SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Month: 3月 2018 (page 2 of 3)

その先々も見通しつつ

 

はあちゅうさんの「半径5メートルの野望」(講談社文庫・2016年)を読んでいて、いくつもの視点・観点から述べられてはいるのだけれど、意外と、最近意識している「脚下照顧」という言葉と相通ずるものがあるように思いました。

「脚下照顧」においては、"自分の足元を見よ"という字義通りの意味合いの他に、自分の普段の振る舞い、居住まいを見直してみなさいということも含まれていますし、真意としてはむしろこちらの方になります。

他の人がどうとか、自分の過去がどうとかは、何かを判断したり、選択するような時にどうしても参考にしてしまうことは多いものの、それはあくまで参考にする程度で、結局のところは、自分が本当に何を望んで、どうしていきたいのかに尽きるような気がします。

思ったらやってみることが重要なように、自分の身の回りの手の届く範囲から充実していくことで、それの規模が大きくなったり、願っていることがかなったりするのかもしれません。

誰かに喜んでもらおうとか、誰かに優しくしようとか思いながらも、自分自身の心境が満たされていない場合、果たして十分に働きかけることができるか、それははなはだ不安な思いに絡められてしまうものです。

また、これからの未来・将来について思う時にも、たとえ今が思うようになっていないとしても、少なくとも充実しようと思っていない限りは好転することもないように、ここにおいても自分自身がある程度は満たされていないと、何らかの気概も生じてこないように思います。

比喩的な場合においても、自分の足元が見えないうちは、どの方向にどのように向かうかだなんてことは明らかにはならないのだから、自分自身の心中も照らすようにして明かりが灯るように、誰かとの関係にしても、これからの展開にしても、同じようにして確かな"先取り"ができている必要があると言えるでしょう。

時間において歩を進めるのと、空間として先に進むことが、前に進むことの相似であるように思うのであれば、村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んで、走ることと書くことの関係、あるいは生きていくこととの関係にも考えを及ぼしていきたい今日この頃です。

この先がどうなるものか、楽しみながらこの身を運んでいくことにしていきましょう☆

 

 

*シェアはこちらから*

少しずつ生じていく

 

"はじまる前にはじめておく"、そんなことは可能なのかと問われれば、広義においては「可能である」ということができるような気がします。

たとえば、頭で考えるのとカラダを動かすのを別にして「走る」ことを考えてみれば、地面を蹴って足を前に出していくことがカラダの動き、そして、そのカラダをどの方向に進めていくのかは頭の動きであるということができそうです。

走りはじめより勢いをつけて足の速さに加えていくにしても、どの方向にどのくらいの長さを走るのか、それを把握していないことには気力・体力はいつか費やしきってしまうことでしょう。

また、それが100mの短距離なのか42.195kmのマラソンなのかで、ペース配分も異なれば、コースの位置取り、手の振り方、呼吸の仕方など相違は多くなるものです。

あらかじめ想定しておくことを、字義のごとく"予想"となるわけですが、まさに走り出そうとして、走り出している間にも少し先のことを思い浮かべながら、今自分のカラダがどのような動きをしているのかを把握しながら、ひとつゴールに向かいながら微細な調整をしていることでしょう。

それがまた、試合(レース)の前であれば、いわゆるイメージトレーニングとして練習の一環として行うかもしれませんし、眠りに就く前に行うのかもしれません。

日頃の練習によって、自分の持てる力を最大限に引き伸ばしていくわけですが、それにしても自分がどのような状態であるのが好ましいのか、あるいは、どのような状態であれば試合(レース)で良い成績を収めることができるのか、きっと理想の状態があるから目指すこともできるのでしょう。

そうでもなければ、闇雲に距離だけを走っても、ひたすらに長い時間を走ってもどうにもならないような気がします。

これはまた、普段の生活においてもあてはまることで、自分が何を目指し、今の時点で何に取り組むべきなのかを知らないことには、何にも行き着かないような気がします。

何事も、やらないことにははじまらないわけですが、先に目指すものを知り、そこに行き着いた様子を思い浮かべることで、やっている途中のことも知ることができるし、何より、目指すものに行き着いたその時に行き着いたことを知る上でも必要なことだなと思います。

 

頭の働きとカラダの動きとを絶妙に絡ませ合いながら、前に進んでいく、それがコトの要諦なのではないでしょうか☆

 

 

*シェアはこちらから*

スタート地点に立つ前に

 

自分の、モノの考え方がそうである反映として、言葉を多大に尽くして語るか、ひと言ふた言で済ませたいかのどちらかの両極にある気がします。

たとえば、好みの色合いについて語る時、絵の具のチューブから出したままの「赤」とか「緑」ではなくて、赤で言えば「血液の、少し鉄分の黒さもある濃い赤色」であるとか、「日光に照らされ、葉脈が透けて見えるような葉の緑色」とか、いくらか入り組んでいるように伝えたいものです。

また色については、"原色"というと、"絵の具のチューブから出して他と混ざっていない色"と思う傾向が強いように思いますが、元をたどっていけば自然の中にある色で、自分が本能的にほっと安心するような色が"原初的な色"ということなのですが、これも特に追求する必要がない時には、そっと正すこともしません。

なかなか性急な時間の流れにおいては、仔細穿つように申し上げるより、「赤」や「緑」で包括するようにした方が、七面倒なことは起こりにくいので、それに任せることは多いものです。

自分の中で、「はて、実際にはどうであるか?」と問いかけながら、考えを転がしていく方が観察眼を養うのに都合良く、それで良いではないかと思います。

そうなると、冒頭のように多く話すか、ほとんど話さないかのどちらかになって、他の人から見て「おしゃべり」か「だんまり」かのどちらかの印象になるのかは、こちらの話したい気持ちの程度にもよりますが、意外と聞く方の態度や姿勢だって作用しますよということを、ささやかながら申し上げたいものです。

そして、自分の中で言葉が溢れてくれば、こうして書きつけておけば一応の解消ともなりますので、つらつらとやっているということになります。

目に見えるカタチでどうかとは別に、ある程度「おしゃべり」でないとこういう発信はできないように思うので、声に乗せてお届けできるような機会を望みつつ、そのための訓練を積んでいるという側面もあるように思います。

せめて、密かにはそうですよとお伝えしたい気持ちもあるのですが、それも時と場合に応じていくのが良さそうで、肝心なことだけは怠りのないように反応していきたいものです。

日頃、声高に言いたいことはいつもあるわけではないですが、言いたいことに行き着くまでに取り上げておきたいことはあるだけに、どうしても余分は必要だなと思うわけです☆

 

 

*シェアはこちらから*
Older posts Newer posts

© 2018 SOBAJIMA YASUSHI

Theme by Anders NorenUp ↑

Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial