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傍島康始|ブログ

感覚と認識において

 

たとえば、遠い道のりを行こうとして、足腰を鍛えよう、そのためには少しずつでも歩いて行こうという考えにいたります。

それが、他の人にとっては同じではなく、遠い道のりを行くのなら自転車やバイクでビュンと行けば良いではないかという考える場合があります。

これが、遠い道のりを早く行くことに重きを置くのであれば後者の発想で良いですが、自分の足で歩くことを優先しているのであれば、ここで発想のズレが生じかねません。

そして、何でだか後者の考えに寄りすぎると、なぜそういう時間のかかること、足腰に負担をかけることをするのかと、逆に叱責されるかもしれません。

こういう、結果としては遠い道のりを踏破するのかもしれませんが、途中がまるで異なる辿り方をするものです。

良かれと思ってやることが必ずしもそうではなく、そして、公正な判断でもなくて、どの考えを軸足とするかで評価の仕方が大きく変わってくるものです。

同じことを取り組む時に、それぞれが最初にどう思っているかで進め方が異なるし、声の大きい人が正しいみたいなことになると、どこかで齟齬が生じるのは致し方ないかもしれません。

自分がどうであるということとは別のところで、何が最善なのかが見えていない、あー、なるほどね〜と思うわけです。

こういうのは主観が強いとそうなってしまうのか、あるいは自分が正しさの権化だと思っているのかはわかりませんが、そうなると力の強いものが正解となってしまいます。

事実として上手に進んだところで、本質的にはいくつもの破綻がある、あるいは、あるかもしれないと思えるのかどうか、強気で攻めるばかりでなくてこういう控えめな態度も、同時に必要かなと思います。

その時々ではどうにかなっても、積み重なっていくうちにヒビが入っていけば、突如として傾いてしまうかもしれません。

最近、気になる言葉で「跂者不立」あって、背伸びをして爪先で立っている人はかえって立つことができないというのがあって、身の丈を知りつつ適度(か、少し無理め)な背伸びがちょうど良いのではないかということになります。

少なくとも自分の中で解決策を練るに、"問題の次数を繰り上げる"発想があれば、これはまたどうにかなることなかと思っています。

それについては、また後日に取り上げられたら良いなと思います☆

 

 

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適当で良いのか

 

何となく最近思うことのひとつに、"適当で良いのか"ということがあります。

最初から100点満点を狙うのと、それなりの80点くらいで構わないやというのとでは、当然意気込みとか熱意みたいなところで、取り組み方が変わってくるものです。

満点を取るのはなかなか難しいけれど、そうやって高いところに狙いを定めるから90点以上を取ることもできるわけで、これが、取れるだけの分で良いやとなると70点台でも上出来だみたいなことになります。

これが、普段の取り組みひとつにしてもそうで、"だいだいで良いよ"となれば100%のうちの70〜80%くらいが妥当なところでしょう。

そして、やらなければいけないこと(タスク)が100個あったとして、それも"だいだいで良いよ"となれば70〜80個ということになるかもしれません。

そうなると、全体の仕上がりとしては、最大でも80%×80個で、約6割しか網羅していないことになります。

これでは、丁寧にやっているのとはかけ離れてしまいますし、だいぶ抜け落ちているなという印象を持つものです。

物事を前に進めるためには、こぼれる量よりもすくい上げる量に重きを置いておけば良いのかもしれませんが、一方ではどうにかこぼれるものを食い止めたい思いがあります。

それに、自分で把握できることには限りがあるけれど、それでもできる限り把握はしておきたいものです。

しかし、あくまで"適当に"ということであれば、自分の知っていることはそれとして、それ以上に何かあるだろうということに気が回せないような気がします。

これは、取り組み以前の気の持ちよう次第なので、そこをどうにかしない限り、損なわれていることが多いような気がしてなりません。

そうして失ったことにすら気がつかないのは、結構惜しいような気がするものです。

一旦そうなってしまうと、何もかもが完璧である必要はないとしても、より良くしようという気持ちはなかなか持てないものです。

これはまた、自分自身が強く思うことであって、何となく食べて、何となく息をしていても命は長らえることができます。

そうやって、普段の取り組みもそれなりにやっていれば良いわけで、きっとそういうことの方が大半なのかもしれません。

あまり気を揉まず、そういうこともあるさくらいに思っておくと良いのかなと思います☆

 

 

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旅行くものとしての薫陶

 

なぜ人は旅に魅せられるのでしょう。

最近では、台湾が身近で人気の高いところかなと思いますし、フランスやイタリアなどのヨーロッパ、そして、ハワイ、ロサンゼルス、そして・・・という広大なアメリカなど、行くところにはコト欠かないわけです。

つらつらと場所を挙げていくと、結局地球上の全部じゃないか、それに宇宙旅行だって手が届きそうなご時世ですからなおさらです。

また、バックパックひとつで世界を放浪し、それもインドやアフリカなど、必ずしも治安の良いところではない地区・地域に行く人だっています。

結局、海外旅行だ国内旅行だというところで、「旅」というものが何なのかを自分なりにつかんでいるのかどうか、それもまた大切なことのように思います。

もちろん、その土地を訪れ、そこにいる人と話す、ゴハンを食べるようにして、それぞれの雰囲気や様子を感じないことにはわからないこともたくさんあるかと思います。

日本語が通じない、何となくどころかさっぱり行動の仕方や発想の仕方が異なるという具合に、勝手がわからないことばかりかもしれません。

きっとそういう時に、普段の生活の、それも何気ないことのひとつひとつに思いが至るのではないか、そのように思うものです。

ふるさとが遠くにありて思うものであるように、離れることによってその良さがわかるということはあると思います。

そして、もしもあらかじめそういうことがわかっているのなら、近所でもできるのかもしれません。

たとえば、最寄りの大きめの駅およびその周辺に降り立って、あたかも海外から来たかのような人になりきる、日本語を使わないでやってみるというのが良いでしょう。

駅の表示や看板の、英語の方を読んでみるとか、あえて地図を広げてみる、それだけでも随分旅行気分を味わえるように思います。

これは、以前に大泉洋さんの「水曜どうでしょう」でやっていたアイディアで、その時は確か札幌なんだけれども香港に見立てる企画・内容だった気がします。

自分自身においても、あまり遠くへは行かないし、海外もだいぶ行っていないのですが、実際行くかどうかはその時次第、それでも工夫をして、日々に刺激を入れていこうと思う次第です。

行けたら良いし、行けなければよしなに〜というわけです☆

 

 

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