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傍島康始|ブログ

蝶の羽ばたくがごとし

 

どんなに長い距離を行くにも、どんなに高い山に登るにしても、この身で体現するには愚直なまでに一歩ずつ進んでいく以外に、たどり着く術はないように思います。

それは人の成長や変化においてもそうで、いきなり突出した知識や技術が身につくようなことはないために、日々何かを手に入れようとして、ようやく少しずつ体得していくことになります。

そこでは、階段を一段ずつ上がっていくような感覚かもしれないし、積み木のようにひとつずつ積み重ねていくような感覚なのかもしれません。

それでも、成長や変化の度合いを、目盛りで測るように見ることができそうだということでは、どちらにも共通してあることでしょう。

年月を経ることなのか、回数を重ねることかの違いはあっても、どれくらいの手間や労力をかけて、どれくらいの上達・達成できそうかは、ある程度予測はできるかもしれません。

それは"目標"を掲げるように、いつまでにどれくらいできているのが望ましいかということにもつながってきそうです。

多くの人にとっては、少しずつとか、順を追って"次の"とか"新しい"段階へ進んでいくことが大半であるように思います。

しかし、随分と稀有な例として、右肩上がりとか二次曲線どころでなく、途中で時空がねじれるように急激な成長や変化を遂げる人がいます。

少しずつカラダが大きくなって、(人間の)子どもから大人になるのではなく、ある日、突然"さなぎ"が脱皮して蝶になるような、そういう一足飛びに変貌を遂げた例を最近目の当たりにしました。

当の本人でさえも、そういう成長や変化を遂げるとは思ってもいなかったらしく、「何年か前の自分に今の状態を伝えたら、きっと驚くだろうね」というように語っていました。

それくらいに劇的な移りようではあるのですが、それにしたって、具体的には何なのかはわからないけれど"より良く"なろうとして試行錯誤を繰り返す、その過程があったから突然花開いたと見ることもできるでしょう。

日々少しずつの歩みでは、理想や目標の高さに目もくらむこともあって、内心焦るようなこともあるかもしれません。

そして、成長や変化の度合いが見えなくなって、過度の「暗中模索」に陥ることもあるかもしれません。

それでも壁は押し続けないといけないし、地面を絶えず掘っていくことをしないと、打破すること自体、できないことになるものです。

今できることを精一杯取り組む、先のことがどうなるかはわからないけれど、きっと何かにつながるものとして、愚直に対峙していくのがかえって遠回りではないのかなとも思います☆

 

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やせ我慢も時に必要

 

急に暑くなってくると、(適度に効いている)建物や電車の中での冷房のありがたさを、言葉にするまでもなく強く覚えるものです。

そして、その涼しさにしばし身を任せていると、それがいかに効いているものだとしても、当然冬の寒さとは異なるし、果たして秋口の肌寒さ、冬の寒さとはどんなものだったかなと、季節の移り変わりの裏表として少し遠いものとして感じてしまいます。

今は夏、夏ともなれば、着るものも身軽になっていく=薄着になっていくわけで、汗を吸うとか、風通しの良いとか、そういう機能的なところに視点を置くとともに、カラダのラインが出るとか、露出が多くなるということに対して、いくらかの配慮もまた必要になってきます。

これは、女性に多くあるように思いますし、男性の場合で考えてみるには、あまりさわやかな例を挙げにくいというようにも思うものです。

たとえば、薄手のTシャツ・カットソーでは下着が透けてみえるもので、あえてやっているのかもしれませんが、できれば見えない方が好ましく思います。

その見えている肩ひもは、見えて良いものなのか否か・・・。

そのためには、上に着ているものと同系色にするとか、もう一枚キャミソールかタンクトップを着るとかする必要はあるでしょう。

このように、下着の線やそのものが見えるのはセクシーなのかもしれませんが、それが見えないようにもう一枚キャミソールやタンクトップを着るような心意気、それがスカートや薄手のズボンであれば、短いスパッツかタイツを履くような感じになります。

"汗っかき"な自分自身としては、重ね着をする方を選ぶし、サイズにしてもあまりムチムチ・ピチピチしないようにいくらかは気を配っているものです。

それがそのまま、女性のファッションの好みにも通じていくわけですが、肌を多く露出するのか、覆うところが多いのかで言えば、覆うところが多く&ややタイトに着ているほうが色気を多く感じるものです。

カラダのラインを強調しすぎるのもどうかと思いますし、また、多く肌が出ているから/タイトに着ているから良いというものでもなく、誰がそういう格好をしているしてのかというのも大切になってきます。

極端な例で言えば、過度に体重が多い/少ないようでは、いくら裸に近いような格好であっても、あまり見映えはしないことからもわかるようなことです。

今年も暑い夏がやってきています、季節とファッションとの関係も見ながら、楽しく過ごすことができたら良いですね☆

 

 

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頭の中の迷路

 

別段、何かに迷っているわけではございませんが、自分の中の変化に対して、どう折り合いをつけていくか、それについては結構頭を悩ますものです。

たとえば、今進んでいる道があるとして、この道をそのまま行くのか、あるいは、別のまた道を行くのか、それをいつかは決めるタイミングがやってきます。

それは、"HOW(どうやって)"のところで対処していく問題なのか、もう少し手前の"YES/NO(はい/いいえ)"のような可否の問題なのかの差異があるように思います。

基本的なところから大きく逸れるようなことでもなく、行きつ戻りつ何かを見定めようとしているし、あるいは、自分の立つ位置、居場所をどこに定めるか、そんなことも考える必要があるということなのかもしれません。

きっと、どこに寄りかかるわけでもなく自分の意志で選び取っていく、そういう誰に対してでなく自分に対する、強めの気概が今は必要なのだなと思います。

そして、時間的にも場所・物理的にも、これらはいつも一定でなく絶えず流れていくわけですから、この世界のどこかに確固たる自分のスペースがあるわけでもなく、今はそこにいるくらいのことなのでしょう。

もう少し大きな幅で見てみると、今はそこにいる、しかし、明日は?来年は?数年後は?そんなことは予想はできても、実際にどうなるのかだなんてことは誰にもわからないものです。

昨日が来て今日が来るように、今の毎日にしてもまったく同じ繰り返しではないけれど、概ね同じようにして続けば良いなと願うことはできるでしょう。

もしもそのように願うのならそうあるようにしていくだけのこと、その途中ではまた少し考えは変わることもあるので、また対処していくだけのように思います。

望むものの細かくこだわりすぎるのも、何の差異を認めないようなことになるので、何があるかはわからない、それでも何か"良きもの"はあるだろう、そう漠然と思うくらいのことで良いのかもしれません。

だから、極端に言ってしまえば、何にとらわれることもなく、そして、何に従い過ぎることもなく、ひたすらたゆたうようにしているのが最善なのでしょう。

あとは、自分自身がどこに移り行くのか、自分の意志や行動だけでないところで、導かれるままに任せるだけです。

決して自分の考えや主張がないというようなことではなく、お天道さんなのかそれに類するものなのか、何か大きなものに見守られているという感じでしょうか。

仏教的な"諦める"ことが、"物事を明らかにする"ことであるように、そういう静かな心持ちにたどり着けるのなら、その時にわかることも多いのでしょう。

それをひとつの到達や励みとして、今日もまた歩んでいくのです☆

 

 

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