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傍島康始|ブログ

流れに逆らわない

 

人のカラダの約70%かそれ以上は水分でできているというので、たとえ陸の上で生活をしていようとも、水とは切り離せないように思います。

普段でも、飲むことにはじまり、手を洗う、風呂やトイレで用いるように、結構多くの水を使っているもので、ないと大きな不便を被るというはあるでしょう。

何かを食べたり飲んだりするにしても、最低限水分をどうにか摂っていれば生きながらえることもできるので、命の要と言うこともできそうです。

今のこの時期、空気は乾燥しているため、自分は手先が少しカサカサに乾きがちになってしまうので、水分とともに保湿ということが気になってくるものです。

気がつくと喉が渇いていることもあるし、肌ツヤにも関わってくるものなので、いかに水分を多く体内に保持できているのか、いつもこういう感覚を持っていると良いでしょう。

そうして、水の恩恵をありあまるほどに受けているのであって、蛇口をひねれば使えるという状況にありがたみをしっかり覚えておきたいところです。

身の回りにある水についていろいろ考えていくと、最近はこういうことも思います。

気持ちを落ち着かせたい時、何か音を聞いて安らげようとするならば、水の流れる音、川のせせらぎのようなものを選ぶのが良いということです。

人間にしても自然の一部であるので、より一層そこに溶け込むようにして、それは流れに逆らわないことにも通じていくように思います。

流れに逆らって鯉の滝登りのようなパターンもあるにはありますが、そういう試練を越えるとか、逆境に立ち向かうようなことも時には必要かもしれません。

しかし、そういうものにしたってしかるべき内容とタイミングとで自分の元に訪れると考えるのでは、あるがままというか、流れに任せるということなのかもしれません。

どこに行くかだなんて、最初から明確に見据えて、そのまま向かうということがほとんどないようなことですから、それが紆余曲折ということかもしれないし、遠回りこそが近道だという言い回しにつながっていくように思います。

川にボートを浮かべて、風の吹くまま、流れの赴くままに進んでいけば、自分でも思っている以上の、とてもステキなところに行くことも十分に考えられます。

そして、その可能性を広げるためにも、流れのままにいるということが最も力まない、しかし、とても有益な姿勢だなと思う今日この頃です☆

 

 

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どれほどの妥当性か

 

普段自分の採っている考えや発想が、それほど奇異であるようには思わない。

当然、自分自身の特性やクセみたいなのがあって、伝えようとする時にはそのフィルターを通してはいるというのはあると思います。

それなりに自覚はしつつも、内容において参考にすべきところはあると思い、それでも届かないということはどういうことなのかを知りたくもなってきます。

何としてでも伝えるとは思わないものの、いくらかはすくい取ってもらえると良いような気がします。

これは、人それぞれのタイミングや興味の傾向もあるので、今わからないからダメだというものでもありません。

お腹を減らしている人に向かって、金銀財宝の話をしたところで興味を持ってもらいにくいでしょうし、ワインを好きな人に向かってカレーライスのスパイスの話をしてもあまり響かないというのもあるでしょう。

それでも、その人の傾向として、ついぞ知ろうとしないままに終わるということもあるかもしれません。

自分にとって大切にしていることや大いに感化されたい考えであり、それらを発している人たちを見ると、相通ずるところが浮き彫りになってきます。

そうなると、水と油が混ざらないようなほど相容れないわけではありませんが、それぞれ別の道を行く人たちが、一方ではいるのだなという感覚を得るものです。

もう少し具体的に言うには、実際がどうであるかというのとは別に、毎月給料をもらうサラリーマンの感覚か、自分の才能や技術でもって収入に変えていくかの発想による差異で、こういうものはジワジワと個人に根づいているものにも影響を与えるものです。

外から採った感覚や発想であっても、それが自分と一体化していくうちにいつの間にかはがれにくくなるということはあるでしょう。

当然似ている人であれば親しくなる可能性は高く、そうでない人とはそうなりにくいわけです。

"気の合わない"人がいてしかるべしですし、それでも、気の合う人、似た考えを持つ人とは十分に仲良くなれているのだから、それでありあまるほどに十分ではないかという気はするものです。

そこでは、どういう人たちと出会いたいかということにもつながるでしょうが、いつも本質とは何かを問いかけながらより良さを目指す自分でいたいものです☆

 

 

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継続は力なりけれど

 

「継続は力なり」と言うけれど、何事も、単純に続けば良いというものでもない気がします。

同じことを愚直にやる必要があったり、愚直に続けるしかなかったり、そういう続けることでしか達成しないようなことは多くあるものです。

続けることで見えてくることやわかってくることも当然多くあるはずです。

それでも、額面通りにこの言葉を受け止めているようでは、時に危ういなと思うようなことも散見するわけです。

結構、これは人の集まりにおいて思うのですが、会社の創業期や何かの運動の立ち上げ期では、何か目標や目的を果たすためにメンバーが少しずつ集まってくるわけです。

そこで熱い思いをぶつけ合い、数々の試練に耐えていくうちに、人の集まりが強固になってきます。

人が集まるから何かがあるのではなく、何かを起こすために人が集まってくると、そのように言うこともできるでしょう。

あるいは、それが続くようにとばかり、内実が維持する方向に向かってしまっては、あとは衰微する一方のような気がします。

それが惰性であっては好ましくないもので、そこでは、人が集まること自体がかなっていれば良いのかもしれません。

しかし、物事は不思議なもので、そういうところには多く人が集まらないものです。

コマも回っているから安定するようなところがあるけれど、回り続けるためには新たに回すとか、より回るように力を加えないと、次第に回転が弱まってしまうものです。

時間がどんどん過ぎていき、決して戻ることがないように、あくまで進んでいくしか解決がないようにも思います。

そうしないと人の多くが引きつけられないという側面もあるでしょう。

その時々でやっていることや取り組んでいくことが多少なりとも変わろうとも、これは変わっていくしかないものですが、それでこそ活発さが生じてくるものです。

行動もそうですし、場所としてもずっと同じところにはいられないものですから、いつも動き続けるということが、実は根底ではずっと続いているというようなことになるのでしょう。

移動する距離が長いとか遠いとか、多く動き回っていることが活躍の度合いや必要とされている様子を測れるとする考えもあるくらいですから、そういう尺度を取り入れるのも良いのかもしれません。

このあたりの因果や前後を、巧みに入れ替えつつ、何を持って充実とするのかをいつも考えていきたいものです☆

 

 

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