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傍島康始|ブログ

Month: 6月 2018 (page 1 of 5)

先に言葉ありき

 

これは何度でも取り上げたくなるような事柄であるのですが、自分でも誰でも、どのような言葉遣いをするかによって、その後どのような道のりをたどることになるのか、そのことに強く興味を持ち続けていたいと思っています。

小難しく言うと、文体とかエクリチュールみたいな話になるし、ともすれば"運命"のような仰々しさを持つような言葉も、内容と紐づけて大いに活用したくなるかもしれません。

難解さにひるむことなく、正面から真っ向勝負を仕掛けるのも良い心がけですが、もう少し身近な事例を取り上げながら、それでもって本質的な部分までグイッと迫るようにして近づいていくことにしましょう。

また、日々の行い、日々の思考や感情のそれぞれの積み重ねがあって、それがひとかたまりとなるうちに、生活という範囲だけでなく、やがて人生という全体的なものに集約されていくということは、決して忘れてはいけないことのひとつであるように思います。

何を思って過ごしていくのか、それによって人それぞれの歩み方が異なるという点で、今一度考えてみたり、折に触れてとらえ直してみたりするのも良いことなのかもしれません。

「はじめに言葉ありき」とは、キリスト教の聖書の文言にあるということですが(新約聖書「ヨハネの福音書」)、人間の存在やその思考や感情といった諸々に先立って、最初にあるのは"言葉"ということです。

日本においても、50音あまりで(ほとんど完璧に)構成されている「いろは歌」があるように、あるいは、仏教もお経を唱えることがあるように、内容に先んじて言葉にまるわるものがあるように思います。

このあたりは、個別に掘り下げていくとわかることは多いでしょうし、興味深い事柄もあるわけですが、今はまだごく簡単に広く見渡していこうと思います。

平たく言えば、思考や感情においては、いろいろなものが脳裏や胸中に巣食っていると思いますが、それがどんなものであるのか、自分で把握するにも、誰かに伝えるにも何かしらの言葉が必要なだと感じるものです。

赤ちゃんの喃語のようなものでは、何も明らかにすることはできないために、言葉を重ねていくことで、茫漠としたものに輪郭を与えていくことができます。

たとえば、カメラで露出やピントを合わせていくような感じでしょうか。

冒頭の内容にも関連づければ、どこかに向かうにしても、漫然とどこかへ進むよりかは、地図で今の地点と行き先を知ることからはじめるという感覚に似ているのかもしれません。

そのために言葉を用いるということでもあるのですが、それは今後も引き続き考えていくべきことのように思います☆

 

 

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いつの間にかそうなる

 

寄り道をしているうちに、そちらの方がメインになってしまうような、そういうことって結構あると思います。

何事も一直線にすんなりとコトが進めば良いのですが、最短距離を最速で駆け抜けることはなかなかできないものです。

自分の得意なことや憧れていることと、周りの人からの評価や期待にしても、必ずしもピッタリと重なっていることは少ないようにも思います。

あるいは、"理想と現実"の乖離の話でないけれど、思うことが文字通りそのまま実際に反映するということもないように思います。

いずれにしても、良いこともそうでないことも予想通りにはいかないものですし、予想をはるかに越えるということもあるかもしれません。

もう少し具体的に考えてみると、役者を目指していたけれど、演出家として名を馳せるとか、絵描きなんだけれど、歌い手として広く活躍するように、自分の思いとはまた別の、あるいは思いもしなかった展開が待ち受けている場合があります。

これは、出会いやそのタイミングみたいなこともあるでしょうし、自分の得意なこと・力を発揮できることが意外なところにあるということもあるでしょう。

その例で思い浮かべるのが、マイケル・アモットがCARCASSを脱退した後、SPIRITUAL BEGGARSをメインのバンドで、ARCH ENEMYをサイド・プロジェクトで考えていたところ、(当初は特に日本の)思わぬ反響の大きさから、その位置づけが入れ替わったということがあります。

そこで、何が何でも自分の思い通りにしていけるように、どこか頑なになってしまう、そういうこだわりもないよりかはあった方が良いですが、柔軟に考えるというのも一方では大切かなと思います。

このあたりを掘り下げていくと、「目的と手段」の切り分け方にも続いていくことでしょうが、マイケル・アモットの例で考えると、どのバンドが軌道に乗るかというのも大切ですが、ギターを存分にプレイして、ミュージシャンとしてしっかり活動できる状況を固めるということを優先した方が良いというとらえ方になります。

そのためにも、多くのアイディアを出しながら世に問うていく姿勢が求められますし、ひょんなことから「自分の道」となっていくようなもの、それは自分の脳裏にあるわけでなく、どこかからもたらされるものなのかもしれません。

それもまた、自分自身が何かを熱望し、懸命に取り組んでいくことで、不意にどこかしら道が拓けるとか、何かしらの扉が開くようになっていくのだと考えられます。

自分の思い通りにならない、しかし、それ以上の"とてつもなく良きもの"が訪れると思って、諸々のことに取り組んでいけたら良いなと思います☆

 

 

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お互いに持ち寄る

 

恋愛においても、友情においても、誰かと親しく接するにあたっては、"お互いに持ち寄る"ことが大切かなと思います。

それは、決してどちらか一方からだけでなく、できるだけお互いに等しくなるように心がけることに似ています。

たとえば、一方的に好意を寄せたり、具体的な物品や行為を施したりするとしても、受ける側としてはあまり望んでいないとか、逆に図々しくなっているとかあるかもしれません。

「相思相愛」という言い方があるように、どちらが先でも上でもなく、ともに思い合うことが大切なのであって、それが成り立つから、続く段階としてさらに良い状態に持っていけるような気がします。

一旦、良い状態になれば、あなたがそう思うから私もそう思う、そして、嬉しいから上回るようにして返していこうとなって、それが繰り返し行われ、より賦活することになっていくものです。

別段説教くさくなるわけではなく、イメージとして思い浮かべやすいこととして、「人」という文字がお互いに支え合っているように、お互いに持ち寄ってくるその中央で均衡が取れるというように考える見方があります。

これが「入」では、同じように受け止めても良いですが、"入る"ところでどうなるものかは、ここでは言及が追いつかないように思います。

いずれにして、もしもそれがかなわない=「人」のようにならない場合、単に二人か複数人いるだけの「二」や「Ⅱ」とかになってしまいます。

それぞれに自立していることも大切でしょうが、その場合では、お互いの気持ちや言葉の行き交いはなく、見た目の通り何も起こらず、物事は平行線をたどることでしょう。

自分の身近にあってはどうなのか、ある一面においてはそれがかなっているようにもなってきましたが、より良くなっていくための余地は依然として多くあるものです。

基本的な性質や気質(ネイチャー)として、自分ひとりで考えるのが好きだったり、普段の考えを出すには0か100だったりすると、どうしても偏りがある気がします。

それらに対してわりと自覚的でいるために、だから、余計に自分で考えるとか、あるいは、表立ってはあまり考えを出さないようなことになってしまうのかなという気もします。

それでも、相手や相手のタイミングによっては、すんなり成り立つこともあるでしょうから、少なくとも何かしらを"持ち寄る"準備はしておくし、そこに不足のないようにはしておきたいものです。

こういうバランスの拮抗は、得も言われず興味深いことの一つだなと思います☆

 

 

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