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傍島康始|ブログ

Month: 7月 2019 (page 2 of 4)

それぞれの戦い方

 

チーム戦と言いますか、複数人で組んで戦うような場合、単純に人が多くいれば良いわけではなく、役割とか得意を発揮するとか、それぞれがどうすれば良いのかを知らないといけないものです。

それでも必要な人数はあるもので、十分に足りていないところで一体何ができようかという問題があります。

これを、サッカーの場合で考えてみると、「よし、勝つぞ」と景気良く意気込んだところで、11人でやるべきところを7〜8人で勝負に挑むのは、試合前にして無謀であるとか、勝つ気をゴッソリ削がれるということになります。

わざわざ負けようとは思わないけれど、どうにも勝つ見込みもないというのは、どうにも気の滅入る自体で、少なくとも人数は揃えておこうよと進言したいものです。

だからといって、同じスポーツだからといって野球経験者を3〜4人連れてきたところで、普段の練習も連携もないところで、どうにもかみ合わないということになってしまいます。

また、「とにかく元気に走ろう」ぐらいの作戦では、走る距離は伸びるけれども、果たして得点に結びつくような動きはできているのか、守備に間に合うようになっているのかは不案内になるところです。

この事実に対して、それがどれほど深刻なのかの真意を汲み取れていない場合、試合には出場するけれど勝ち進むことはない、それを繰り返すことになるはずです。

いたずらに疲弊するばかりで、何のためにかとも思ってしまいます。

不満や不平を言うのではなく、実際そうですよと言うだけなのですが、これを監督やコーチがいまいち把握していないようでは、チームに勝利がもたらされるのはうんと遠い日のことになるでしょう。

試合に出場できれば良い、参加することに意義があるといったところで、何の価値を得ることもなければ、人は離れるばかり、チーム自体の存亡の危機ということにもなりかねません。

何かにたとえると、かえって実際に何が起こっているのかもわかりやすくなるものですが、こういうのは避けて通るようなもの、次第に距離を置きたくなるものです。

移籍するもよし、名門チームのトライアウトを受けるでもよし、しっかりと戦えるチームであるとか、勝利の喜びをかみしめられるようなチームにいたいと思うのは当然ではないでしょうか。

こういうのを契機として、より良くなるように自分自身を導いていきたいものです☆

 

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類型をどう思うか

 

普段、自分なりの生活をしていると、同じようなパターンで寝起きし、そしてまた行動を繰り返しているものです。

もちろん、毎日が同じではなくて、そこかしこに小さな変化はあるものですが、おおむねは同じというのはあるでしょう。

それ自体何か問題があるわけでもないのですが、そういうパターンのうちに自分がいるということは、それとなく知っておくのが良いと言えそうです。

無論、そのパターンだから(寝坊や遅刻なしに)できていることもあるし、「継続は力なり」ということで、次第に深まりや広がりを持つこともあると思います。

その一方では、それゆえにできていないこと、やろうと思っていても機が熟さないようなこともあって、何かを得ていれば何かを手放しているということになります。

平日休みか土日休みか、またはお盆や正月に休めるのかどうか、または、働いている時間というのも、人によって異なるものです。

もしも何かを変えたい、生活のパターン自体を大きく変えるということもあるでしょうし、目に見えずとも感覚や気分の場合もあるでしょう。

自分で工夫して、いつもはお昼ご飯にはゴハンの定食が多いけれど、今日はサンドイッチにしてみようということはできますし、思いもよらぬということでは、誰かから誘われたら出かけてみるとか、一緒に何かをしてみるというのが良いとなるわけです。

たとえば、今の自分ではビリヤードをやろう、乗馬をしてみようと思っていないし、思っていないからやろうともしていないし、どこでできるのかも良くわかっていません。

これを、もしもそういう機会があるのなら、好きかどうかは関係なくて、実際にやってみるというのが何らか刺激になるはずで好ましいものです。

それによって、また新しい感覚や気分を味わえるでしょうし、そこにいる人たちと知り合って、それがまた新しい何かを知るきっかけになるかもしれません。

これもひとつのパターンができあがっていくことになるでしょうが、単に「同じようなパターン」という場合にも、"変わり続けること"を続けていくのであれば、これはいつも変化をもたらしていることになって、決して滞ることはないものです。

少なくとも自分が楽しくなるように、そして、周りも楽しくなるような、ステキなパターンのうちにいたいものです☆

 

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誰もが似たように

 

街の雑踏においてとか、都会の電車の中でとか、見知らぬ者同士が多く居合わせている場合に、近くに誰かしらがいるのにも関わらず、誰もが静かに黙しながら、同じようにしてケータイ(スマホ)を片手に「"何か"につながって」いる。

少し振り返ってみると、ケータイ(スマホ)の出はじめからだと30年くらい、多く普及してからも20年くらいが経とうとしているわけです。

今のこういう様子を見るに、どこでも電話やメールのできる便利さ以外に、果たしてこの機器や技術は現代に何をもたらしたのだろうかと思案してしまうものです。

首の角度がカクンと折れ曲がっている人や、いつか前転するのではと思うくらいの前屈みの姿勢の人がいて、今でなくても目や肩、首に大きな支障が出てくるのではと心配もしてしまいます。

それをわかっていてやっているのなら、それなりの覚悟というものがあるでしょうが、何も知らずにして、それでいて何か問題が起きることを好まないのであれば、どうにか早めに気づくと良いなと思うものです。

それにしても、もちろん何かをいつも見ることができる、いつでも何かを調べることができることにおいて恩恵も受けているものですが、絶えずそれをしなければいけないわけでもないので、そっと脇に置いておく時間も大切にしていきたいものです。

各々、自分にあった使い方・付き合い方でもってケータイ(スマホ)を所持しているものの、自分の好きなものに傾倒しすぎて、たとえば次の選挙の投票日を知らないままでいるとしたら、それは少し考え直した方が良いのではと思ってしまいます。

上手にボタンやタッチ操作をしたところで、自分のできることや知っていることは、あくまで一部であるとか、自分のやっていること以外の使いようがあると思いを巡らせられると良さそうです。

便利さの裏側には不便さがあるのみにあらず、集中力とか我慢強さみたいな、そういうものをどこか軽く見てしまっているかもしれません。

何となく落ち着かない、何となくケータイ(スマホ)を見てしまうのは、それは依存していることにもつながるので、それは文明の利器を使っているのではなく、使われていることになるでしょう。

それは、自分の時間を奪われているということでもあるので、時間や労力を何に費やしているのかに自覚しながら、また、何に"つながっ"ているのが良いのかを随時考えていきたいものです☆

 

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