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傍島康始|ブログ

Month: 5月 2017 (page 1 of 7)

節目節目を意識して

 

日々、懸命に生きていると、それは地続きのようで、

あがいている、もっと良くなりたい気持ちがあって、

そこには、どこか"慣れ"が生じていることでしょう。

 

何もかもが目新しく、何もかもが初めてというのはなく、

どうしても、知っている範囲やできる範囲で、

日々の活動の内容も範囲も完結してしまいがちで、

良い循環になっていれば、それを維持・発展するだけですが、

単純に同じところを行ったり来たりしているようでは、

前進も上昇も、何もないということになります。

 

誰しも、それに甘んじているということはないでしょうが、

単調になりがちな場合には、手を施すことが必要になります。

 

ふと立ち止まって考え直す時間を設けるとか、

いつもとは少し異なるようなことをしてみる、

ご馳走を食べる、お洒落をしてみるみたいに、

特別な体験をしてみるのも、そのひとつでしょう。

 

大きく変えたいならば、大きく飛躍してみるも良くて、

滝に打たれるような修行ばかりが最善ではありませんが、

時に、行動や感覚を伴って新たな刺激を取り入れる、

そういったことをするのも効果的かもしれません。

 

哲学的に言えば「万物は流転する」わけで、

時間は過ぎる、年齢も重ねていくのならば、

経験としても、魅力としても増えるに越したことはなし、

ひたすら留まるだけの理由は、きっとないはずです。

 

今日は、ちょうど月末ですが、その日ごとだけでなく、

月や週で、定期的に区切ったり、

四季や二十四節気などで、暦(カレンダー)で区切ったり、

特に、日本においては、それがわかりやすいので、

先人の工夫というのは、かなり妥当である気がします。

 

コツコツと持続する習慣は、もちろん忘れずに、

気持ちは、今を意識しながらいつも新鮮で、

先人に感謝と敬意を表して、常に工夫を楽しみ、

今日という日をまた、駆け抜けるように生きるのです☆

 

 

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糸を手繰り寄せる

 

たとえば、次のステージを目指して、上を向いた時、

そこに、登るて手立てとして、糸が垂れ下がってきたら…。

 

チャンスの女神と同様に、そのような機会は極めて稀であり、

しかも、誰もが手にできるほどは用意されていないでしょう。

 

王様でも、チャンピオンでも、頂点に立つ人は、

どの分野においても、一番乗りですべてを手にしており、

または、それを打ち負かすことで手に入れることもあるでしょう。

 

ヒトという、単なる生物的な営みということでなく、

人の歴史は、一番を目指す人たちの、

そのような戦いの積み重ねなのかもしれません。

 

ただ、一番になれなかった大勢の人たちとの差は歴然であり、

名声、評価など、手にするものも雲泥の差となるでしょう。

 

歴史に名を残す、それだけが目的ではありませんが、

後世にまで語り継がれたら、それはかなり名誉なことです。

 

自分が高みに行く、もっとありていに言えば、目立っていく、

ぜひとも、そのような機会を手にしていきたいものです。

 

また、生きていて、得がたい出会いもあって、

そのような「縁」を紡いでいくのも、

人生の醍醐味のひとつだなと思います。

 

何かを引き寄せる、束ねるようにして、

人は出会い、関係を結んでいくことを表すのに、

「糸」のつく漢字や表現が多いように思います。

 

綾を織り成すようにして、人生を織り成すといえば、

いささか耳にキレイに聞こえてしまいますが、

実際は、そうやって人との関係によって、

自分がいたり、誰かと助け合っていたりするのが、

世の常道なのかとも思うわけです。

 

人生の機微であったり、個人の感情の機微であったり、

それぞれを丁寧に手繰り寄せて、織り重ねる、

それがタペストリーのように、ひとつの作品となり、

人それぞれの彩りと味わいが出るでしょうから、

それもまた、作り上げていきたいものです。

 

未完の大器とか、大器晩成とかも期待は高いものですが、

きっちり仕上げて、花開くようになっていきましょう☆

 

 

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書き方について書く

 

時に、何を書こうかしら、どう書こうかなどと、

「書き方」について、考えてみることも興味深く、

それを書くこと自体が、ひとつのトピックとなるのは、

何だか、不思議な感じにとらわれることがあります。

 

内容しかり、その表し方しかり、読み手にとって、

それが読みやすい、読み応えのあるものであるよう、

工夫をするというのは、大切なことです。

 

また、小説なのかエッセイなのか、あるいはまた他の、

表す媒体、それによっても変化はあるだろうし、

文体という要素も加わってくるように思います。

 

明治の頃までは、話し言葉と書き言葉が異なっていて、

「左様」、「〜候」というのは、文中においてのみ、

話す時には、もう少し平易なものであったわけです。

 

今では、言文一致でそういう使い分けはしませんが、

アイディアのひとつとして、あえてそれを使って、

内容との組み合わせを楽しむことがあるくらいです。

 

文章を綴るというのは、思考をまとめたり、

自分の思いを届けようとしたりして、有意義なものですが、

書きはじめる前には、まっさらな紙面ばかりで、

先行きの長さに不安を減じ得ない人もいるかもしれません。

 

それでも、最初の一文字を書く、書きはじめることによって、

工夫の余地も生まれ、改善しようという気持ちも起こりと、

徐々に、その楽しさに気がついていくことでしょう。

 

何事も、最初の一歩が大切ですし、

あとは、続けていくというのが良いので、

自分自身、初心を忘れずにやっていきたいと思います。

 

また、こちらはまったくもって不如意ですが、

描き方については、またいずれやるかもしれません☆

 

 

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