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傍島康始|ブログ

Month: 3月 2018 (page 1 of 3)

書けないこと自体を書く

 

真っ白な紙面や画面を前にして何かを書こうと思っても、特段何も浮かんでこないようなことは、時としてないわけではないです。

つまりは、そういうことも"ある"わけですが、その場合には書かない選択を取って何も書きつけることもないので、「書くことがない」ということ自体が前面に出てこないだけになります。

そして、もう少しねばってみるのなら、たとえ何も書くことがないとしても、なぜ書くことがないのかとか、書きたいけれど書けないのはどういう理由によってなのかとか、とりあえず書くに至るまでのことを考えながらでは、少しくらいは書くことはできそうです。

とりあえず何も考えず、"あー"でも"うー"でも言うようにして、それがバーのような場所で独り言を言っているような状況として、心配したマスターが「お客さん、一体どうしたんです。うなっているように聞こえるのはどうしたんでしょうか・・・」と問いかけることもあるかもしれません。

マスターに答えるようにして、「実はね・・・」というところからはじめてみれば、自分がどういうところで詰まっていたのか、悩んでいるとしても別のことが至極気になっていた、そんなことにも思い至ることもあるでしょう。

蛇口をひねっても水が出てこなければ、放置せずに掃除や修理を施すように、言うにせよ書くにせよ、自分の言葉が出てこないようであれば、少しずつ"つまり"を取り除いて、出るような工夫をする必要があるように思います。

走り出す前には、いくらかの準備体操をしてスムースに動けるようにするし、書くためにも心身ほぐして、リラックスしておくことも大切です。

このような、ひとまとめの文章を綴る時に限った話ではなく、他の場合でも思うようにならないこともあるでしょう。

むしろ、ままならないことの方が多いと思う人もいるかもしれません。

たとえ、そのような場面に出くわしたとしても、その時々ではどのように対処したのかを書き残しておけば、後になって何かしらの参考になるでしょうから、わからないことをわかろうとしたとか、何らかの問題を解決したというプロセスを、順を追ってわかりやすくしておくことも良いかなと思います。

いずれにしても、何かを思って考えるような場合では、多少なりとも言葉を用いていくわけですから、そのことを知っているということ自体が貴重なのかもしれません☆

 

 

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差し出す時のマナー

 

誰かの文章を読んでいて、何かしらの「違和感」を感じることがあった場合、それはどういうところに起因しているのかなというのを、それもまた良い機会であるので、自分なりに考えてみようかなと思いました。

自分の書いたものが、読んだ誰かの反感を買うとか、大勢を巻き込んで物議を醸すとか、伝えたいメッセージとはまるで離れて、当初の目論見とは外れてしまうのは、できれば避けておきたいところです。

そして、これから展開していくことにしても、誰かを槍玉に上げてどうこうすることではなくて、もしも文章を書くとか、さらには声に出してコメントを出すとかいう場合に、それに先行して何より自分自身が念頭に置いていけるようにしておこうというだけのことです。

どうせなら、敵を増やすより味方を増やした方が良いのは言わずもがなのところです。

実際、余計な先入観や偏見を横に置いて平たく読むにあたって、ひとつに思い至ったのは"迂闊である"のかなと思いました。

言っている内容としては特に逸脱をしているわけではないし、その人の"自分はこう思う"というのを素直に出しているわけですが、特に言葉遣いにおいてどうも気になる=引っかかることがありました。

そうなると、こちらの深く意見を徴しようという姿勢が崩され、その言葉遣いの方ばかりに意識が残ってしまいます。

他の場合でもそうですが、誇張が過ぎたり、比喩がひねりすぎていたりすれば、伝えたいメッセージが届かない/届きにくいことは、自分にも思い当たることがあります。

技術的には「ワーディング」という言葉選びのものがあって、使うべき言葉を使うべき場面で取り出すことができるのかどうか、この部分を日頃より丁寧に意識しておくと良いでしょう。

あとは、主観的に思うがままにやるのが優先して大切なことですが、客観的に読んでどうであるかという視点も同時に持ち合わせておくと良いかもしれません。

特定の人を読者に見立てて、その人が読んだ時にどう思うのか、その方がより具体的に思い浮かべることもできるでしょう。

このあたりは、村上春樹さんの「うなぎ理論」からアルターエゴ(他我)のように、波及していくものですが、ひとまずは読む人に届くようにと、その素直な敬意を文章ににじませることからはじめていきたいものです☆

 

 

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使う手立てとその目的

 

端的に言えば、TwitterやInstagramをどう使うのかは、人によって随分異なるなという印象を持ちます。

ツールとして、文字や写真を投稿するということにおいては同じですが、その中身として異なれば、及ぼす影響や効果のようなところでも、事情は大きく変わってくるものです。

ブログにしても似たようなもので、いくつもの投稿が並んでくればそこから透けて見えるように、その人の"人となり"が浮かび上がってくるものです。

自分もそうなのかもしれないので自戒を込めつつ、意外と「こうすれば上手にいく」というように、手段を用いることがそのまま何かの成果を得られるというように思う人が多いのかもしれません。

たとえば、"ランニングをするから健康になる"のだとしても、ランニングすなわちイコール健康なのではなくて、走る距離や時間、自分の脈拍や筋肉の動き、水分や栄養の補給、そして、休養など、多くの要素を組み合わせて、それもしばらく続けることによって「健康」と呼べる状態になるのではないでしょうか。

同じようにして、トレーニング・ジムに通うから良いのではなくて、ジムでしっかりトレーニングを積むから良いので、そういう物事の順番であったり、道理であったりを履き違えないように気をつけたいものです。

そのためにも、日頃から、目的と手段を分けて考えておくとか、そもそも自分はどうしたいのかを知っておくことが必要であるのでしょう。

それはまた、生きていく上での「信念」とか「信条」のようなものにも続く話で、人の生まれ出る時間や場所が異なっていても、それでも生を受けて「よーいドン!」となれば、そこからどうにか生きていかなければならないものです。

そして、何か役割(のようなもの)を果たしていくことにもなるのですが、自分のことに無関心でいては、何をどうしようもなくなってしまいます。

冒頭の話に戻れば、コンピューターやインターネットがあれば何でもできるというのではなくて、結局はそれを使う人の裁量次第でもあるので、便利さばかりに頼るのではなくて、自分がどうしたいのかを知らないことには、何にもなりません。

もちろん、時期や時代の変化によって、身の回り状況も変わってくることもあるでしょうが、そういう変化にも耐えうるように、自分の大切にしているものをそっと守るような姿勢も必要であるように思います☆

 

 

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