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傍島康始|ブログ

ひたすら続けるべく

 

どこに向かっているかわからないような時にでも、あるいは、自分のやっていることに何の意味があるのかわからないような時であっても、「黄金の道」を進んでいるとか、何か「本質」を目指しているとかの"確かさ・確信"があれば、たとえ今はそうでなくても構わないのではないかという気がします。

何かに向かうという意思、それは頂上は見えないし行き着かないけれど、そこを目指して山道を行くような境地とも言えるかもしれません。

傍目に見れば、とにかく(そこから動かない)壁に向かって押す力を加えていくような、決して手をついているだけでないようにして、それを続けていくしかないように思うものです。

体力をつけるでも、走り続けることでどこに行き着くかわからないけれど、とにかく足を前に出して走り続けないことにはどこにもたどり着けないし、どれくらいの距離を走り切ったから"これでおしまい"ということでもないのです。

昨今の風潮として、いかに目覚ましい成果や結果を上げるかに躍起になってしまいがちょですが、もちろんそれを重視する一方で、前向きに取り組むとか、改善を施しながら上達しているというような過程を見ることも大切であるように思います。

「ローマは一日にして成らず」とあるように、それが大きなことであるとか時間がかかるようなことであれば尚更、一足飛びにはいかないものですから、徒労に終わることもあるし、なかなか報われないことが多いかもしれませんが、それでも少しずつでもやらなくてはいけないことなのかもしれません。

また、やがて目覚ましい記録を打ち立てたり、長い距離を走り通したりしたところで、何の表彰も名誉も与えられないかもしれないけれど、その行ったこと自体の経験や感覚は自分の身体に刻まれているのだから、それはそれで構わないとも思いたいものです。

見た目にはさほど変わらなくても、技術か何かでその前後で変化していることは必ずあるはずですし、心構えや自信のところで得るものは相当に大きい気がします。

ある地点に行って戻ってきても、少なくとも時間においては刻一刻と流れているから、それだけでも決して前と同じということはないものです。

何となくの立ち位置、足の踏みしめる位置は変わっているはずだと思うのならば、何もやらないでいるよりかは、果敢にアタックしてみるということも大切なのではないでしょうか。

成否がどうこうであることとは別に、感覚的にはもちろんのこと、自分の身体でもって知ることはきっと多いはずなので、そこを大切に思っていきたいものです。

自分自身においては、思っていることが少しでもあるのならば、できるだけ言葉にしておくこと、それは、いついかなる場合でもやらなければいけないことのひとつであるように思います。

義務として課している面もあれば、情動に突き動かされてやっているだけの面もあって、そういう理由や背景は、いろいろあって良いとも言えるはずです。

そして、しばらく続けていくうちに、それがその人なりの「道」となっていくようにも思うので、何もやらないでいるよりやった方がうんと良いとなるわけです☆

 

 

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寄せては返す波のように

 

「因果応報」の別の言い表し方としても成り立ちそうな、自分の行ったことの総和が直接・間接入りまじながら何かのカタチでまとまって戻ってくる、そのようにとらえるひとつの発想があります。

普段では、ひとつやってひとつ返ってくるように、単独・個別のものとしてとらえるのが比較的容易であるように思いますが、数が多いのであれば、同じようなことはひとまとめにするのも良いのかもしれません。

それは、効率という点からもそうですし、部分ではなく全体としてとらえるというのも、結構多くの気づきが得られるものなのかと思います。

そして、今の自分にとっては"エネルギーの流れ"を読み取るようにするのが、明らかなイメージをつかみやすいというのがあって、それぞれに何かに置き換えてみることが理解を進めるのにかなり有効です。

もう少し目に見えるように考えるには、水の流れとか風向きみたいなことになっていくもののように思います。

たとえば、今回の場合では寄せては返す波を思い浮かべると良さそうで、押し込むだけ押し込んだら、その"余波"と言いますか、それ相応の跳ね返りがあるのかどうかという感覚のように思います。

最初は大きな力でもって、しかも一定の期間はずっと押し続けないといけないし、場合によっては途中でやめてしまうということもあるかもしれません。

それでも、大きく引いた潮が、また満ちるようにしてとか、波を伴って打ち寄せるようにしてとか、大きく息を吐いた後は、大量に吸い込むことができることに似ているとも言えそうです。

これはまた、まさしく"バネ"のイメージでもとらえられるようなことで、グッと力を加えることで一旦は縮む、そこから反動の力を利用してより遠くなり、より高くなり距離を移動することが可能になります。

いずれにしても、自分の具体的に行ったことだけでなく、そっと意識を向けることでもそうですし、"世界"に働きかけた何かしらは決してどこかに雲散霧消するものでなく、やがては巡り巡って自分の手前に戻ってくるだろうことはあるわけです。

最近、別立てで「閾値を越える」ことをつらつらと考えているわけですが、こういうことも①まず、ある程度の量や数をこなす、②そして、しかるべき反応や結果を待つというように、凝縮して→成り行きを見るというのが観察するにはやりやすいことに思い至るものです。

良い発想を得ることができたのならば、規模のいくらかはあるでしょうが、自分でも試みてみる、それが何より手応えのある知見を得るのに大切なことだなと思います☆

 

 

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目が見えているだけで

 

目がパッチリ二重で大きいから"最高!"とも限らないもので、それ以前に二つの瞳でちゃんとモノを見れているという、見えること自体をありがたく思うと良いのかなと思います。

人によってはそれがかなわないということもあるし、そうでなくても普段何かと酷使しがちな目を手で優しく押さえ、そっといたわってみるということも必要でしょう。

目のカタチや大きさについては、カラダのバランスをマス(全体)で見るべきものという発想を持ち出してみると、顔の輪郭や手足の長さなどと調和が取れているかどうかが大切になってくるので、大きさに比例して楽しい気分になるとは限らないものです。

他にも、背の高い低い、横幅の細い太いなど、千差万別の物足りなさがあるかもしれませんが、内面の問題も絡んでくるので一概には言えないかもしれません。

背が高い方が良いなと思っても、2mを越えるくらいまでいくと着る服のサイズや食べる量など、小柄な人とは異なる悩みがありそうですし、8頭身になるべく小顔が良いなと思ってもそれでは顔の印象もスケールダウンして薄まってしまうなんてことも起きてしまいそうです。

どれが一番良いということもなく、人それぞれの特徴があって構わないし、健康を損なわい限りであれば、おおむね良好とすればそれで構わないでしょう。

あるいは、どうにかしようと腐心ばかりしてしまうと、見た目のバランスというだけでなく、骨格や筋肉においても歪みが生じてくるということもあるから、わざわざ無理な力・過度な力を加えることはないでしょう。

また、極端に食べないとか食べ過ぎてしまうとかになると、精神と肉体のバランスを取ることに支障が出てきてしまいます。

それに、たとえば、世の中、クレオパトラのような絶世の美女ばかりでは、その美女が多いあまり、ありがたみが薄れてしまったり、誰もが際立たなかったりしてしまうものです。

また、そうやって多くの人の耳目を集めることが果たして最善なのかと言われると、それはまた別種の悩みを抱えることにだってなるかもしれません。

こういうことをつらつら考えてみると、「隣の芝生は青い」ような話になるのかもしれず、それよりも日頃楽しい気分で過ごすとか、自分の持って生まれた体型や体質を軽んじることなくしっかりケアしていく態度が良いのかもしれません。

自分のことを十全に知っているかといえば、もしかすると誰よりも知らない存在であるかもしれないので、自分自身のことをしっかり意識してみるというのも良いのかなと思います☆

 

 

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