SOBAJIMA YASUSHI

傍島康始|ブログ

Month: 11月 2017 (page 2 of 11)

記憶の底に沈殿する

 

自分自身、記憶力は飛び抜けて良いようには思いませんが、

局所的にはよく覚えているということがあります。

 

基本的に、脳みその機能としては、

目や耳に入ってくる視覚・聴覚情報は全部記憶していて、

それが意識の前景に上がってくるかどうかということがあります。

 

あるいは、自分が強く興味を持っていることや、

熱心に調べ上げたようなことであれば、

何度もそれに触れる機会は多くなりますし、

色濃く記憶に定着するように思います。

 

何をもって"記憶力が良い"と言うのかもありますし、

記憶の仕方においても、人ぞれぞれに特徴があるものです。

 

最近知ったところでは、自分の過去の体験において、

年代や日付、場所のような、どちらかというと文字情報で、

それと結びつけることで覚えている人がいる一方で、

自分がそこにいたことに付随する雰囲気や匂いみたいなところで、

どちらかというと感覚で覚えているという人がいて、

同じところにいても、異なるようにしているのだなと思いました。

 

また、同じ場所で、同じ体験を共有していても、

誰が何をしたとか、そこに何があったのかなど、

具体的な何を覚えているかも、

異なってくるのが面白いなと思いました。

 

いろいろ目まぐるしいとか、膨大な量であると、

その細かいところを十分には覚えてはいられないものですが、

何かは感じ取ることでしょうし、

何かは覚えてもいるとは思うので、

最初から記憶することを意識してしまうと、

ただの記録になって味気なくなりそうです。

 

それよりも、そこで何をしているという、

まさに体験そのものを五感でありありと感じる、

そういうことの方が、結果としてもよく覚えている、

いつまでも印象に残っているということになるのかもしれません。

 

固有名詞や数字のようなところでは、

間違いのないように、きちんと覚えておこうとして、

そう思うだけでも効果はありそうですし、

他のことにおいても、何かの時には記憶の片隅からでも、

取り出そうと思っていれば良いように思います。

 

あるいは、解釈というか、受け止め方によっての差異もあるので、

あるところでは美化や脚色もされるでしょうが、

曲解や歪曲のないようには、心がける必要はあるでしょう。

 

それでも、覚えておきたいことや、

いつまでも忘れないでいたいことにを優先して、

それを糧に日々を過ごしていきたいものです☆

 

 

*シェアはこちらから*

水に深く潜るように

 

少し前に、だいぶまとまった分量の文章を書いた時に、

普段とは異なるやり方というか、

そこで使う体力や、事前の準備も異なるなと思いました。

 

分量が多ければそれだけ、内容は幅広く、

しかも、論理としても深いところまで行くので、

たとえば、これを水に潜ることにたとえてみると、

140文字のTwitterでは、洗面器に張った水に顔をつける程度で、

ここで(今のところは)毎日やっているこちらでは、

それこそ、家庭の浴槽に入っているくらいになります。

 

すると、ここでは言いたいことをさらっと言う程度か、

言いたいことの大まかな流れを伝える程度かになります。

 

これが、2,000〜3,000字くらいになると、

市民プールがジムのプールに行くような感じで、

10,000字を越えてくるようになると、

そろそろ酸素ボンベでもかついで、

海にでも行くかどうかということになります。

 

そうすると、持っていくものは変わってきそうですし、

準備体操も入念にやっていく必要が出てくるものです。

 

そして、いきなり水に飛び込むようなことはしないで、

少しずつ潜ってみるとか、浅いところから進んでみるとかするので、

空間的な場所も大きく使ってみるのが良いとなってきます。

 

あるいは、単純に文字数の多さから考えてみると、

少ない時には、言いたいことを順に言っていくのが望ましいですが、

扱える文字数が多ければ多いほど、その前段と言いますか、

読む人が、読むのに次第に慣れていくように、

少し本題とは離れた話題から切り込んでいくことになります。

 

こういう言っている内容と文字数の多さは、

どこかしらでリンクするようにも思うのですが、

それはまた、先日紹介した"意識の階梯"のように、

考えている意識レベルの深さにも影響がありそうです。

 

論理を駆使し、言いたいことのあらゆることがつながるように、

しかも過不足なく伝えようとすればするほど、

集中力を増しながら、意識は深くなっていくような気がします。

 

そうして、水の中に潜って、底にまで沈むようにして、

意識もぐんぐん深めながら、言いたいことの真ん中までたどり着けば、

あとは、浮上するようにして締めくくりを迎えれば良いわけです。

 

そうすれば、自分の気がつかなかったようなことを、

深く潜ってみることで見つけるかもしれないし、

自分の思っていることの深いところが、

他の多くの人にとっても共感できるのかもしれません☆

 

 

*シェアはこちらから*

空は空にして空なり

 

ここ最近思うことの一つに、「空は空にして空なり」があって、

般若心経の一節にあるような「空即是色、色即是空」というような、

何かの虚無を扱うようなことを、心の中ではしています。

 

これには、いくつかの段階というか階層があるのですが、

思考や感情において占める割合が大きいように思います。

 

たとえば、感情豊かに喜怒哀楽を表現するとか、

四方八方に思考が張り巡らしているとか、

こういうものは、巷ではないよりかはあった方が良いとされている、

少なくとも、自分自身はそのように感じています。

 

それによる恩恵や、得られることは多いかと思いますが、

その一方では、何もない=蟠り(わだかまり)や滞りがない方が、

終始潔いことにもなるような気がしています。

 

これは、「密息」や「ちくわ」的発想につながるのですが、

身も心も突き抜けるような一本の管になることで、

風通しも、あるいはその形状でさえもシンプルに保って、

何も残さないようにするのも良いのではないかと考えています。

 

そういう意味では、無用の執着やこだわりのようなものも、

最初から手放すようにすれば、それらに惑わされることもなく、

そういうものがあったとしても突き抜けるだけなので、

何を思うことも感じることからも自由でいられることでしょう。

 

身体全体を一本の管としてみなすように、

部分でさえも風通しを良くすることを考えると、

肉体と外界を隔てるような肌や皮膚が、

網目のメッシュ状であることを思い浮かべるのが、

イメージとしてはとらえやすいように思います。

 

そうして、全体的に空気の通りの良い様子は、

多くの穴のある「多孔体」とも呼べるようになってきます。

 

そうして、澄み渡る一陣の風が吹き吹けば、

風を全体に浴びながら、そのまま通り抜け、

何もなかったかのように振る舞うことができそうです。

 

いちいち風がぶつかってきて、

空気の流れが変わるくらいなら、

突き抜ける方が、よほど爽快であるように思います。

 

何も残さないのだから、何があるわけでもない、

全ては通り過ぎるだけものになるわけです。

 

何も感じず、何も考えないでいる一方、

良いものは脇へ置くようにして確保しつつ、

そうして、要・不要を振り分けでいくことで、

必要なものは、浴びるようにして血肉にするだけのことです。

 

静かな諦観を抱えながら、全ての虚無を蓄えることを、

今しばらくは続けていこうと思います☆

 

 

*シェアはこちらから*
Older posts Newer posts

© 2018 SOBAJIMA YASUSHI

Theme by Anders NorenUp ↑

Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial