物事は、何でもそうかと思いますが、

ある程度の時間が経って、事後的に分かることが、

その割合のうちの、それなりの程度を占めるように思います。

 

大きく言えば歴史ということになりますが、

身近なところでも当てはまることでもあって、

ひとつひとつの事件や出来事の事実的な側面と、

そこに関わる人の思慮や思惑の両方があって、

たとえ証言や発言のように現れていても、

それだけではわからないことも多くあるものです。

 

あるいは、冤罪や捏造、誤解などのように、

事実が事実でないにしても、事実として成り立たせてしまうとか、

本当のところをひた隠しにしてしまって、わからなくなってしまうとか、

そういう操作が施されてしまうことも多くあることでしょう。

 

こういうのを真に受けてしまえば、そうであるとしか見えないし、

何が本当なのか、真実というようなところまで知ろうとは、

普段の中では、なかなか思わないものだなと思います。

 

これらは、発信する側と言いますか、

当事者におけるあれこれということになりますが、

受け取り手として、自分自身がどうであるかということも、

少なからず影響があるようにも思います。

 

それに、時間が経つと、発想の仕方も変わるので、

解釈の仕方や受け取り方も自ずと変わるということがあって、

これを、ある意味ではどれだけ短期間で同じことができるのか、

そういう試みをするのが効率の面からも妥当のような気がします。

 

何かを見聞きしたり、知ったりするような時に、

いくつかの考えを瞬時に並べ出し、妥当なものを採る、

そういう芸当ができることがまた、

本当のところを読み解く力になっていくことでしょう。

 

そして、ある部分では時間の経過に任せることが必要なところと、

時間の概念を覆すようにしてすっ飛ばす感覚と、

時間のとらえ方によって、使い分けができるのが良さそうです。

 

個人においては、たとえば料理をするとか、音楽を奏でることが、

時間の流れの上に成り立っていることなので、

時間の感覚を知ったり、上手に使ったりすることの、

鍛錬としても良いと考えられているものです。

 

時間は刻一刻と流れるもので、1分前の自分と1分後では異なるもの、

そうして、ヒトの細胞が3ヶ月でそっくり入れ替わるにしても、

毎秒毎分ごとの積み重ねが大切だなと思うわけです☆

 

 

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