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傍島康始|ブログ

Month: 4月 2018 (page 2 of 4)

名前の恣意性

 

DREAM THEATERのキーボード担当の"鍵盤の魔術師"ジョーダン・ルーデス(JORDAN RUDESS)は、本当の綴りでは「JORDAN RUDES」と最後の"S"はひとつだそうです。

しかし、この本名の綴りでは、「ルーデス」ではなく「ルーズ」に近い、「デ」と「ズ」をくっつけたような呼ばれ方をすることが多く、それで見た目からわかりやすいように"S"を重ねたということです。

日本語が英語で読まれる時にもに似たようなことはあって、「アスカ(ASUKA)」では真ん中の「ス」が強調され、「アスーカ」ということになります。

平坦に「アスカ」と呼んでもらうには、真ん中の"U"を省く必要があって、表記は「ASKA」となります。

この二つの場合では、表記の仕方と呼び方で少しズレが出るものでしたが、名前というものは固定的なものと思いきや、意外と融通が利くようなものかもしれません。

日本では、人の名前(人命)では使って良いかどうかの漢字の基準はありますが、それを何と読むのかはほとんど自由で、ひらがなやカタカナを組み合わせることもできます。

それを何と呼ぶのか、時代ごとの流行や人気もあるでしょうし、親や家族の強い思い入れもあるので、時に読むのに難しく感じる場合もあるものです。

たとえば「愛」では、「あい」が標準というか順当なところですが、「めぐみ」や「まなみ」でも良いですし、極端に言えば(名前にふさわしいかは別として)「まことにいとうつくし」みたいなものでも良いということになります。

それでも、それなりに長い期間をともにするわけですし、何度も呼んだり呼ばれたりするものですから、これは程度の問題ということはあって、大きく逸脱しない方が真っ当であるように思います。

本名においてもペンネームやニックネームなどで、本人の本質的な部分と結びついてくるのが名前の持つ力のようにも思うので、どのようなものでも多く示唆に富むような気もするものです。

そのひとつとしては、浅野いにおさん「ソラニン」の"ビリー"がそうで、彼を表すには四の五の言わず"ビリー"でしかないようなものかもしれません。

そういう浅野"いにお"さんにしてもそうで、これは保険証にある本人識別番号みたいなのが由来だそうで、手元にあったのがキッカケになっています。

こういうものを、ひとつひとつ取り上げていくと、ひとりひとりの固有のエピソードがありそうで、話の盛り上がるネタのひとつにはなるでしょう☆

 

 

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自戒を込めて述べるには

 

駅や街などの人の多いところを歩いている時、ケータイ(スマホ)を片手にして、歩きながら(すでに)いじっている、あるいはいじろうとしている人たちを見ると、自分はこういう人をあまり信用はしないだろうなと思います。

少なくとも、信用をしたくないなという思いが湧いてくるものです。

所詮は赤の他人であり、特に関わるようなこともないので構わないのですが、多くの人が行き交うような場所で、周囲への配慮は少なからずできた方が良いように思うためです。

また、手元の画面に見入り、いじっていることが過多な人では、中毒なのか依存なのかはわかりませんが、家族や友人などの身近な人や普段の周りにいる人に対しても、優しい眼差しを向ける機会はさほど多くはないようにも見えてしまいます。

優しい眼差しを向けることができないと、自分に向かっても優しい眼差しをする人が現れないだろうし、それはむしろ自らが先にやるべきことでもあります。

確かに、ニュースを見たり、音楽を聴いたり、ゲームをしたりと、ひとつの端末で数多くのことができるとは言え、歩くことを損なってまでやる必要はあるのか、それにはどうしても懐疑の念を断つことができません。

歩くことは、当たり前のことのように思いますが、その当たり前のことができていないことには、身体の歪みや頭痛の遠因にもなることがあるので、そこへの意識も向けていきたいものです。

また、駅のホームや電車の中でもそうですが、首の角度が極端に前に倒れている人を見ると、健全な姿勢を損なってまでも・・・(以下同文)。

少し本題とは外れますが、首には重要な神経や血管が束のように集まっているので、無理な角度で圧迫するようなことが続くと、男性の場合では特に、遠からず前立腺への影響があるという記事を見たことがありました。

うーん、首が折れでもしない限り、不随や不能が今すぐの危機ではないにしても、年月を重ねていくうちに抱えるだろう前立腺の悩みが、過ぎ去りし日々の無知が引き起こしたものだとしたら、悔やんでも悔やみきれないのではないでしょうか。

誰のためでもなく、今の時点で自分のことを大切にできないような人では、過去の自分や将来の自分にも敬意を払うことができなくなってしまいます。

自分の具合が良くないと、他の人や周りにも優しくはなれないもので、日頃から心身ともに健康であることを大切にして過ごしていきたいところです☆

 

 

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長い話

 

シンプルなタイトルとは裏腹に、今回は「長い話」にまつわることを取り上げてみようと思います。

単純に考えれば、長い話というのは、話す時間において長いということになりますが、この話が長いのと冗長なのとでは、いささか趣を異にすることを明らかにしておきたいところです。

聞いていて飽きない話というのは、起承転結がしっかりしているとか、次の展開が気になってしまうとか、いくつもの工夫が施されていることとに加えて、聞いているこちらとしても、いつの間にか興味を持って耳を傾けているということがあるでしょう。

この"話"が、講演とかスピーチでも構わないし、映画でも小説でも良いわけですが、夢中になっていたり、のめり込んでいたりするのであれば、時間の長さが念頭から離れて、内容に意識が向いているということになります。

長い時間を有効に使えるのであれば、いろいろ盛り込んでいくこともできるし、事例や比喩などを駆使して、よりわかりやすいようにもできるでしょう。

逆に、冗長だなと感じる、時間のことばかり気になるようでは、何かしら話す内容に問題があると言えそうです。

説教や小言でもそうかもしれませんし、酒席での自慢話や愚痴のようなものが、それに当てはまることが多いかもしれません。

(慣れても困りますが)不慣れな話し手自身の、話しているうちに何を言っているのかがわからなくなる(=話の迷子になる)、多少の表現は異なっても同じ話でループしているようなことがあると、聞いている方としては、内容以外のところで気になっている状態になります。

余談ですが、回を重ねるうちに多様な表現が身について洗練されるとか、話しているうちに的を射た表現が出てくるとか、繰り返すことで出てくる巧みさがあるのが悩ましいところです。

それが脚本や原稿であれば書き直すうちにより良くなっていくので、こちらは諸手を挙げて歓迎すべきところです。

こちらの場合では、スープや煮物をぐるぐるかき混ぜながらコトコトと煮込むようなもので、じっくりとやっていくことが大切かなと思います。

また、単純な時間の長さだけにとらわれないようにして、伝えたい要点を外さないという視点も忘れないでいたいところです☆

 

 

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