SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Month: 7月 2018 (page 1 of 4)

誰何することにするか

 

"スイカする"といっても、決して西瓜ではない。

「誰何する」の基本的な意味の「あなたは誰ですか?」というようなところからはじまり、「〇〇を尋ねる」意味合いも含んで考えていきたいことがあります。

単純に通り過ぎていくだけの人とは関わることは(当然のごとく)ほとんどないので、そういう人に誰何する機会は極めて稀と言えるでしょう。

それよりかは、普段の職場や学校、仕事やプライベートでの出会いがあれば、毎日と限らずとも月に何回とか何週間に一度とか一定の頻度で顔を合わせることになるでしょう。

そうして出会って、次第に言葉を交わすようになってきて、自然とお互いに興味を持っていけば、次の段階としては、より具体的な自己紹介になっていくような気がします。

自らの名乗り、出身やこれまでの経歴、こういう趣味や特技がありますといった具合に展開していきながら、聞く側としては、自分の興味や関心のおもむくままに質問を差し込んでいくこともあるでしょう。

その人にとっては当たり前のことでも、他の人にはそうではなかったり、ぜひとも聞きたいことがあったりと、内容はそれぞれあるはずです。

ここで大切なのは、もしも相手に(それなりの)興味や関心があるのなら、質問を多くしていくべきですし、わからないことや知りたいことはそのまま率直に聞いてみるのが良いでしょう。

場合によっては、答えづらいことや言いたくないこともあるともあるでしょうが、そこはさらりと受け流せば良いだけですし、聞いた側としてもそれとなく察知できるはずです。

一方では、普段自分からは言い出さない、しかし、心中ではたくさん考えていることや思っていることのいくつかはあるもので、それは外からうかがい知ることはなかなか難しいものになります。

聞く側とすれば、良い質問をすれば興味深い回答が得られるでしょうし、意外な一面を引き出すことにもつながるかもしれません。

聞かれる側にしても、いつまにかこんなことまで話してしまったということであれば、信頼や安心を相手に感じている、だから心を開くようにして話していたということになるでしょう。

"話し上手は聞き上手"であるように、"質問上手は聞き上手"であるように思うので、言葉や表現の豊富さと合わせ、質問の引き出しも多く備えておきたいなと思います☆

 

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ないわけではない

 

特にやることも書くこともないなと思うことがありますが、まったくないのかと言えばそんなこともないなと(その途端に、ほとんど即座に)思い直すことも多いものです。

いつも何かを見聞きしているはずですし、たとえ強く意識していなくても何かしらを感じているはずなので、そういう少しずつのものをかき集めるということが大切です。

それがひとつの予定として、ひとつの文章としてカタチになるかどうかはわからなくても、試してみるだけの価値はあると思います。

これを、文章を書くことに焦点を当てていくと、音楽を奏でたり、絵を描いたりすることに似ている部分もあるのかなという気がします。

ピアノの鍵盤を目の前にして、どれでもひとつ指で押さえれば音が出るように、あるいは、紙に線を走らせれば図形や模様になるように、何かをやればそれなりの成果につながっていくものです。

それが、ひとつの旋律となったり、ひとつのまとまりになったりしていくのだから、文章にしても、最初は単語のひとつふたつかもしれませんが、書き出してみることではじまっていくということはあるでしょう。

これが「全360巻からなる、一大叙事詩を仕上げるのだ」と思うと、出だしから相当気負うことになるので、もっと気楽に、鼻歌混じりで軽くスケッチをするような感覚でいる方が良い気がします。

また、書くから書きたいことが出てくる、出てくるから書きたくなるというような、そういう相互に良い影響を与えるというような話を知って、「確かに、そういうことはあるよな」と思いました。

思考や感情を自分の中に溜め込まない、それが誰かに話すことで解消できるのならそれもまた良いことですし、そうでないのなら"つぶやき"ついでに吐き出していくことが良いと思います。

このイメージとしては、"来たら受け止めて、そして、放す"、そうすることで大きな"流れ"に乗ることができます。

または、繰り返していくうちに、そういう循環のうちに自分自身がいることになるので、息を吸ったら吐くように繰り返し続いていくことになります。

そこまでになれば、自然と文章がカタチを成していくように思うので、ここを目指さない手はありません。

細かく見てみれば、時期ごとの興味や関心も移り変わっていきますし、身の回りの状況も刻一刻と変わっていっていることもあって、その時にしか出てこない言葉や発想というものが必ずやあるはずです。

そういうものをいくらかでもすくっておくと、その時々のことを思い出すキッカケにもなるものです☆

 

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核心を衝く<保存用>

 

繋ぎ止めておかないとどこかに行ってしまうようなもの、それを「はかない」と言ってしまえばそれで終わってしまうようなもの。

生きること、働くこと、恋することなど、生活にまつわることは多くあるわけですが、どれに重きを置くのか、どれを優先していくのかは、人それぞれの向き合い方・取り組み方であって構わないでしょう。

そして、それぞれとことん突き詰めた先に、"共通した何か"があるような気がしてならないのですが、それは一体どういうものでしょうか。

ひとつひとつ、突き詰めていくうちにそれぞれに見知ることがあるかもしれませんが、それを並べて見た時にはまた異なって見えるような、普遍的な何かがあるように思います。

連なる山々において、どの山のどのルートを選んで登っていっても、最終的には富士山の頂に行き着くような感覚かもしれません。

それは、行く途中の道筋は異なろうとも、どれも同じような"真髄"に行き着くようなもので、できることならばそういうものをこの目で見てみたいとも思うものです。

何事もそうですが、取り組む前にそれがどういうことになるか事前にわかることもありませんし、何の苦労もなく即座に見通せるようなものでもありません。

そうでないから、だからいつも長い道のりを行きながら何かを得ようとしたり、あらゆることにおいて試行錯誤したりするのかもしれません。

また、それぞれに目に見えるカタチでの「達成」があるのかもしれませんが、大きな家に住んだり、多くの稼ぎを得たり、美男美女のパートナーを得たりするような、見た目でわかることが本当の意味で行き着く先なのだろうか、懐疑する気持ちをひっそり差し込むことも必要です。

上っ面のいくらかをすくい取ったところで、本当のところは誰にわかるようなことでもないことのように。

難解なことを丹念に紐解いていくように、何事もわかりやすく伝えることは大切なことですが、その一方で、わかりやすいことがそのまま良いこと・正しいことになるとは、あまり思えないものです。

少なくとも、その境界を見極めるだけの術を、今の私は十全には持ち合わせていないということはあるでしょう。

昨今のスポーツにおいて多く見られるように、キッチリと勝敗を分ける・雌雄を決するような時に、「楽しんできます」、「結果にこだわります」といったコメントを耳にすることが多い気がします。

特に「結果」は、ある程度終わってみてとか、区切りをつけてみてとかして、それでどうなのでしょうというもので、最初からそこに用意されているようなものではなく、いろいろ紆余曲折を経てようやく行き着く先ということになるものです。

いつの頃からか時間の前後や因果が入れ替わってしまい、また、目に見えることは誰にとっても同じように見えるため、どうしても「結果を出す」みたいな表現になってしまうのでしょう。

全力を尽くし、最善を尽くしていくうちに、自ずと出るはずのものを、最初から無理にひねり出すようなことになっています。

もちろん、取り組むからには成果・結果として良いものを残しておきたいし、それが数値として計測・計量できる方が、誰かにわかりやすく伝えるにも有益だということはあるでしょう。

数の多さや規模の大きさというものも良いとは思いますが、その一方で、到達の深さということをもっと大切にしておくべきではないか、並行してそのようにも考えたくなるものです。

先の例を延長して考えていくと、住んでいる家の坪数や稼いだ金額、またはこれまでに親密になったパートナーの人数は、そのまま数値として表せるので、多い・少ないことが一目でわかるようになっています。

しかし、その数を競ったところで、上限がどこにあるのかわからないものだから、どこまで行けば安心とか十分ということでもありません。

試合に勝つことと勝負に勝つことが少し異なるように、取り組む途中で得られるものと、取り組んだ後で得られるものが同じでないということは、比較的容易に考えが及ぶかと思います。

大切なことをねじまげてまでやる必要があるのか、これはいつも自分に問いかけていきたいことのひとつです。

長く時間を過ごしたから、多くの言葉を交わしたからといって、お互いのことが知り尽くせるというものでもありません。

たとえば、自分自身の場合、十余年にわたる"メタルヘッド"であるのですが、自分から主張することもないですし、特段尋ねられるわけでもないために、それを知るにはいかんやという具合です。

ほとんど脈略もなく、「いついつの頃、DREAM THEATERの『IMAGES AND WORDS』をキッカケにメタルの世界に入門したんですよね〜」とは言いづらいものです。

もう少し細かく言及すると、激しくて頭を振るのに適しているような、また、多くの人にとってわかりやすいMETALLICA、MEGADETH、SLAYER、ANTHRAXにEXODUSを含めるかどうかの"スラッシュ"の系譜に入れ込んでいるわけでなく、DREAM THEATER、OPETHなどの、随分と"プログレッシブ"なところが、心の深いところの琴線に触れてくるわけです。

あるいは、米米CLUB「君がいるだけで」に端を発し、他のバンドやミュージシャンにも興味・関心をその都度広げ続け、気づけば四半世紀以上音楽を聴くことを好んでいることの、聴いている内容と時間においての影響や特徴も当然あることでしょう。

ひた隠しにしているわけでもない事柄ですが、もしかするとそういう好みの傾向や、これまでに触れてきたもののいくらかが、自分自身の"気質(ネイチャー)"に関与しているとも考えられ、知らないでいるかは知ってもらっていて良いことのように思います。

少なくとも黒いTシャツを着ることを好むのは、この文脈においてであると取り上げることができます。

こういうことをつらつらと書き出しても詮ないことでもありますが、そこでは、自分自身の好みの範囲・傾向を知ってもらいたいというよりかは、それ以上に、自分自身のことを自分の中でどれくらい把握できているのかということに多く意識が向いています。

最も身近でありながら、意外と不明の多い自分自身を知ることをせずして、何を他の人に語ろうと言うのか、そんな気がします。

もしかすると、ここでも物事の前後や因果が入れ替わっているのかもしれません。

そして、たとえば異性の好みを尋ねられたとして、"見た目がナイス"、"優しい"と答えるよりかは、"背が高い方が良い"とか、"目が大きい"というような外見的な特徴であったり、"ミステリ小説を多く読んでいる"、"週末はキャンプに出かけている"という、行動に見え隠れする好みを伝えた方が、周りの人が見当をつけるのにも役に立つものです。

さらに、こういうことを、蛇足ついでに"メタルを聴くこと"に特化してみれば、"スラッシュ"なのか"メロスピ/メロパワ"なのか"デスコア"なのかの好みを伝えることで、振り幅の大きいジャンルの中であっても随分と範囲を狭めてオススメを受けることができるように思います。

自分にとって有益となる情報が他の人から多くもたらされることを、もう少し身近なところで考えてみると、評判の良いレストラン、行って楽しい場所など、自分の興味・関心のあることを日頃からそれとなく言っておくと、ちらほらと情報が集まってくるものです。

それが把握するのに必要な分だけそろっていなくても、少なくとも自分は知っていたり、そう思っていたりするアンテナが立っているのだから、ちょっとした手がかりさえあれば、そこから多くの情報を引き出すことができます。

"あなた・私"の多くの結びつきで成り立っている日々の生活や人生ひとつを送っていくにあたって、もしも自分のことを知ってもらいたければ、先に相手の言うことやその内容に興味を持つことからはじめていくのが良いということを、さりげなく、それでいて少し語気強くここで述べておきたいなと思います。

思考や感情において、自分自身を掘り下げることは、岩盤を砕きながら地表から深く潜るようなことに似ていて、どこかでガツンと突き抜け、先に開ける何かがあると考えられます。

そういう、何かあるという予感が、時間の前後を入れ替わるようにして、今の手元で行なっていること=岩盤を打ち砕くことの原動力となっているとも言えるわけです。

記憶や意識においても、性格同様決して裏表のあるようなことでなく、二重底・三重底とかいうものを思い浮かべてもらって、そこにあるものにもお互いに思いを馳せていくことが大切です。

そのためにも、自らに敷いているものの考え方やとらえ方、何かの判断や選択をするような時に駆動するものがどういうものであるのか、普段からできるだけ詳しく知っておくことが良いと思います。

自分でしっかり把握しておくだけでなく、誰かと関わりを持つ時にも有用で、肉をえぐり、骨にまで到達するようなやり取りをしない限り、本当の意味で「お互いのことがわかる」ことはないでしょう。

それは、決して「肉を切らせて骨を断つ」ようなことでなく、単純に血の通う存在としてのやりとりであるということです。

一緒にゴハンを食べるような時に、楽しくゴハンを食べれる相手なのかどうかは、思っている以上に多くの含蓄が含まれているものですが、ここではその事実のみを取り上げておくことにしておきます。

甘ったれた意見なのかもしれませんが、ロマンや理想を語らずして、手前の課題や問題に取り組む尋常ならざるエネルギーとはならない気がします。

それが金銭のやり取りのある仕事であったり、多くの人を巻き込むような取り組みであったりするわけで、もちろん"ままごと"でも無償の奉仕でもないのだから、シビアに考えなければいけない部分は多くあります。

それでも遥か遠くにあるような理想を掲げ、そこに力強く向かうと同時に、今、自分のいる場所が理想のいくらかでもかなっているとか、大部分ですでにそうであると良いものです。

心構えや姿勢のひとつとして、あらかじめ遊園地が楽しい場所であると思うのと同様に、自分自身もまた行けば楽しめる場所であると思える、そういうものであってほしいなと思います。

また、時間や距離において近くと遠くで同時にかなう、誰かにとって心底そう思えるようであってほしいし、自分自身でもそう思いたいものです。

場所自体が拠りどころであるというのは、そこに集まる人がそういう場所であってほしいと思い、その思いのもとに日頃の活動なのか行き来なのかを積み重ねているわけです。

そこにいる人たちが居心地が良いと思えるから、その場所もまた居心地の良いところとなっていくように、そういう"強い思い"からはじまるものに勝るものはないのかもしれません。

さらには、"楽しい"とは一体どういうことなのか?それを突き詰めていくと、やたら能天気に振る舞うだけでもなく、苦役に耐えることの先にあるばかりでなくて、そういう個々の思いが、あくまで自発的に発しているのかどうか、それが何に増して重要であるように思います。

自分の今いる場所が、これからどういうところになっていくのか、そして、自分自身が関わることやその度合いによってどんな変化をもたらすことができるのか、そういういくつかの視点・観点で見定めたい思いがあります。

何事においても"より良さ"を追い求めていきたい自分自身において、また、常に留まれないもの="ただの止まり木でしかない"(天野月子「菩提樹」)気質(ネイチャー)があるとしても、今はそこにいることを望んでいます。

何かコトを成すような時に"強い思い"を持つことは必須のように思いますが、それに加え、普段自分が発している言葉がもたらす恩恵やその偉大さを知りたい気持ちがあります。

たとえ、本心では思っていないようなことであっても、いつも言っているとどうなっていくものか、実際のところを知りたく思うものです。

今思うそういうことの、声高らかに言っていきたいひとつは「恋は革命よ!」というフレーズになります。

恋に落ちるから見える世界が一変するのか、何かのキッカケで見える世界が変わるから恋にも巡り会うのか、そのあたりの因果関係はわからないものですが、ぼちぼちやっていこうと思います。

自分自身を突き動かすものを内心知りながら、果たして自分自身はどこに行き着くことになるのだろうか、それを知ることにおいても、続きはこれからだし、お楽しみはこれから、つまりはそういうことなのです☆

 

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