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傍島康始|ブログ

Month: 5月 2020 (page 1 of 4)

系統立てるにしても

 

何かの場面で、決まった持ち時間、決まった文字数の範囲で、どうにか自分の意見を述べたり、何かひとまとまりのあることを語ったりする機会があるとします。

そこでは、自分以外の、決して少なくはない人の数の、耳目をいかに集めるのか、そのためにはできるだけ有意義であろうと試みるはずです。

責任をしっかり果たそうとすればするほど、緊張感は増し、手には汗がじっとりとにじむように、いつもならざる境地に立たされることになります。

裏を返せば、自分の役割を強く意識していることでもあって、準備も練習も怠りなく、着実に遂行しようと試みていることが読み取れます。

しっかり題材を掲げ、起承転結を貫く、いかに論理的に破綻がないか、考え抜くこともあるでしょうし、ただの雑談だと言いながらも、生活にまつわる知恵が含まれていたり、誰でも実践できる内容だったりするように、そこかしこに工夫があるかもしれません。

そのように、あらかじめ系統立てて、可能な限り理論にかなった話し方をするのが、基本的には最も好ましいようにも思います。

努力の跡が垣間見えるとか、誠実にコトに当たっているというように、必死さがあるのを好む、そういう人だっているかもしれません。

ただ、そのように考えてしまうと、何だか難しいな、自分には到底無理だと思う人も多くなって、せっかく他の人にとっては、自分にない知見を知る機会がありそうなものを、その前の段階で損なっていることも多くありそうです。

もう少し気楽に考えてみると、人それなりに日々を過ごし、いくらか考えて生きているうちに、自分固有の体験や感覚というのもそれなりのものがあるはずです。

あまり肩肘張らずにありのままを出していけば、それが他の人にとっては興味深いことである、そういうことも多い気がします。

それに、何を話そうか、何を語ろうかなどど考えるまでもなく、その時々の思いつきであっても、必要な分だけ必要な話が出てくる、こういうこともどうやらあるようです。

時宜にかなうように、何を気負うこともなく、出てきた言葉、出てきた感情がその場面では必要であるということなので、自分自身、何が出てくるのか期待するくらいで良いと思います。

そのためには、日頃から好奇心を働かせて、いろいろなことを知っておくとか、学んでおくことは大切なことかもしれません☆

 

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好きと向いている

 

「好きなこと」と「向いていること」、よく「好きなこと」を仕事にすると良い、むしろそうしない方が良いなんてことを言いますが、それは一体どういうことなのでしょう?

「好き」というのは気持ち・感情の表れであるので、コトの如何を考えるために、一旦「向いていること」を経由しながら考えて見たいと思います。

「向いていること」は「できること」とも言えるでしょうが、ただ、ここには"今の、自分が"という注釈が含まれるように思います。

今の、自分ができること、たとえば計算が上手であるとか、歴史の年号を覚えるのが得意であるとか、どこか技術とか技能とかの意味合いが強いことに気がつきます。

手先が器用とか、丁寧にやることができるということも考えていくと、自分にとってどうであるかより、周りの人が見てわかることが多いようにも思えてくるものです。

自分自身、何がどれくらいできるのかは、なかなか客観的にはわからないものだけに、第三者的に見て判断できることを頼みにしてしまう傾向があるのかもしれません。

その方が、また知らぬ誰かにアピールしたり、紹介したりするにも信用を得やすいので、「できること」から「向いていること」を導き出すのが理にかなっているとも言えそうです。

一方、「好きなこと」というのは、あくまで個人の胸の内にあるものなので、いくら好きだと言ったところで、それがどれくらいのものなのは、他の人には測りきれない気がします。

だからと言って、「向いている」ことを優先して、「好きなこと」を諦めるべきだと言っているわけではありません。

今の段階で「向いていること」というのは、あくまで「向いていそうなこと」であって、今後どれくらい技術や技能が研ぎ澄まされるかは、むしろどれくらい「好き」なのか、これが大きな原動力や起爆剤となる気がします。

"好きこそものの上手なれ"という言い回しもあるように、向いていることがより上手にできるようになるためには、気持ちの入れ込み具合が大切であるように思います。

おそらく、「好きなこと」と「向いていること」を寄せ合うようにして、互いにもう一方へ寄せていくということが最善なのではないでしょうか?

水と器のように、器に合わせてカタチを変えるし、水の量に合った器を用意する、どちらが優先されるまでもなくどちらも大切だと考えると、また異なった見え方になりそうです☆

 

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鏡に映すように

 

人それぞれの思いや感情があって、それはもちろん大切なことなのですが、どこか自分自身の固有のものとして固執することにもつながりやしないかと、危惧を覚えることがあります。

自分の振る舞いだけでなく、人の振る舞いも気になってしまうとか、良いかどうかの判別を、理屈か感覚のどちらかに寄りすぎてしまうとか、その時々で出てくる気がします。

柔軟なところとそうでないところ、強く主張したいところとそうでないところ、自分の中で切り替えや使い分けができれば良いのでしょうが、なかなかそうもいかないわけです。

これを、もう少し限定的に考えると、たとえば、自分の発想の枠内だけで"書く"とすると、どうしても一定の傾向や何らかの特徴が出るに収まるので、これをどうにか打破できないものかと考えるものです。

小説や物語など、自分ではない誰かを多く登場させるにしても、少なからず自分の一部分が反映するので、いかに自覚しながら、いかにそこから離れることができるのか、工夫の余地はないかと探し続けているようなことでしょう。

ある部分では、自分自身が女性になったつもりで書くのでも良いですし、また、女性になったつもりで書く男性のように自分自身で書くと、あちらこちらへ行きながらやってみると柔軟なものが出てくるかもしれません。

今回はこういう感じ、またある時は別のというように、取り組む内容や時期によっても、今はこの角度でやっているというのがわかれば良いなと思います。

歌の歌詞にしても、毎回同じようなことを歌うより、なるほどこういう歌い方もできるのかとなるように、歌詞においてもいろいろな場面や風景、心情などを描けると良い気がします。

これは、書く人と編集する人が異なれば、そういう効果が自ずと出てくるように、多くの視点を持つというのを、"人数の多さ"でもってかなえることのように思います。

身近な家族や友人に見てもらうとか、自分自身で見るにしても一旦時間を置いてみるとか、書くと読むので意識を切り替えるようなことがあると、冷静にわかることも多いはずです。

そもそも、自分の視点を固定するから、何を見ても同じようになるのであれば、体勢を逆さまにしてみるとか、寝っ転がってみるとかしてみると良いかもしれません。

それはまるで、鏡に移せば世界が反転するようなことでもあるので、まさに鏡に映すようにして、こういう工夫の仕方を自分の内に持っておくと良いと思います☆

 

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