものであってほしいと思うものです☆

 

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