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傍島康始|ブログ

Month: 12月 2017 (page 1 of 11)

有終の美を飾るにふさわしく

 

いよいよ今年最後の・・・。

 

はじまってしまえばあっという間の365日ですが、

こうして、無事に着地できるのかどうかというのは、

当たり前のことですが、予測はできないものです。

 

今年はまた、考えることの多い一年で、

考える続けることによって、打破できた部分もあるし、

実際でも本やネットの中でも、新たに出会えた人は多く、

しかるべきところに行き着いたなという感覚があります。

 

そして、これは結構大きな発見かもしれないのですが、

考えるにしても、いくつかの視点や観点があって、

本能、感情、思考 →  体、心、頭のどれで考えているのか、

それによって、とらえるとらえ方が変わる感覚がありました。

 

このあたりを、万全を期して書き記せるようにはまだなっていませんが、

そうして、自分がなってしまいがちな思考の道筋を、

根底から変える必要はなく、ただ改善はできるように思っています。

 

それも、日々考え続けていることの効果も大きく、

時期ごとに、考えていることは多少は変化していくので、

いつも書き記しておくのも大切なことはありますが、

せめて、その変化を感じておくことは大切ということなのでしょう。

 

あとは、思うのは、この世の成り立ちを十全に知り得るような、

ひとつの大きな規矩のようなものを知りたいのかもしれず、

それを追い求めているのが、自分の中にあるような気がします。

 

そうなると、あらゆる分野や領域のことに興味を持つし、

その背景にある成り立ちの経緯や文化のようなものも知りたいし、

ある意味では、縦横無尽に駆け回るがあまり、

一度なのか、一定の期間だかは混沌の過程にあるものです。

 

何かしらの結果に行き着くための過程ではありますが、

過程そのものの途中にいつもいることが、

もしかしたら成長の意欲も、成長の度合いもあるような気がします。

 

そういう現在進行形にあるような気持ちでいつもいて、

果たして、行き着く先が求めているところになるのかは、

今のところは見当もつかないところではありますが、

きっとそれはそれで良いのだろうと思います。

 

そうして、一年の終わりとはじまりとでは、

一旦は区切りを設けることによって、気持ちを改め、

また進んでいくことを選ぶことができるのでしょう。

 

それでも、今は今年の締めくくりを粛然として行い、

安寧な心持ちで過ごしていきたいと思います☆

 

 

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発想は豊かに広げていく

 

「来る者拒まず、去る者は・・・」

 

物事は、時間とともに流れていくものですが、

目の前を通り過ぎたり、脳裏をかすめたり、

思い浮かぶことの多くは、浮かんでは消えていくものです。

 

そのひとつひとつを取り上げて、

「はかない」と言ってしまえば、

途端に寂しい気持ちにもなりますが、

今、その時にしか感じることができない、

そういうものも多くあるような気がします。

 

そして、重要かそうでないかで切り分けて、

多くは忘れ去っていくのだとしても、

その発想の仕方自体は持っていても良いような気がします。

 

このところ、考えているひとつに、

たとえば、目で見て、耳で聞くように、

いろいろなことを知っていくうちに、

果たして、頭の中ではどうとらえているかは、

人によってそれぞれ異なるように、

もしかしたら、自分の中でも切り替えられのではないか、

そうすれば、また異なったようにとらえられるのではないか、

そういう仮説めいたものが浮上してきています。

 

発想の仕方、思考の仕方など言い方はいくつかあれど、

頭の使い方として、きわめて論理的に処理するのか、

感覚的に処理していくのかが大きくあるような気がします。

 

いつも論理的に処理する場合では、

理屈の筋道がスーッと通っていて、

何の矛盾も破綻もないのが理想ではあるでしょう。

 

それは、ある意味では言葉でもって説明できるもので、

逆に、感覚的に処理するような場合では、

何となくの景色や映像のようなものはあるかもしれませんが、

すべてを言葉ですくい取ることはできないかもしれません。

 

そのどちらが良いというものではなくて、

これにもっと瞬間的のようにも思う直観をも加えれば、

それぞれをギアを切り替えるようにして、

ひとつひとつに対応していくのが良さそうに思います。

 

目に見えるものばかりが正解とも言えないし、

気持ちばかり胸中にあるばかりでなく、

外に向かって示すことも必要でしょうし、

いくつもの組み合わせがあるということを念頭に置きつつ、

自分の中で、切り替えられると良い気がします。

 

自分の中での切り替えと、多く見知っていくことの豊富さと、

双方の組み合わせの多様さがあるほどに、

発想や思考はどんどん広がっていくように思います。

 

このあたりは、先日も似たようなことを書き記していますが、

結局、今の関心がそこに寄っているというだけであって、

そこにどれくらいの発想が集まっているかだけなのです☆

 

 

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共鳴の感覚をつかんでいく

 

楽器の調律をするのに用いる音叉では、

周波数ごとに使い分けられているのを知った時、

それほど種類は多いわけではないものの、

特定の周波数では、その周波数でしか反応しないとあって、

目には見えないものの不思議さを感じました。

 

これは、人と人との「気が合う」みたいな、

発している気というか、エネルギーというのか、

そういう目には見えないけれど、

何かしら感じ取るものがあることと同じで、

似た者同士が出会うことに近いのかなと思います。

 

そういう生命の振動のようなものがあるのなら、

引き合うようにして出会った者同士は、

「共鳴」しているとも言えるのではないでしょうか。

 

勝海舟か、坂本龍馬が言ったとされる表現で、

西郷隆盛の人となりを称して、

「大きく打てば大きく響き、

小さく打てば小さく響く釣鐘のようだ」というのがあります。

 

もちろん、自分自身で大きく響くことができるのが、

誰の力を借りない点では、良いのかもしれませんが、

たとえ、自分自身が率先して何かをやったり、

何か意見を言い出したりすることができなくても、

せめて相応の反応はできるようにしておくと、

協力を仰いで物事を進めることができるように思います。

 

そして、相手が強いエネルギー溢れる人であれば、

西郷隆盛もまた、そのような人物として目に映るし、

逆の場合であれば、そうは思えないということになりそうで、

翻って、自分自身のエネルギーの度合いが明らかになってしまいます。

 

西郷隆盛を相手にすることのみならず、

自分自身がどうであるかというのが、

出会う人や、その人たちの反応によって、

鏡に映るようにしてわかることがわかれば、

そこからさらなる成長なり、改善なりをして、

自分の望む方へ進むのが良いことでしょう。

 

もしも、これから出会っていきたいような人の、

特徴や共通点、性格といったことまで明らかにして、

自分もそうであろうと思っていれば、

きっと似た感覚を持つ人を引き付けるように思います。

 

このことを、おそらく簡単に言うのであれば、

むつかしい顔をして、険しい雰囲気を出すのでは、

わざわざ近づこうと思う人はいないでしょうから、

非常にリラックスした状態で、上機嫌でいる方が、

愉快な人と出会っていく確率は上がっていくのは、

結構思い浮かべやすいのではないでしょうか。

 

そうして、人数の多い少ないところではなくて、

ひとりでもそういう人に出会っていきたいものです☆

 

 

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